文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

どうにもならない不確実なことを単純化するのはバカである

注意書き

この記事は、俺のEvernoteにあったメモを加筆修正したものである。文体から俺が書いたものだと思うが、もし他人の書いたものだったら、お詫びして記事を消去する。

苦労して書いたはずなのに忘れている。本文とと矛盾しているのである。ダメだな、俺。

 

安易に結論を出さない

ネガティブ・ケイパビリティという概念がある。不確実なものや解決できない状況に耐える力のことである。辛抱つよさ、どうにもならないことを受容する力といってもいい。

治療方法が未だ解明されていない慢性病に疾患していると、とてもじゃないが耐えられないときがある。死ぬような病気でなくとも、生活の質の低下は精神を病む。効果が怪しくても藁にも縋る思いで神頼みしたくなるのである。

そういった怪しい民間療法は、単純明快で具体的な回答を用意しているから、それで楽になるならと思考停止してしまうのである。

 

このような、どうにもならない苦しみに耐え葛藤する人間につけこむ人間には腹が立つのである。

精神的な問題もそうである。

自身の知りうる知識の枠の範囲内で、すべてを説明しきろうとするな、といいたい。
たとえば、子供の描いた絵を分析するにも、月を描いたら、それは不安の象徴だから愛情が不足しているだの、勝手なことをぬかす輩がいるが、ふざけるなという話である。


誰であっても、その人のいうことややることを合理的に説明して安心しようとするな。人の複雑さをすべて説明し尽くせるほど、まだ科学は進んでいないし、ちっぽけな知識で説明がつくほど人間の精神の奥底は単純ではないからだ。


脳は楽をしたがる。分かりたがる。そうすると安心する。マニュアルでやり方を知りたがるのは、自分自身で考える時間を短縮したいからだ。


意見が対立したときに、白か黒かに単純化して「どちらかに付く」のが大切なのではない。

 

「私の敵に具わっている美質を認めないわけにもいかないし、私に与する人々の内に欠点があるのも認めざるをえない」
モンテーニュ

 

敢えて結論を棚上げする。つまり慎重な姿勢であり、寛容の精神、度量の広さだ。白黒はっきりさせるのではなく、皆のためになにが良いのかを考え続けることである。

どっちつかずの日和見ものといわれても、敢えてどちらの味方もしない。問題の本質にのみ忠実になろうとする態度こそが善なのではないか。 


以前から疑問に思っていたが、なぜ多くの人は分かりやすさを求めているのだろうか。
ワイドショーや知的バラエティなどのテレビ番組ではわかりやすい解説が好評だし、YouTubeでも知的と言われているタレントが複雑な問題を単純化して解説する動画の再生回数が軒並み増えていると言う。

わかりやすい話は忘れやすい。自分で苦労してプロセスを辿ったものは、忘れても自力で戻れる。だから、再びトライしても時間はかかったとしてもやり通せる。
わかったつもりになったことは、あとで人に説明できない。にも関わらず、知った気にはなっているから厄介だ。まあ、半分以上俺のことだが。自戒を込めて。


解決が非常に難しい問題を単純化しすぎるのは、バカになる近道である。

 

ここまで約1200文字

メモを転載して加筆修正した。だいたい1.5倍程度のボリュームになったが、時間は2時間弱かかった。論点がよくわからない文章だったので、修正に苦労した。

要するに、どうにもならない不確実なことを受容し耐える力について考えていたら、どんどん考えが飛んで、自分の能力内で問題解決し答えをすぐにだすのは脳が安心して楽したいだけといった主張や、意見を白か黒かと二択にしたり、複雑なものを簡単にしすぎるのはいかがなものかという言及に至った次第である。

最後の一行が結論である。

文章を直すのは、ある意味新規で書くより疲れる。ほとんどが推敲である。しかもそれほど整っていないのが、骨折り損のくたびれ儲け感を増長している。

まだまだ書きたいことが山ほどあるのだが、書き始めるまでが遅い。

が、いちどキーボードを触り始めると割と集中している。作業は手を付け始めるとリズムが生まれる。

ここまで1600文字 二時間ちょいである。

悪と正義

普段から考えていることを書いてみたい。

悪い 正しい

よく、あいつは悪い奴だとか、あの人は正しいとか言う人がいる。じゃあ、どこが悪いのか、なにが正しいのかと問い詰めると、要領を得ないのである。

なんとなく正しい。なんとなく悪い。なんとなくでは説明になっていないのに断言するのである。言っている本人にもよくわかっていないのである。

 

俺の中では、正しいというのはバランスをとろうと働く心の動きだと思っている。

ぎゃくに、悪とはバランスがとれていない状態を是とする心の動きである。

 

イヤなことをした相手にやり返したいと思う気持ちは正しいと思う。むしろ、やられたのは自分が弱いのだから仕方がないと本気で思っているのは悪だと思う。

やられた以上にやり返すことに気持ち悪さを感じないのは悪である。自分のなかで丁度これくらいが妥当だと思うレベルを罰として与えたいと考えるのが正しいし、健全だと思うのである。

自分より強い人間にやられても仕方がないと考える人間は、逆に言えば自分より弱い人間に何をしてもいいと考えているのである。自分が栄えるためには、なるべく強い相手との争いを避け、弱い人間を食い物にすればいいと思っている。人間の権利は平等だとか思っていない。

俺が言いたいのは、犯罪者=悪人ではないということだ。人を殺したり傷つけたり盗んだりする行為をする人間は犯罪者ではあるが悪人かどうかはまた別だと思っている。

犯罪を犯さなくても悪人は存在するし、正しい人でも犯罪者はいると思っている。

 

天秤は正義の象徴である。つまり正義とは、均衡するにはどうしたらよいかを考えることである。

裁判では、法に照らして裁く。そうでなくてはペナルティを与える根拠がないからである。「なんとなく悪いと思うから死刑にする」では子供の社会である。

いまは犯罪や法について語る気はないので、話を元に戻そう。

 

自分に良くしてくれたからお礼をしたい、あるいは借りを作りたくないからお返しをする。これは正しいと思う。返報性の法則である。自分だけが得をするのに負い目を感じるというのは、つまりはお返しをしてバランスをとろうとしているからである。

相手が勝手にしたことに、お返しなどしなくていいと考える人もいる。ただ乗りをしてもなんとも思わない人もいる。そういう人間が集団の中で嫌われるのは当然である。

フリーライダーは、「私はなにも悪いことはしていない。ただ、テイクはするがギブしていないだけだ」と主張するかもしれない。

あるいは、無形のなにかを与えていると主張するだろう。たとえば、笑顔で気分を良くしてあげた、褒めた、喜んであげたから幸せな気分を提供したなどである。

が、俺に言わせればバランスを取ろうとしていない時点で悪である。

 

ベクトルと量が重要

損害を与えた側と与えられた側、どれだけの損害があったのか。

得した側と与えた側 どれだけの得があったのか。

 

よく、正義も悪もない。自分の正義は相手から見たら悪だ、という。

俺も昔からそう思っていた。というのも、機動戦士ガンダムのオープニングを子供のころに聞いていて、どうも納得できない歌詞があったのである。

「正義の怒りをぶつけろガンダム

なんだよ正義って。連邦軍が正義なのか?それともガンダムが正義なのか?

ジオン軍からすれば、ガンダム白い悪魔だぜ。どちらにも主張がある。正義とか、なんか変じゃないかと、ガキの時分からずっと思っていた。

でも、大抵の人は、自分が正義の側のように話す。あるいは、粋がって自分がワルの側のように話すのである。

つまり、正義と悪は主観であるわけだ。自分からみて相手のほうが悪い、あるいは自分のほうが悪いと判断するのである。

また、よくあるのはクレーマーや僻み根性である。

「自分はこんなに苦労しているのに、あいつはなんで、あんなに物事がうまく進むんだろう。あいつにも地獄の苦しみを味わせてやらないと気が済まない。ズルい。きっとズルをしているに違いない。私が正義の裁きを与えてくれよう。これは天誅だ。」

こんな理由で信じられないような嫌がらせをしてくるヤバい人がいる。だが、いわゆる頭のおかしいひとであっても、方向性と量を勘違いしているだけで、自分の中では正そうと、バランスをとろうとしているわけで、ある意味では筋が通っているのである。

俺がもっとも悪だと思い、近づきたくすらないのは、こういう人ではない。

 

明らかな不公平があるにも関わらず、それに対して怒りを感じない人である。

そういう人は、他人を奈落の底に突き落としても罪悪感を覚えないし、代わりに自分がそういう目にあう覚悟もあるからである。こうした理不尽を受け入れている人が最も悪だし、恐ろしい存在である。

結構普通にいるのである。そういう人が。

みんなの分を横取りしてうまい汁を吸っている奴がいても、へえ、うまくやってるな以上の感想を持たないし、友達が自殺しようが関心を持たないような人である。

支払いをなるべく他人に仕向けて自分の財布は開かない。気が弱いお人好しにタカりまくる。強い立場の人間には逆らわないが、別に忠誠心が高いわけでもない。弱い立場の人間にはトコトン強い。

しかし、人当たりは悪いどころかむしろ良く、いい人そうですらある。話していても、寛容というか、物事にこだわらず感情の起伏が激しくない。穏やかである。人を責めるような口ぶりもない。特徴といえば、人の話をスルーして自分の話しかしない。

なにかを与えても一切返報がなく、むしろ与えれば与えるほど要求するタイプである。

ネズミにミルクを与えたら、お礼に金のありかを教えてくれるどころかチーズをよこせ、と言ってくるのである。

 

自分がされたら嫌なことを相手にもしないという考え方が弱いのが悪の方向性で、因果応報を信じるのが正しい方向性なのかもしれない。

コミュニティでは、集団の一人としての貢献が貴ばれるからである。ギブアンドテイクの精神が必要だからである。フリーライダーを集団から排除するために、あいつは悪だと定義する必要があるのである。

とはいえ、自分だけは特別で、人に非道なふるまいをするくせに、自分だけは酷い扱いを受けないと思っている人もいるが、それは想像力が働いていないだけで、悪とはまた別のような気もする。

なんとなく思っていたことをダーっと書いたので、深く考えていない。

ここまで2600文字 約2時間程度。

毎日書く。

初段までの道は険しい

将棋の練習について、ある程度の考えが固まりつつある。

記事を書くのも楽しいが、少しずつでも将棋をやらないと上手くならないので、その辺りのバランスも踏まえて活動する次第である。今日は、ざっと練習のねらいについて書こうと思う。

以下の文章は、常識的すぎて参考にならない、あるいは全くの思い込みで事実と反する場合がある。あくまでも俺の考えかたなので、参考にするなら自己責任でお願いしたい。

当面の目標は初段になること

初段というのは、ピアノでたとえるとクラシックの名曲を下手なりに通しで弾けるレベルではないかと考えている。童謡であれば初心者でも弾けそうだが、やはり憧れの名曲を弾けてこそ楽しいのだと思う。基礎を身につければ、あとは完成度を高めていく方向になるからである。

将棋の基礎を身につけて、対局そのものの質を向上させると、もっと将棋が楽しくなる。そんな気がするのである。今は正直楽しいわけではない。思いどおりに指せずにイライラすることしきりである。だから、このフラストレーションを解消したい一心で強くなりたいと希望するのである。

 

得意戦法を身につける

初段になるには得意戦法を持っているのが絶対条件である。そうでなくては初段になれるはずがないのである。

まず、居飛車振り飛車か、オールラウンダーか、自らのスタイルを決定するのだが、中級者までは振り飛車が良いという。受け重視であり、居飛車より覚えることが少ないからである。俺は敢えて居飛車でいこうと考えている。理由は、プロ棋士の採用率が居飛車のほうが多いからである。もちろん振り飛車も覚えるつもりだが、俺は器用ではないので、まずは居飛車を徹底的に練習するのである。

棋書を数冊購入した。居飛車の基本戦法と右四間飛車の定跡本である。相居飛車対策とノーマル振り飛車には右四間で応戦するつもりで購入した。ざっと読んだら、ぴよ将棋で研究してみようと考えている。お互いの棋力が初段以上ないと、棋書通りの展開にならないし、書いてある変化にならないからである。

ぴよ将棋を使う理由は、将棋ウォーズで初段と対局したら、おそらく瞬殺されるので練習にならないのである。

ちなみに、将棋ウォーズも将棋倶楽部24もアカウントはあるが、一度も対局したことはない。なんとなく弱いうちは対局したくないのである。

基礎ができたなと思った時点で実戦するつもりである。

 

中盤の構想力を高める

棋譜ならべ、次の一手、将棋ウォーズ実況を観る。これらが役に立つと考えている。

棋譜ならべは大局観が身に付くと思うのである。一つ一つの変化を深く読むのではなく、全体的な局面を観るのである。指す前に四隅の香車を見よという格言があるらしい。おちついて盤面を見渡すと良い手が見えてくるという意味であろう。

どうやって攻略するか、どう受けるか。相手がされて一番困る手を考えるのである。

プロも中盤に一番持ち時間を使っているように感じる。序盤は研究しているし、終盤は詰みが読めれば早いからである。

常に次の一手のような手が必ずしもあるとは限らないのである。とがめる悪手も互いになく、なにを指したら良いのかわからない局面であっても、ぬるい手を指したくはない。自分が指したい手がいい手かどうか、いまひとつ分からないときでも狙いをもって指したいものである。

将棋実況チャンネルは、強い人が構想を話しながら指してくれるので勉強になる。

駒の働きと駒得どちらも大事なので、臨機応変に作戦を変更する必要もある。戦略を練るという意味で頭を使うのは中盤だと思う。

終盤力は詰将棋の数をこなして

俺は、詰将棋をせずに終盤が強くなるはずがないと考えている。将棋は終盤が命である。ぱっとみて詰みが見えるようでなくては、せっかく勝てた将棋が負けになるのである。

詰将棋パターン認識である。とにかく反復練習あるのみである。ひたすら3手詰をやりこみ、暗記するくらいパターンを覚えるのである。すると実戦で似た局面になったときにヒントになるのである。

ドラゴン桜という、偏差値の低い生徒を東大に合格させるテーマの漫画を読んだとき、数学の勉強法とされたのも同様だった。徹底的に問題集をやりこめば、見た瞬間に解き方がわかるようになるという。計算問題はスピードが命だから、いちいち頭で考えていては間に合わない。パターンに反応するよう、脳にデータを徹底的に叩きこむのである。その都度数値は違っても考え方は変わらないので、当てはめれば答えがはじき出される寸法である。

 

さて、ここまで1800文字である。不思議なことに一時間半ほど経過している。

やはり、考えながらだと書くのが遅くなるようである。

できれば一時間程度の時間で2000文字程度の記事を仕上げたい。なるべくなら読書と将棋に時間を割きたいからである。文章を綴るのは習慣として止めたくないので、明日からはボリュームを減らす方向で考えてみよう。とにかく書き続ける。駄文であろうがなんであろうが関係ないのである。

 

なぜ考えを文章にするのが辛くなったのか

なぜ自分の考えていることを文章にするのが辛くなったのか、その理由を考えていきたい。

 

原因となった経緯はこうである。

俺が小学3年生のころの話である。当時の俺は喘息もちで、ひと月に三日は学校を遅刻したり休んでいた。

喘息の発作は大抵深夜にひどくなるので、深夜に救急対応してくれる病院に通院していた。呼吸が楽になるまで点滴をしてもらい、タクシーで家に帰ると朝刊が届く時分だったのである。

ふらつきながら布団に入って微睡むのが朝の六時である。流石に睡眠不足だろうと親の判断で数時間寝てから学校に行っていたのである。

3時限目あたりに登校するのだか、正直な話、学校など行きたくはない。しかし、病気を言い訳にして甘えていると思われるのはシャクであった。

俺の中では頑張っているつもりであったが、担任の先生は「みんな、ちゃんと起きて登校しているんだ。お前だけ特別扱いするわけにはいかない」と厳しいのである。

割と昔の人には、遅刻すらならむしろ休んだほうがマシだという考えが浸透していて、それはルーズだと思われるくらいなら、まだ病弱だと思われるほうが良いという理由である。

休んだ日も怒られた。教頭先生がガンになって入院したときにお見舞い用にと千羽鶴をみんなで折ったことがあった。その作業は何日か授業を潰して行われたのだが、たまたま初日を除いて休んだのである。朝起きたら高熱だったからである。

みんなは折ったのに一人だけズルをして休んだ子がいると父兄から批判があったそうである。先生にはお前の勝手な行動で面目を失ったと怒られた。どうせ熱など嘘だろうと言わんばかりであった。

担任の先生は、大学を卒業してまだ数年くらいの若い男性で、ぴしっと七三に分けた髪と黒縁のメガネが爽やかで、わりとPTAのお母さま方には評判がよかった。160センチに満たない小柄な体躯であったが、体育の授業はとりわけ気合が入っており、冬でも半袖のポロシャツを着ていて、子供のころから風邪ひとつひいたことがないのが自慢であった。

健康優良児がそのまま大人になったような人だったから、体が弱い人の気持ちなど知る由もなかったのであろう。俺のことを受け入れがたい怠け者だと判断したのも、ある意味仕方がなかったのかもしれない。今思い返すに、俺はこの担任教師に目をつけられたのは必然だったのだ。

授業妨害

とはいえ、先生に徹底的にしごかれたのは俺自身に問題があったからである。もし俺が先生の立場だったら、手を焼く問題児に対してよい感情を抱かないし、自分の責任でなんとかしようと思うからである。

 

算数の時間のことである。先生が黒板に割り算の計算式を書き、「解き方が分かるものはいるか」と問うと、数人の児童が挙手した。誰もがクラスで勉強のできる子たちであった。

どうせ誰かが正解して終わるのだし、そんなことより早く授業終わらないかなと思っていた。今日の給食はカレーなので楽しみなのである。

アレルギー性鼻炎が酷く、持っていたポケットティッシュはだいぶ少なくなっていた。このぶんでは、まだ濡れていない部分で鼻をかまないと足りないな、などと思っていたら先生の怒号が飛んできた。

「お前、なんべん言ったらわかるんだ!鼻をかんだティッシュを机に置くな。みんなが気持ち悪いだろう!」

「いや、あの、これは、鼻をかみすぎてティッシュが足らなくて、これで節約しようと、その、」

とっさに言い訳をした。

「俺、言ったよな?鼻をかんだティッシュは見えないようにポケットにしまえと。クラスのみんなは優しいから言わないけどな、はっきり言うとな、鼻かんだティッシュは見るだけで不愉快なんだよ」

先生はもっていた白墨を叩きつける勢いで怒鳴りちらした。

先生の怒りは収まらない。本当に申し訳なくなり、なぜ言われた通りにできないのだろうと自分のことを責めた。そういえば、昨日にもまったく同じことで怒られたことを思い出したのだ。こんなに怒られても忘れるなんて、本当に俺はばかだと思った。

「ごめんなさい、忘れてました」

「忘れてた?お前は昨日もちゃんとゴミをポケットにしまいますって言ったよな?お前はうそつきだ!うそつき!うそつき!」

先生は吐き捨てるように怒鳴った。クラスは静まり返っている。みんなが俺を非難しているような視線を感じて、体がこわばり動けなくなった。

それからどうなったのか後のことは覚えていない。

 

その先生とはたくさんの約束をした。

3年生になってもかけ算九九を暗記していなかった。とくに7の段と9の段は苦手だった。来週までに完璧に覚えると約束した。

漢字テストで間違えた漢字を100回書いて提出する約束をした。

しかし、約束した課題を守ったことはほとんどなかった。

「どうせやってもできないので、どちらにしても説教されるなら、やるだけ損だと思いました」と言い訳するつもりだったからである。

勉強面でも生活面でも、およそ普通の児童のようにできなかったし、もともとやる気がなかったのである。

「みんながやっていることを、なぜお前ができないんだ!教えてやろうか。できないじゃなくて、やらないからだ!お前、先生のこと馬鹿にしてるんだろ?、ええっ」

涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らして、違います、馬鹿にしていません、ぼくがバカなんです、ごめんなさいと謝った。

「いくら頑張ったところで、どうせできないので、僕にはなんの期待もしないでください」

じっさい、みんなができることができなかった。頑張ってやっても、「これは間違いだね」から、「ちゃんと真面目にやってるの?」となり、そのうちに「なんでできないんだ」に先生の口調が変わっていくのだ。どんどん普通扱いされなくなる過程が恐ろしかったのである。

だから、この子は頑張ってもできない子だから他の子と同じように扱うのをやめておこうとお味噌扱いしてくれたら、きっと楽になるだろうなと思っていたのである。

 

「いいか、お前が先生に怒られている間の時間は、みんなの時間なんだ。お前のせいで、みんなに使う時間が少なくなったんだ。みんなに謝れ。みんなの勉強の時間を無駄遣いしてすみませんと謝れ!」

俺は授業妨害をしていたのである。本当に申し訳ないと思った。みんなの邪魔をするつもりなどなく、ただ普通でいたかっただけなのが、なぜ分ってもらえないのだろう。

のろのろと立ち上がると俺はみんなに詫びた。そして、怒る時間がもったいないなら、放っておいてほしいと思って、そう伝えると先生は激怒した。

「いっちょ前に屁理屈を言いやがって、このクソガキが。理屈を言うな理屈を」

「約束は守らない、やる気はない、屁理屈ばかりいう。お前頭がおかしいんじゃないか!病院に行って診てもらえ」

「わかりました。病院に行って診てもらいます」

「そういうこと言ってんじゃねえんだよ!お前先生をおちょくってんのか!」

「おちょくってないです」

俺は普通に話しているつもりであったが、新学期が始まって数か月で、すでに担任教師は我慢の限界を超えそうになっていたのである。 

 

 作文事件

作文を綴る時間の出来事である。国語の授業の一環で、400字詰めの原稿用紙を配りテーマに沿った作文をするのである。

「きょうはみんなに作文を書いてもらう。テーマは『ゆめ』だ。みんなの夢を先生に教えて欲しい。あとな、念のために言っておくけど、寝るときにみるアレじゃないぞ」

先生がチラッとこちらを見た気がする。先手を打っておいたぞと言いたげに。 

「それとな、題名は一番最後に書いてもいいぞ。先に本文を書かないと時間がなくなるからな」

 

「先生。ぼく、作文になにを書いたらいいか分からない」

誰かがぼやいたように言った。

「そんな難しく考えなくていい。将来になりたい職業とか、やりたいこととか、そういうのを精いっぱい綴ってくれればいいんだよ」

みんなが自分のなりたいものの話をはじめると、先生は手をパンパンと打ち鳴らし、はい、だまって書く!というと腕を組んで椅子に腰かけた。

和気あいあいとしたやりとりは静まり、鉛筆のカツカツと硬質な音だけが教室に響いた。

俺は思った。作文なら正解がないのだから、少なくとも不出来で怒られることはないだろう。作文用紙に意味のある文章が書いてあれば いい。そう解釈したのである。

ゆめを書けというが、本気でゆめが思いつかなかった。将来にどうなりたいとかより、今のこの瞬間のことで頭の中が精いっぱいだったからである。

「子供が学校に行かなくても済む法律ができました」

こんなことを書いたら怒られるような気がしたので書くのを断念した。要は、まったくの嘘であろうとなんだろうと、それらしいことが作文に綴られていればそれでいいのである。

なら、徹底的にどうでもいいことを書くことにした。なるべく自分の本当に思っていることから離れているほうがいい。

 

ぼくのゆめは、おとなになったらお母さんを月へ旅行につれて行ってあげることです。

ぼくが大人になったころには、じんるいは月に行けるようになっていると思います。いっしょうけんめいに、いのちをけずって働くと宇宙鉄道のパスが買えるのです。月の生活が気に入ったらかぞくでひっこします。ちきゅうにはイヤな思いでが多いからです。でも、しぬころにはちきゅうにかえりたくなるとおもうので、ねんのためにパスはすてずにもっておきます。

月に旅行

 

 

こういう内容で作文を提出したのである。銀河鉄道999が大好きだったので、宇宙とか未開のフロンティアに憧れがあったのである。ゆめには違いないので、怒られることはないだろうと高を括っていた。

次の週、教室に入るなり藪から棒に先生が怒鳴ってきた。

「なんだ、この作文は!ふざけてんのか?」

俺が先週書いた作文を手にしていた。

「先生はたしかに、ゆめを書けといったが、誰がこんな夢物語を書けと言った?ああっ」

「いいか、夢というのはな、将来、大工さんになりたいとか、野球選手になりたいとか、ケーキ屋さんをやりたいとか、そういうことだっ。お前以外はみんなちゃんと書いているんだよ!なにが月に旅行だっ?引っ越したいだ?寝言か?お前、本気で俺のことナメてんのか?」

「それになっ。なんで題名が一番最後なんだよ。題名は作文用紙の一行目だろ!」

「それは、先生が題名は最後に書いてもいいと言っていたから、最後に書きました」

「そういう意味じゃねえんだよ。本文を書いてからタイトルを書いてもいいと言ったんだよ。揚げ足とってんのか?お前、ホンモンのバカか?ええっ」

先生は俺の作文を広げると、俺の口調を真似しながら読みあげ始めた。

そして、俺に一日中教室で立ってろと命令した。屈辱だった。

隣の席の女子が薄笑いしていた。授業中に立っていると後ろから消しゴムが飛んできて頭に当たった。休み時間には、誰かが俺の口調を真似した先生の真似をして笑っていた。トイレで大をしようとすると、何者かが下の隙間からホウキで突いてきた。

あいつはバカだから、先生公認でなにしてもいい、みたいな空気があったのである。

給食は罰として理科準備室で一人で食べさせられた。ホルマリン漬けのカエルの解剖など不気味なものが置いてあり、決して愉快な気持ちになるような部屋ではなかったからである。

そんなに非難されるほどひどい内容を書いたとは思えなかったが、きっとそれは俺がバカだから理解できないのだろうと思った。普通の人は書かないような内容だったのだろう。なんで普通になれないんだろう。

作文を書くのが怖くなった。そのつもりがなくても人を嫌な気持ちにさせてしまうし、なんといっても自分が深く傷つくのは懲り懲りだったからである。

普通がわからないのに、どうやって普通にしたらいいのだろう。とくに文章を書くと、意図せず人を不愉快にさせてしまう。その理由もわからない。それがわからないうちは思ったことを書いてはならないのだ。

ルールが全く分からないゲームを強制的にさせられて、突然ダウトだのアウトだのと宣言されているようなものである。ゲームから降りたいのに降りることも許されないのである。苦労の挙句にルールをつかんだと思っても、自分が思っている法則とは違うのである。それが特例なのか、ルールを勘違いしているのかもわからないのである。

ルールを知るには、他人を良く観察して真似をし、自己主張しないことだと気がついたのは、もう少し成長したころである。

みんなと同じようになりたい。普通になるのが俺の本当の夢だったのである。

 

先生も親も、口をそろえて「まともになれ、普通になれ」というからである。

学校であったことを親に話すと、「お前が悪い」と怒られるような気がしたから話したくなかった。

先生から何度も親は呼び出しを受けていた。しかし、母親は気が強かったから、謝るどころか先生の問題点を次々と指摘していたのである。むしろ指導力に問題があるから児童一人の教育もままならないのであって、自分の問題を父兄に転嫁するなと言い放った。さらに教育委員会の知り合いに無能な教師がいると話を通すとまで脅していたのである。他人様に迷惑をかけまくっていた出来の悪い息子を棚に上げて、よくもまあそこまで言いきれたものだと、大人になってみて感心したものである。担任の先生が俺の親をクレーマー扱いして毛嫌いしていたのも納得である。

 

このような事件を経験し、俺は考えを文章にするのが怖くなったのである。

 

 

ここまで5400文字 なかなかの長文である。

下書きを含めると3時間くらいか。やや推敲したので1時間1800文字ペースは悪くない。

推敲しなくてもスラスラと読みやすい文章が書けるのは、圧倒的に書いている人である。まだまだ始めたばかりなのだから高望みしても仕方がない。

なるべく読みやすくなるように工夫しながら早く量を仕上げるようにする。

さらには面白くなるように工夫する。他人様が読む前提で書いているからだ。それがたとえ自分の日記のようなものであっても。

日記は感情より、あった出来事だけを書く方が良いらしい。

この記事は、書きながら自分を見つめ直し、頭を整理しながら、かつ文章力を高めるためのものである。そうであっても、やはり読者の存在を無視して書いてはならないのである。文章は読むためにあるからである。

学びと才能について考えてみる

なぜ、中高年になってから学びはじめると自分には時間がないと焦るのか

「僕には時間がない」「俺に残された時間は少ないんだ」

学習や、趣味、やりたいことに一生懸命な人がよく言うセリフである。かくゆう俺も、常にそう思っている一人である。いまも文章力を高めるために、この記事を書いている。

今回は、結果を早く得たいがあまり、焦る気持ちについて書き連ねる。

 

山の頂を見てしまう

まず、時間がないと感じる理由として、到達したい地点である山の頂と現在地のギャップがある。

これからやらなければいけないことが満載過ぎて、コツコツ手をつけていたら死ぬまで終わらない気がするのである。他にもやらなければならないこともあるし、一日の僅かな時間でどうやって学ぶのだろう、と思うのである。だから、なるべく楽をして頂上に登りたいと考えるのである。

登山は頂上をみないで、目の前の道を見るのがコツらしい。

そういう意味ではいまこの瞬間に注目する、つまりマインドフルネスになるのが、焦りを鎮める効果があるのではないかと考え、瞑想する時間を設けている。

実際には時間はあることが多い

時間が少ないというのは思い込みで、実際には時間が残されていることが多い。

しかし、中年以降にはじめた勉強や趣味だと、遅れを取り戻すために人一倍打ち込まなければならないし、そのために残っている時間は実際に若者より少ないから、もどかしさを感じるのである。もっと早い時期に始めていれば良かったと後悔しても後の祭りである。

しかし、高齢ではじめた趣味に真剣に打ち込んで豊かに生きている人はたくさんいる。遅すぎる、時間が少ないと考えても仕方がないのである。それよりも前向きに楽しみながら打ち込めばいい、それはわかっている。

 

だがしかし。その事実をもってしても焦燥感が生じるのが人間である。

なぜ、俺も含めて、時間がないと焦るのか。考えながら書き記し、思考を整理したい。

 

高めている能力を比較する対象は

モチベーションが下がる原因の一つとして、努力した分だけ能力が高まっていないと感じることがある。成果が上がっていないと、なぜあれだけ努力したのにと嫌気がさすのである。

昔の自分と比較し、出来るようになったことなどポジティブな要素を自覚すれば良いのだが、得てして絶対評価ではなく相対評価になりがちである。全体の中で自分はどのあたりに属しているのかが気になってしょうがないのである。

あまり努力していないのに自分より評価が高い者に対してズルいと思う感情は、認知的不協和である。要領よく勉強しているだけかもしれないし、自分の見ていないところで努力しているのかもしれない。そもそも自分自身の努力とはなんら関係のないことである。

つまり、人間が陥りがちな心理について自覚するだけで、考えても無駄なことでイライラせずにすむのである。他人は他人と割り切るのは精神論ではないのである。

そんなことはわかっているが、このネット社会である。情報過多で、比較対象が多すぎるのである。自分より優れた書き手だらけで、ひたすら劣等感が刺激され居たたまれなくなり、追いつけないならいっそやめてしまおうかと思ってしまうのである。

 

階段を登るように成果は表れない

なかなか上達しなかったが、コツをつかんだら難なくできるようになった経験は誰しもあるだろう。まるでドラクエのレベルアップのように突然能力が向上するのである。

努力をしたから、その分に見合った上達をするというわけではない。コツをつかむまで時間や努力を要する人もいるし、飲み込みが早いタイプも存在する。思ったように成長しないのである。人よりも成長がスローに感じて焦りを感じるのである。

また、成果が上がっているのか不安になることもある。能力が向上している実感はあっても、独学している限りは学び方が合っているか不安になるのである。

本当にこんなことして意味があるのか、と思うと急に虚しくなってくる。頑張ったところで並以下だったら傷つくので、本気などだしてませんよと己を守りたくなるのである。

まず結果を求める

ローンで買い物をすると、お金を全て支払わなくとも商品を受け取れる。金利を支払う代わりに時間を買うのである。

同様に、まず成果を手に入れてからコツコツと努力をして返済したい、ときどきそんな考えが浮かぶことがある。

突然才能に目覚めないだろうか。と、考えた経験があるのは俺だけではないだろう。

コツコツ努力をするのはスローすぎる。地道で正しい反面、要領が悪い気がする。

どうせなら、自分が才能のある分野がなにかを知って、なるべく時間と労力をかけずに能力を高めたい。だから自分探しの旅にでかけ、ヒーローになれる可能性のあるジャンルを必死に求めるのである。そして、道を見つける人もいれば、諦めと妥協をする人もいるし、絶望する人もいるのである。

俺自身は才能は無いと思うが、いまは書くことと、将棋について能力を高めたいと思っている。

諦めきれなかった人

自分には、なにもない。才能がなかった、頑張ったけど向いてなかった。そういう人がいる。ぶっちゃけ俺もそうである。

正しく言えば何もないのではなく、自分が望むほどの相対的な能力がなかった、ということである。

だから、諦めたといいつつも、実は眠っている才能が覚醒する可能性があると心の奥底で信じているのだ。可能性を信じたいから、やらない。結果が白黒ハッキリするのを恐れるからである。やっていたらスゴイ才能だったかもしれない、という可能性を心の中で信じ続けることで自分自身を守っているのである。

しかし、どうしても諦めきれずに手をだすわけである。くすぶりつづけた心が、物事のスタートを遅らせているのである。

少年マンガによくある才能覚醒はうそっぱちである

眠っている才能がいきなり覚醒するのは少年マンガの世界である。なぜか激しい修行をするとすぐ強くなっている。また、強敵との戦いの最中に開眼するのも少年マンガの特徴である。

主人公はいつのまにか周囲を置き去りにして強くなるのである。かつての強敵が、いまでは雑魚キャラより弱いと感じるほどにである。

思うに、少年マンガの展開は都合が良すぎるにも関わらず深く共感してしまうのは、才能の高まりに対する憧れではないか。とくに異世界転生モノとよばれるジャンルに、本来の俺はこんなんじゃない異世界に行けば有能なんだ、みたいな主張を強く感じる。

自分の深層的な希望を反映する鏡としてキャラクターを認識しているのかもしれない。

現実にはあり得ないが、仮に、突然自分の器を超えた能力を授かったとしても使いこなせないと思う。マンガでも一時的に強い力を得た敵は最終的に力に飲み込まれて崩壊して消えていくパターンが多い。

主人公が突然天才になる設定などもあるが、それは単に作者の都合である。だから元に戻ったら天才のときの記憶はない。

不思議な力を用いてバトルするマンガもあるが、それは必ず能力に制約や弱点があり、純粋な能力の高さよりキャラの経験による判断がメインな頭脳戦にウエイトを置いているので本質的にはご都合主義ではない。

いま、いきなり俺の手がキーボードを滑らな動作で叩き、ここからの文章が読みやすく素晴らしい内容になったとしたらだ、俺は恐ろしい。それは自分の文章ではないし、もしかしたら霊界からの通信かもしれないからだ。自分自身の力しか信じられないのだ。

 

冒頭の例で言えば、山頂まで実際に登れる能力があるから登れたのである。登る力がないのに登ったことになっているのは恐ろしいのである。登頂は目的ではなく目標であり結果である。過程が能力を高めるのだ。

勉強、筋トレ、楽器、将棋など、脳に覚えさせる行為をせずに能力が高まったり、技能が身に付いたりするはずがない。あったとしても使いこなせるはずがない。経験していないことをどうやって知るのか。多重人格者の人格が入れ替わっているのであれば考えられるが、それ以外では考えられないと俺は思っている。

ここまで3200文字 ここ最近では長文である。約2時間10分程度。かんたんなメモを用意したが、お茶を飲んで考えながら書いたので時間がかかっている。

コツコツと続ければ、すこしずつ読みやすい内容のある文章になると信じて。

 

大局観

将棋の大局観については羽生先生も本を出されているし、論じ尽くされているので、今更書くのもどうかと思うのだが、敢えて書いてみる。

まず始めに書いておくが、素人の思いつきを述べているだけなので間違いだらけだと思うし、全く参考にはならないので、なにかを掴もうとして読むのなら、ご遠慮いただきたい。ノウハウ的なことには一切ふれないし、俺自身も分からないからだ。

ただ、漫然と将棋の勉強をするのではなく、本質的なことを掴みとり、深く理解するために疑問に思ったことをつらつらと述べたいだけである。

 

 大局観を語る前に、まず大局観とはなにかを定義してみたいと思う。

局面のどちらが有利不利かを把握するのが大局観である。が、PCソフトの弾き出す期待値=大局観ではない。あくまでも大局観は人間固有のものである。

コンピューターソフトは詰みまでの手順を間違えない前提で評価値を弾き出すから、人間が詰みを読み切れなければ、たとえ期待値が高くとも「これは詰ませられない」と判断して投了することがある。言い換えると、人間的には勝つ見込みなしな局面であっても、詰みがあれば期待値は逆転するのである。

「ここは、こんな風に指すものだろう」と判断するのが大局観のある指しまわしと言え、直観によるものが大きいのである。

考慮しているときは、何を指したらいいのかわからないときもあるが、直観により手が見えているのだが、読み抜けは無いか確認しているときが多い。ある程度の棋力になると自分自身を信用しているが、絶対はないと思っているからである。

AIは恐怖心が無いので、人間では恐ろしくて指せない手をかましてくる。駒損も一切考慮せずに、その局面で最適だと判断した手を指してくる。さらに、処理時間やPCのスペックだけでも最適手は変化するのである。棋風というか、こうしたいという主張がないのである。だから人間らしくない指しかただとわかるのだ。

 

 

では、評価値とはなんであろうか。常に相手が読み通りの手を指すとは限らないので、評価値はその手番だけのものといえる。

人間同士の実戦では、自分では見えない手、もしくは見えているけど不利だから指さないだろうと判断した手を、対局者が指してくることが多い。実力が拮抗、あるいは相手が弱ければ思考がシンクロすることも多いが、相手との実力差があるほど乖離するのが普通である。とはいえ、攻めの棋風、受けの棋風など一貫した方針があるわけで、なんとなく納得できるものである。

思考した通りの展開になるのは、終盤では考えられる。終盤になるほど手が限定されてくる傾向があるように感じる。終盤ほど、その一手以外を選べば即負ける局面が増えてくるからである。

 

序中盤と終盤は本質が異なる

終盤になるほど選択肢が減り、有効な手が限られる。終盤は詰みを見つける能力が高いほど強いといえる。

序中盤では大局観が大切だが、終盤になるほど詰めのうまさが大切だからである。

終盤はPCソフトが有利なのは詰みを見逃さないからである。プロ棋士も詰みがあるかどうかのチェックにPCソフトを使うのは普通である。将棋が強い人でも、そのときの気分や体調次第でミスをしたり実力を発揮できないことがある。だから、終盤の寄せになるとAIは強いのである。

大局観を高めるには

プロやアマ高段者の棋譜を並べるのは、よい勉強方法といえるだろう。さまざまな局面を知ることで、「こういうときは、どう指すのか」がわかってくるのである。

最近ようやく譜号に慣れてきて、棋譜をみたら盤に並べなくとも視覚的に駒の位置関係を把握できるようになってきたように感じている。まだまだ経験が少ないので、考えながらでないと駒の位置を間違えるが、僅かずつではあるが脳内将棋盤とシンクロしているのである。言い換えると、盤面を瞬間的に脳内に焼き付ける感じである。

そのような経験を積むに従い、ヒューリスティックに局面を判断できるようになってくるのではないか、とにらんでいる。なぜなら、多くのAIはそのようにして学習しているからである。AIにとって、局面の認知が最も難しいのである。いっぽう人間は得意とするところである。大局観は人間だから感じ取れるものなのである。

評価値は、どちらが勝っているかと同一なのか

まあ、基本そうだと答えたいところであるが、評価値を絶対的なものとしてとらえることには反対である。評価値原理主義になってはいけないのである。あくまでもPCソフトの判断であり、参考にするなら良いが、評価値が低いから負けだとか、高いから勝っているというのは厳密にいえば間違っているのである。

あくまでも玉が詰むか投了しない限り、負けではないのである。評価値が高い側が間違えれば頓死することもある。勝負に絶対などないのである。

だから評価値をみて、すべて分かった気になど絶対になっては損である。PCソフトに支配されているのと同じだからだ。

たとえば、振り飛車にするだけで評価値はマイナスになる。マイナスであっても、俺は振り飛車を指したいんだと思えば指せばよいのである。マイナスになるなら振り飛車は不利だからやめよう、というのは思考停止である。

むしろ、なぜマイナスになったのか、その点に注意を払うべきである。どういった要素がマイナス評価になるのか。何手先でどういう不利な変化があるのか考える。それが研究である。だから、序盤研究が熱心だと、変化を計算済みで指すことができるのである。

ここまで約2100字。実は暇なときにコツコツと下書きをしていたので、一時間ちょいでここまで書けた。キーワードから思いついたメモ書きを残しておき要約としておけば、膨らませる作業をすれば文章が整うからだ。今後はレジュメを書いておくのはアリにしておこう。

読み返すと、当たり前のくだらん事しか書いていないのに気がつく。すでに複数言及がある、いわば常識的なこと、あるいは検証されていない妄想的なことだからである。

もちろん誤りに気が付けば改める気ではあるが、この文章は思考の過程として敢えて残したいと考えている。

定跡と美しい手

定跡について論じたいと思う。

将棋には定跡がある。初手から何手か進むと戦型が決まってくる。

居飛車振り飛車か、角交換するかしたいか、急戦か持久戦なのか、お互いの手を読み取って、どう指すか方針を決定するのである。そうなると定跡の出番である。どうしても頻出する局面になるので、あらゆる変化を研究し尽くされ、もっとも最適な駒運びが判っているのである。

もちろん相手の意表をついて、トリッキーな訳のわからない展開に持ち込む作戦もある。そうなると定跡をすでに外れているので力戦となる。

では暗記すれば良いのかというと、半分正解で半分外れだと思う。丸暗記ではなく、意味が分かったうえで覚えているのが正しいのである。理由は、なぜ、そう指すのかを理解していないと、対戦者が間違えたときにとがめる手を指せないからである。そう、本来、定跡は間違えたらアウトなのである。定跡を間違えても何も起こらないのは、ただ単に対戦者が弱いからであり、実力者に対しては危険である。だから定跡なのである。

 

で、だ。

ド初級者が、定跡本を読んで丸暗記したところで強くならないが、暗記できなくとも勝てないわけではないのである。むろん、定跡を知らずに強い人と対局すると100%負けるが、中級者以下との対局では相手も間違えるので、それをとがめられれば有利になる。必ずしも定跡を完璧に暗記せずとも勝てないわけではないのである。

そもそも、ヘボとの対局では棋書にあるような展開にならない。その前に、勝手に向こうから自爆するような手を指してくるのである。ある程度の棋力がある相手とでなければ棋書にあるような局面にすらならないことが多いから、ひたすら定跡や戦法を丸暗記しただけでは強くなれないのである。

前回の記事で美しい手と書いた。美しいとか勝負には関係ないと思う輩も居ようが、それは間違いである。

将棋は礼儀が大切である。勝っても負けても、対局してくれた相手に対して礼を尽くす。なぜなら、全力を尽くして対局してくれたからこそ、自身もまた強くなれるからだ。本気でぶつかってきてくれて本当にありがとう、あなたのおかげで強くなれるという感謝とリスペクトの気持ちを対戦相手に対して表すのが礼である。

美しい手とは、相手も唸るほどの良い手である。

詰みを見つけたら速攻で詰ます。詰みが見えているのに、意図的に駒得の手を指すのは辛い手ではなく友達をなくす手であり、美しくない手である。

だからプロ棋士は、最後に形を作って投了し、良い勝負だったとして美しい棋譜を残す。

投了は、自陣の詰みが見えて、かつ相手は間違えないだろうという信頼である。

最後のおねがいや記念王手くらいは良いとして、勝つ見込みがないのに無駄に王手をかけて、時間切れ勝ちを狙うのは美しくないのである。

自陣が攻めを受けきって相手陣が姿焼きになるのは一局だが、じわじわと駒を取って積極的に攻めないのは情けない将棋である。

コンピューター将棋では、歩以外渡さないように駒得を狙い、じわじわと追い詰める作戦もあるが、それはまた別のゲームのような気がするのである。ゲームとして、どうしても勝ってレートを上げたいというなら話はわかるが、純粋に棋力を向上したいなら無駄な時間を過ごしているような気がするのである。

将棋は礼が大切だといったが、将棋はスポーツ、一種の武道に近いと思うのである。

論理ゲームなのであるが、実際にはパターン認知能力を高めないと将棋は勝てないのである。スポーツは反復練習と試合の数をこなして経験を積むことで技術が高まるわけで、つまり口で理屈を伝えるだけでは教えられない世界なのが共通しているからである。論理だけで勝てるなら、もっと早くコンピューターが強くなったはずである。

将棋が強くなるためには、数多くのパターン認知が絶対に必要なのである。そのための反復練習として高度な対局を数多く並べるのは理に適っているのである。

 

棋譜を見ていると、これは渋い手だなとか、攻めが遅くみえるが格調高い手だななど、少しずつ分かってくるようになる。その手が見えてこない限り強くはなれないのだが、意図が読めるようになるだけ強くはなっている。

 

目下の悩みをここに記す。俺自身はいまだヘボ将棋であるが、同等かそれ以下の人と指しても成長するのかどうか。現時点での結論は、強くならない、あるいは緩やかに強くなるである。理由は、こちらの悪手をとがめてこないので勝負が成り立つような対局になるからである。最低限のレベルに達していないと将棋にならないような気がするのである。

将棋には最低限のルール以外のお約束があって、それをマスターしていないとヘボ将棋になってしまうと考えているのである。では、どこまでマスターしていれば本来の将棋になるのか。その定義は難しい。俺は、おそらくアマ初段がその入り口ではないかと考えている。

だから、最低限の戦法と囲いを身につけて、常識的な定跡、手筋を活用できて、3手詰程度なら見える棋力がないと、スタート地点に立っている実感が湧かないのである。

現在の目標は初段である。

 

これで約2000字である。休み休み書いて一時間半程度。

将棋ネタと思って読んでいる人にとっては全く有用な情報がなく申し訳がない。むしろここまで読み進めていたのであれば、あなたは相当忍耐力が高い人である。