文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

普通の人間

文章を、とくにブログを執筆をしようとすると気が重くなる。書き始めるといくぶん気が楽になり、しばらくすると快感になるのはわかっている。しかし、面倒だな、今日はいいや、と後回しにしようと言い訳を考えるのである。

心が折れるというか、持っていかれている。いまさら頑張っても無駄だとか遅すぎるだとか、やっても仕方がないと諦めたくなるのである。

つまりそれは、周囲の高レベルな書き物と比較してしまい、このレベルの状態になりたいのだが追いつかない、間に合わないという現実を受け入れるのに抵抗があるということであって、十分読ませる文章を綴れて当たり前だと自身を買いかぶらなければ、別になんてことはない問題なのである。本質的なことを言えば、自分以外にとっては自分は特別ではないが、自分自身にとっては特別だと認識することなのだと思う。

日記や作文であれば自分が中心で構わないが、人に読んでもらうことを前提とした文章であれば、自分自身を突き放して自身について語らねばならぬのである。

文章力を高めるというのは表現力を高めるということである。ただ単に事実だけを伝えるのであれば日報である。伝達事項だけがスムーズであればよく、表現力は問われない。思っていることを書きたい。事実を伝えるのが目的ではない。しかし独りよがりではならない。

このように、色々と考えれば考えるほど、自身の文章が陳腐でくだらなく感じ、書くのが躊躇われるのである。

最終的に書き始めるのだが、つまりは開き直りである。文章を書き始めるときの感情は、「クソな文章でも構わないから、とりあえず書いてみろ」である。しかし、自分を下げて、どうせ俺の文章なんてゴミだから読む価値もない。書くだけ無駄だと考えてもいけないと言いきかせている。クソな自分を突き放して、客観的に観察し、気がついたことを真摯に書く。格好つけてはいけない。ダメダメでクソな自分を肯定するのである。

なかなか自身を肯定できない原因として、普通でありたいのに普通になれないことがある。

ここ最近でこそ個性を大切にするとか、みんな違ってみんないいとか、歯の浮くようなことばを発する人達が増えたが、俺が子供のころは普通じゃない、まともじゃないと思われていた人間は異端として扱われていたのである。俺にとって、普通扱いされたいという要望は、子供のころに遡るほど根深い問題である。

学校という社会のなかで浮かずに生活ができる、先生の手を焼かせない子が普通で、体が弱かったり、アレルギーがあったり、発達に障害があったりする子、いわゆる配慮が必要な子は、団体生活に支障のある面倒な存在だったのである。こういった子の親が当然の配慮を学校側に求めても、むしろ人権を立てに難癖をつけるクレーマー扱いされるのが当たり前の時代だったのである。

だから体が弱くて頻繁に病欠をしたり、アレルギー体質で年中鼻をかんでいて、授業中フラフラ歩きまわり落ち着きがなかった俺は、先生からすれば普通じゃない、排除したい存在だったようだ。クラス替えのときは、厄介者をだれが引き受けるのか押し付け合っていたようで、うちの学校では対処できないから、養護学校への転校を勧められたりしたのである。

家庭状態もまともではなかったので、あまり仲良くしてくれる人がいなかったような気がする。生活は豊かではなかったが、親は気位が高かった。裕福な家に生まれたのを誇りにしており、もともと貧しい家庭とウチは違うと見下していたのである。それを隠そうともしないで他人に接していたので、揉め事が絶えることがなかった。親戚同士とも疎遠だったので、あまり良い付き合いをした覚えもない。

家が豊かではないのは仕方がない。自分のせいではないからである。しかし、自分が普通じゃないばかりに、扱われ方が他の人と違うのは嫌であった。しかし、自分の扱いを変えろとは思わなかった。むしろそう扱われて当然だと思っていた。

普通の人と扱いが違うのは仕方がない、自分が普通じゃないからダメなんだと、長い間思っていたのである。

なるべく自分は普通なんだと思われるような行動をとろうと必死に考えた。

しかし、その場に相応しい言動をとろうと思っても、それが何かがわからない。そつなくなんでも熟せる人間をうらやましく思った。不惑になったころ、ようやく普通の人間らしい言動ができるようになった気がするが、それは単にパターン認識したに過ぎない。AIのディープラーニングと同じである。

なので、自分が発達障害だと知ったらホッとしたとか、発達障害だから仕方がないと開き直っている人間をみると、あまり気分が良くないのである。もっと普通になりたいと悩めよと思うのである。ちなみに俺は発達障害かどうか診断されていないし、しても仕方がないと思っている。自閉症スペクトラムだから明確な境界がなく程度問題だからである。

ここまで1時間10分 約2000文字。書きたいことは山ほどある。まだまだ続くが、いったん公開する。

将棋の練習について

将棋の練習時間

社会人にとって趣味の時間を捻出するのは大きな課題の一つである。

タモリ曰く、「仕事じゃないんだから、趣味は真面目にやれ」。

とにかく、趣味はトコトン打ち込めということであろう。仕事が忙しいから趣味の時間を削るというのはよろしくない。仕事は要領よくこなして、そのぶん趣味につぎ込めという意味だと思う。

一日よくて30分程度しか趣味に割けないのであれば、その30分を有意義に過ごしたい。短い時間だからこそ、集中して内容の濃い練習をしたいものである。

ただ将棋をして勝ちたいのであれば、弱い人を相手にヘボ将棋を指していればよい。

しかし、本気で強くなるのであれば、それなりのリソースを割くしかない。今まで別のことをしていた時間を将棋に充てるのである。時間の等価交換である。

将棋が強くなるには、SNSをする時間や、ネットサーフィンをする時間を削り、練習時間に充てるしかない。その覚悟なしに楽に強くなろうと考えるのは甘い。

 

俺は将棋と同時並行で文章の練習も進めることにした。具合が悪くても、とりあえずPCに向かって思いついたことを垂れ流していれば、わずかながらもアウトプットの練習となるのである。

うまくできないからやめておこう、はやめたほうがいい

泥臭く、地べたを這いずり回るような気持ちで物事を進めたほうがいい。ハードルを上げるのは、やる気を削ぐからである。うまくできない自分を責めるのも良くない。

僅かでも、とにかくやる。習慣にする。自分に言い聞かせるために書いている。ことばで言えば簡単なことなのに、実際となると出来ないからである。

棋譜読みで目を養う

さて、将棋の練習時間の話である。練習メニューとして俺が考えているのは、詰将棋と得意戦法の確立と序盤研究、手筋や次の一手などの練習と、プロの将棋実況を観戦することであるが、もう一つある。棋譜並べである。

棋譜並べはスピーディーにこなすのが基本らしい。プロの指し手を体に馴染ませるのが狙いだそうである。つまり棋譜ならべとは反復練習的なものであるが、俺が上達するのではと考えているのは、次の一手を推測しながら棋譜を読むことである。

将棋DB2という、棋譜が見れるアプリがある。

このアプリでは、プロアマ公式戦や奨励会員同士の対局に及ばず、江戸時代の対局まで様々な試合を後追い観戦できるのだ。便利な世の中になったものである。

とくに目を引いたのは、こども将棋である。決勝近くまで勝ち上がった猛者ともなれば、大人のアマ高段者と同等以上の手を指すので驚いた。

あるていど棋譜を読んでいるうちに、指し手の美しさや強さが感覚的にわかってくるようになる。芸術に触れるうちに審美眼が養われるのと同じ感覚である。

では、その一手を思いつくのかと問われれば否である。しかし、その手が良いかどうか、何を意図しているのかが理解できるようにはなる。その手の意味がわからないというのでは射程外である。パンチが全く見えてないのと、見えているが避けられないのでは、同じパンチを食らうのでも内容が違うのである。

そのようなセンスともいうべき感覚を養うには、強い者同士の棋譜を見るのが一番だと考えている。ヘボ将棋の棋譜をみているだけ時間の無駄である。

大幅にタイムオーバーしている。書き始めて約50分であるが、まだ1300文字程度。

とりあえず投稿することにする。

 

将棋の練習について

再び将棋を指すようになったきっかけは、とくにない。

強いて言えば、社会的に将棋がブームになってきたから、至る所で目にする機会が増えたことであろう。

兎にも角にも、将棋に強い関心を抱くようになったのは4か月ほど前である。

将棋に関しては浦島太郎状態のため、ネットで色々と検索してみたのである。将棋ウォーズなるアプリを見つけたので、さっそくインストールしてみると、ネット対戦ができるようだ。とはいえ、VSは状況を飲み込んでからのほうが良いと判断したので保留し、まずは練習対局をしてみる。人間相手に指す前に、勘をとりもどしたかったのである。

弱い。なんというか、コンピューターがわざと悪手を指すのだ。確認のために強いモードで対局しても弱い。わざとそういう仕様にしているようだ。これでは練習にならないと、他のアプリを試してみることにした。

調べてみると、「ぴよ将棋」「将皇」というアプリがあるようだ。どちらでも良かったのだが、名前がふざけているようだがヒント機能など充実しているので、ぴよ将棋を選ぶことにした。

これが強い。とはいえ、角換わりの序盤に僅かなスキがある場合があり、角の打ち込みでとがめると圧勝だが、互角程度の中盤戦だと間違えた瞬間にあれよと詰まされるのである。コンピューター初段の終盤寄せは鬼神の様である。

負けが続くと勝負自体が嫌になってくるので、10級程度のぴよをいじめてストレスを解消するのであるが、弱い相手と戦うだけの王様将棋は、まったく棋力の向上に繋がらない。このままダラダラと将棋を指していたところでダメだ、自分が強くならないと楽しめないと気がついた。ついに俺は、弱い相手にヘボ将棋を指すのを封印したのである。

強くなるために、基本的な手筋や3手詰程度の詰将棋をして底力を付けなくてはならないと決意した。

そもそも、久しぶりすぎて知らない囲いや戦法が増えていた。エルモ囲いとはなんだ?聞いたこともない。まずは囲いや戦法を一から勉強せねばならぬ。

戦法で一番驚いたのは、ゴキゲン中飛車だ。角道を開けたまま中飛車ってなんだ?と仰天した。振り飛車は角道を止めるのが基本である。中飛車は将棋を覚えたてのころはお世話になった戦法である。だから角道を開けるという発想がなかった。

しかも採用率が高い戦法のようだ。コンピューターも角道を開けたまま歩で位をとって五筋に飛車を振ってくる。なんだこの戦法はとググってみて初めて知ったが、俺が知らないだけで現在では普遍的な戦法なのである。余談だが、略してゴキ中は、響きがゴキブリみたいでよろしくないと思う。

将棋の勉強法

実戦をするなら、あくまでも対人である。きょうびコンピューターの棋力は普通の人間を凌駕している。だからコンピューター相手でも不足はないのだが、棋風やミスも含めて将棋だと俺は思っている。だから人間を相手に将棋を指すのが基本である。コンピューター対戦は、あくまでも対人間将棋のための手段である。目的は強い人間と指して良い勝負をすることである。棋譜をみるとわかる。コンピューター同士とプロ棋士棋譜はなにかが違う。コンピューターは人間が指せない手を指している。その局面その局面で最適手を指すから、こうしたい、ああしたいという思想が感じられないのである。

要するに俺の中では、コンピューターは勉強する手段として使うものであって、コンピューターと対局して勝ったら満足ではないのである。コンピューターと対局して、いかに勝つかを研究するのは、嵌め技を編み出すのも含めたコンピューターゲームの攻略である。将棋ではないと思う。しかし、プロ棋士がコンピューターと対戦するのはその限りではない。勝利するために対局するからである。

 

言いたいことがありすぎて、なにが言いたいのか。頭がこんがらがってきた。ブログ執筆前にメモを用意したほうが良いかもしれない。

将棋の実力は、努力か才能かについてもふれておきたかった。というのも、あの有名なエリクソンの著書ではチェスプレイヤーの事例が豊富だったからだ。チェスと将棋は似ている。チェスのグランドマスターへの言及は、そのまま将棋と共通していると思われる。

脳内将棋盤についても言及したい。が、気持ちが焦り、詳細に記載する気力が湧かない。まだリハビリ中である。後日書こうと思う次第である。

簡単に将棋が強くなる方法など存在しない。かといって、強くなりたいと努力をしても方法を間違えては時間がもったいない。効果的にトレーニングしたほうがいい。

俺の考えている方法を箇条書きしてみよう。

 

・実戦は得意戦法をマスターしてから

・三手詰将棋をとことんやる

・プロ棋士の将棋ウォーズ実況をみて考え方を学ぶ

まず、なぜ得意戦法をマスターしてからなのか説明する。序盤は実は一番気が抜けないのだ。初っ端で間違えると投了したくなるくらい不利になる。研究すれば成果があがるのも序盤である。得意戦法を2つほど持ち、序盤の変化を徹底研究しておくのである。

相手が居飛車振り飛車か、角道を開けるか止めるかで戦法を変えれば良いと考えている。俺は居飛車党なので、具体的には相居飛車なら矢倉か角換わり。そのほかにも相掛かりや横歩取りなど頻出する。居飛車は覚えることが多く大変である。

相手が振り飛車なら右四間飛車で対応する。ただしゴキ中には二枚銀など、他の戦法がいいだろう。あとは奇襲対策をしておけば、まあ、戦えるだろう。

 

つぎに、三手詰は詰将棋の基本である。一手詰も難しいのだが、考えられる手が少なければ強引に色々当てはめているうちに判ってしまうのである。三手詰は初手が判っても、その後の変化が判らないと解答できない。三手後の盤面を脳内将棋盤で把握していないと詰ませられないのである。

駒を動かさずに解くのが肝要である。詰みまでの手順で持ち駒や駒の配置が変化するのを頭の中だけで把握する能力を伸ばすのが目的だからである。

 

さいごに、将棋ウォーズの実況である。これは大体30分以内で高段者の対局を観戦するのだが、手の意味や意図を詳しく解説してくれるのが非常に勉強になる。指した手を覚えておいても、後の対局で通用するとは限らない。駒の配置が一つ違うだけで悪手になることもある。重要なのは考え方だ。その局面において、どういう方針でどういう考えで指すのかが重要であり、形だけ真似ても不発に終わる場合がある。深く意味を理解して指していないからである。

興味がある人は、YouTubeをアップしている人は何人もいるので、相性のよい人を探してみると良いだろう。

 

ここまで約2700文字である。1時間15分程度かかった。

書きたいことを書きまくる。現時点では快感である。完全な趣味であり、人から強制されたことでもないからだ。自身の興味あることだけを書くのは本当に楽しい。

少しずつだが、モノを書き発信することに抵抗感が薄れてきた実感がある。

 

直観と直感

直観と直感。似た非なるものである。にもかかわらず、使い分けをしていないような気がする。先日書いた記事にも直観と書いたが、後で気になって調べてみたところ興味深い記事を発見したので参考までに載せておく。

https://no-mark.jp/liveescape/brainpower/intuition.html

記事の中で、偶然にも将棋について触れていた。

記事中では、直観とはひらめきであり、経験や知識など記憶から生じるものだと主張している。俺自身は、直観とはヒューリスティックな解答に近いものだと思う。

 

将棋が強くなると思考をせずとも最適手が指せるようになるのは、そのためである。これは俺の意見だけではなく、プロ棋士も認めていることだ。頻出する局面においては考えるより先に手が駒を置いているのである。

詰将棋もそうである。盤面を見て0.5秒で一手目と詰みまでが見えるのである。これはヘボの俺ですらも体験しているし、5級程度であれば誰しも経験していると思う。実際には、いきなり指さずにを数秒おいてから駒に触れる。

なぜかというと、全ての変化を読み間違いがないか確認しているのである。

じっくり考えるほど間違えたり、なかなか良い手が浮かばなかったりする。そんなときは無駄に脳のリソースを割いている。脳は成長するし、節約したがる。

車の運転がそうである。免許を取立ての頃は、車の運転にも慣れていないし、交通にも慣れていない。既に脳の中はパンク状態なので、咄嗟の判断でキャパシティオーバーしてしまうから、パニックになりやすい。

運転に慣れてくると、思考をせずとも手足のように操作ができるので、より深く危険予知に脳を使える。だからパニックになりにくい。さらにリソースに余剰があるから、考え事ができる。脳は思考を節約できるのである。

ここまで30分約800文字。集中出来ない状態で書き進めたので致し方がなし。

俺の将棋の原点

今回は、最近ハマっている将棋について語りたいと思う。

俺はまったくのド初心者ではなく、リターンである。

実は一つ違いの弟がいるのだが、将棋は同じくらいの時期に始めた。

駒の動かし方など、ルールは小学生低学年のときに覚えたと思うのだが定かではない。いつのまにか知っていたという認識である。たぶん親から教わったと思う。将棋セットは家にあった。

なぜか弟のほうがメキメキと上達し、あっという間に勝てなくなった。本将棋をしてもケンカになるので、二人で遊ぶときは周り将棋やハサミ将棋、崩し将棋などで遊ぶしかなかった。

買ってもらった駒はプラスチックの安いモノだったので、あっという間にボロボロになっていた。周り将棋は駒をサイコロのように盤に打ち付けるから駒が痛むのだ。俺が子供のころはテレビゲームなどなく、家で遊べる娯楽と言えばトランプか将棋だったから、そこらにあるもので楽しんでいたのである。

弟は子供のころから、トランプや将棋などのゲーム類が強かった。論理的思考能力が元々高かったのだろう、いわゆる理系脳である。いっぽう俺は数学は大の苦手の文系直観派だ。母親は弟に将棋を習わせるつもりだったらしい。ちなみに俺には絵を習わせると言っていたが、結局どちらも実行されることはなかったのである。

たまに弟と本将棋を指しても負かされるだけでつまらない。感想戦で駒の活かし方などを得意げに説明する弟が無性に腹立たしかったので、いつのまにか殴り合いのケンカになるのである。将棋と聞くだけでむかっ腹が立つ時期もあったほどである。そのころ読んだ夏目漱石の坊ちゃんの気持ちがよくわかった。将棋が強い奴はなんか卑怯な気がするのである。

なんでこうも、自分にはなんの取り柄もないのだろう。自己憐憫の情だけがつのり、すべてにたいして諦めたくなるのだが、弟に一泡吹かせてやりたい気持ちが僅かながら勝っていたのだろう、すこし本気で将棋に取り組んでみることにした。小学6年のころである。

 

将棋全百科なる、コンパクトなサイズながら分厚い本がうちにあったので熟読した。たしか表紙が、駒を象徴した戦国時代の甲冑をまとった武者たちの絵だったと思う。確か500円くらいのものだった。岩倉具視一枚で買えた記憶があるからである。他にも何冊か入門書を買ってもらった。

どれかに、まだ小学生の羽生先生と林葉直子さんの対局がカラーで載っていたのを覚えている。

どれもボロボロになるまで読みこんだ。いま思い返すに将棋全百科は駒の動かし方から囲い戦法まで幅広く扱っている良書であった。

 

初めて弟に勝てたときのことを、なんとなく覚えている。ざまあみろと思った。と、同時に不安になった。今度は弟が挑戦者である。俺が勝者の座に座り続けるには、これからも勝ち続けなくてはならないのだ。正直な気持ち、いまの実力で勝ち続けるのは難しい。拮抗していたのである。実力伯仲とはよくいったものだ。

これからはぶっちぎりで勝たなくてはならない。俺に今後、将棋で勝てないと諦めるくらいに弟の心を折らなくてはならない。将棋に覚えのある奴と対局しまくった。武者修行である。

いつのまにか、弟をはじめ俺に将棋で勝てる奴は周囲にいなくなった。

中学に入ると、必修クラブという授業の一環としての活動時間があった。文化系しかないのだが、なぜか将棋クラブと詰将棋クラブがあった。俺は迷わず詰将棋クラブに入った。50分間ヘボ将棋を指すくらいなら詰将棋のほうがためになると思ったからである。

入ってから知ったのだが、顧問の先生はアマチュア四段の腕前らしい。問題が配られると、しばらく考える時間がある。のこり20分くらいは詰ませかたの大盤解説時間である。その学校には何気に将棋大盤があったのである。備品の予算を将棋大盤に振り分ける大らかさが当時はあったのだ。

あるとき、顧問の先生に放課後時間はあるかと尋ねられた。ええ、ありますよと答えると、将棋を指そうと誘われた。ついに来たかと思った。あまりにも実力差がありすぎるが胸を借りるつもりで対局をした。当然ながら、手合いは二枚落ちである。

負けた。感想戦をして、ああこの銀の受けを間違えたね、ここで悪くなったなと淡々と教わりながら考えた。もしかして、失望されたかもしれないと。こんなに弱いのでは勝負にすらなってないと、相手にされなくならないか不安になったのである。

このときばかりは本気で悩んだ。これ以上考えても不安になる一方だったので、なんとか解決しなくてはならぬと本屋に行って、二枚落ちの定跡が載っている本を探しあてて小遣いで購入すると、銀多伝をひたすら盤に並べたのである。

今度しくじってたら後がない。あるていど勝てる見込みがあると気持ちに整理がついたころ、先生に再戦を挑んだ。

銀多伝は強かった。快勝である。アマ四段に二枚落ちで勝てたのは大きな自信になった。

先生は将棋マガジンという雑誌を愛読していて、ときどき読ませてくれた。

残念なことに、先生は俺が中三になると同時に定年退職して辞めていった。もしかしたら転勤かもしれない。どちらにしても学校から居なくなったのである。

それと同時に将棋をするモチベーションも失せ、俺は将棋を指さなくなったのである。

 

ここまで約2000文字

誤変換とタイプミスが目立つ。また、考えながら書く、推敲してしまう癖が直らない。時間は約一時間半。集中力がもたない。調べながら書くと時間が足りない。

うんこしているときや、ちょっとした待ち時間に構想を練っておいて、書きたいことについて予め調べておくと良い気がした。

自分を甘やかしすぎない程度に自身に対しても寛容でいよう。できないことより、やったことを評価しよう。とにかく毎日少しずつでも書くことが大切なのである。

 

 

文章練習

書きたいことは山ほどあるのだが、書けない。いよいよ書き終わり、さあ公開するボタンを押下するかとなると躊躇してしまう。色々と考えすぎてしまい、やはりやめておこう、となるのである。なぜこれほどまでに、自身の考えを綴るのを恐れているのか、自問自答しながら解きほぐすことにしよう。これはいわば日記帳であり内省であるから、本来であれば人に見せるようなものでもないのだが、敢えてさらけ出すのがリハビリになると考えているからである。

自分自身との会話は厄介である。

心の奥底では答えを知っているのに知らない体を装う。自分自身を守るためである。

 

子供の頃は、割と雄弁というか、言いたいことをハッキリと言うタイプだった。

思ったことを口に出しすぎる、子供のくせに理屈っぽい、と親や先生に説教されていた。

逆に言えば、周囲に対して気遣いせず、素直でないということである。今思えばイヤなガキであった。

小学生の2年か3年のころである。母親に「お前の存在が、そして言うことなすことすべてが、どれほど皆にイヤな思いをさせてガマンを強いているか分っているのか。お前さえ居てくれなければ、みんな幸せなんだ」と言われた。ああそんなに俺は迷惑だったんだ、申し訳なかったなと本気で思った。子供の俺は、皆にそこまで憎まれていたのに今まで気がつかなかったのが情けないと思ったのである。

本当に俺なんていないほうがいいと思われていたんだ、とショックをうけた。

「もう生きていたくない、死んだ方が皆が喜ぶのかな。とはいえ、死ねば死んだで死に方が迷惑だと言われるのもイヤだ。消えたい。この世から消え失せてしまいたい、存在そのものが無かったことになりたい」

俺は、いままで迷惑をかけていた家族や周囲の人々に対して、死んで償うしかないのだと思い詰めていたのである。

誰かに殺してもらえないかと漠然と祈る気持ちで道を歩いていたから、衝動的に車の前に飛び出したくなる。生きていてすみません。もうご飯を食べるのをやめよう。これ以上迷惑をかけないように家から出よう。そう決意するのだが、腹は減るし、外で寝るのは辛い。餓死する勇気も家出をする意気地もなかった。死ぬこともできずに、むざむざと生きているのは恥だ。もし誰かの代わりに死んであげられるのなら、最期に感謝されて立派な人間として死ねる。だからドラマやアニメの自己犠牲シーンに強く憧れを抱いていた。

当時の俺は、本気でこんなアホなことで毎日悩み苦しんでいたのである。

まだ10歳にも満たない子供なので、死について深く考えることもできなかった。軽々しく考えていたのは仕方がないといえる。しかし、この考えに取りつかれてから、逃れるまでには大変な時間と努力を要したのである。決してバカにはできない話である。

人格と存在を完全に否定された人間は、ここまで思い詰めることもあるということを理解していただけたら幸いである。

なぜ書くか。それが自己主張であり、もっとも自身に向いた表現方法だと思うからである。表現するなら絵や音楽などの芸術でもよろしい。ただ自分は文章を書くのが最も向いているような気がする。そう、気がするだけなのだ。とくに確信をもっているのではなく、なんとなく気がするだけである。ただ中学生のころ一度だけ先生に「お前には文才がある」と褒められたことがあった気がするが定かではない。

そのころから文章を書くのは好きであったので、将来はそちら方面の仕事ができたら良いなと漠然と考えてはいた。しかし、当時の俺の文章は、自分の主張を補強するために事実と反することを尤もらしく書き、理屈をこねくりまわして他人を扱き下ろす駄文であった。つまり、小学生のころと本質は変わっていなかったのである。

俺は文章を綴るのを封印することにした。そして意図的にバカになることにしたのである。喋り方も変えた。議論を避けるようにした。皆と俺の意見が割れたら、常に皆が正しいと思い込むことにしたのである。心が擦り切れていた。社会との摩擦に耐えられなかったのである。

 

長じて当時を反省するようになると、なにを書くにしても不安になるようになった。

本当にこんなことを書いて問題はないのであろうか。誰か読んだ人が気分を害さないだろうか。言葉の魔力の強力さと恐ろしさは身をもって知っているだけに悩むのである。

己自身の扱いを意図的に他人より低くしていると、周囲が立派に見えてしまい世の中に対して萎縮してしまう。自分ごときが他人様に意見をしても良いのであろうかと不安になってしまうのである。世の中のほとんどの人は、俺より賢く間違えることはない。だから今さら自分がしゃしゃり出る幕はない。そのように考える回路が脳みそに出来上がっていまっているのだ。

そうして「許す」というお墨付きをもらえるまで、ひたすらウジウジと悩み続けてなにも書けなくなってしまうのだ。そもそも誰が何の権利で許すのであろうか。それすらも考えが及ばぬほど考えが凝り固まってしまっているのである。

 

これで概ね一時間程度の執筆である。約2000文字。考えながら書くのは骨が折れるが、自身の経験と考えだけなので楽なほうである。裏をとる作業がないからだ。

推敲をほとんどせず、下書きもせず、ただひたすら己と向き合う作業、つまり修行である。毎日可能な限り続けたい。

 

文章練習

文章練習

まずは文章を綴る練習である。試みようとするのは推敲をほぼしないことである。

いかに少ない時間で、それなりの文章を書きあげるか。その能力を鍛えたいのである。

まあまず、こんなクソみたいなブログは誰も見に来ないであろうから、それほどの迷惑もかからないだろう。世の中に発表しないことにはゼロ、つまり書いていないも同様であるという解釈と、やはり実践というか実戦のなかでこそ育まれる経験と勘を手に入れたいという思いから、読者がいようがいまいが構わず書くのである。むしろ読んで欲しくない。このような矛盾した思いをもって、この文章をキーボードで打ち込んでいる。

 

もう誰だか忘れたが、とにかく明治か大正時代の小説家の話である。火鉢にあたり暖をとり煙管をふかして、これから書く文章の構想を練る。ある程度かたまったら、おもむろに万年筆で原稿用紙を埋めていく。そのあと間違いや言葉の言い回しを直してから、清書をする。それは奥方だか妹だかの仕事であった。

昔の人はガチである。一発勝負。ワープロもPCもない時代である。原稿用紙をペンとインクでひたすら埋めていく。間違いがあってもデリートキーで消すなんてできないのだ。自動変換もしてくれない。漢字や熟語を書くときは、字引や自身の記憶に頼るしかない。にも関わらず、後世まで残るモノを書き上げていた。

そもそも推敲なんて、素人の文章にそこまで必要かよ、と思う。推敲、つまり推すのか敲(たた)くのか、唐代の詩人が悩んだ故事に因んでいるのは有名な話だが、どちらでもそれなりにいい詩だったと思う。敲く、のほうが音が響いて風情がある、なんてオチになってはいるが、一般的な文章にそこまで完成度を求めていないだろう。我々一般ピーポーは、それなりに人に伝わる文章をサクッと書きあげるスキルがあればいい。

 

俺は考えすぎてしまって、文章が捗らないタイプである。この文章ねじれているな、とか直しをいれながら書く。それではダメだ、と気が付いた。というか知っていたのだが、直せなかった。それには幾つかの理由があって、その理由をひとつひとつ掘り下げてゆき、書けるようになることが本ブログの目的である。

過去に自分の文章を、人格も含めて徹底的に否定された経験がある。この件については、近いうちに絶対に書いてやろうと思っている。この事件以来、自分の本心や思っていることを恥ずかしいことと思うようになり、読み手が望むであろう展開でしかモノを書くことができなくなった。読み手の顔色を窺いビクビクしながら書くので迫力がないから主張がない。

もう一つは、ねじれた文章を読んでいるとツッコミたくなるタイプである。意味はわかるが、日本語としておかしい文章を読むと気になる。そのてん新聞は、センテンスの情報が盛りだくさんなのに文章がねじれていないのは流石書くプロだと思う。

目標は、手が勝手に思考をトレースして文章化するレベルであるが、とにかく思っていることを綴れるようになりたい。弱気になって、なんども文章を直して、ライン一つ送るのにも時間をかけている自分を変えたい。

 

知っていること以上のことは書けない

かといって、なんでも書けるわけではない。知っていることについては詳しく書くことができるが、知らないことに関しては調べながらでないと書けないし、理解していないことにかんして書くのは相当難しい。理解していないと言い換えることができない。誰にツッコまれてもセーフでいたいのなら、一字一句違えずに教科書通りの文章を書くしかない。しかしそれは自分の言葉ではない。

普段から考えていることや、よく知っていることに関してはスラスラと書ける。あたりまえだ。背伸びをせず、知っている範囲のことを書いていくしかない。俺は、知っていることを書く=その知識が限界 と考えていた。底を知られてバカにされたくないから、あえて語らない姿勢を貫いてきた。話さないことで、自分の中身が空っぽなのがバレないようにしていた。ボロがでないように、あえて曖昧にしてきた。

たとえば、本の感想をブログに書くとする。本音の意見を書くと、「その程度しか読み解けていない」と批判されるのが恐ろしかった。かといって、それなり読み込んだ人を唸らせるような感想は書けない。なので、識者がかいた批評を読んで、それの一部を自分の意見のように語ったこともあったが、結局深いところまでは話せない。自分の本当の意見ではないからである。

もう、そのようなやりとりに疲れてしまった。へんに恰好つけずに素の自分のままで、おもに読書感想文と、最近はじめた将棋について文章を綴ろうと思う。

 

なにを書いてもいいが、デマの拡散と誹謗中傷だけは勘弁な

このブログを再開するにあたって、最低限の決まりだけは守るつもりだ。

デマの拡散と誹謗中傷だ。

事実と反することを拡散するのは、たとえ悪意がなくとも許されることではない。

事実と意見は区別して書く。これは大事なことなのにも関わらず守られていないと思う。たとえば歴史の判っていない部分については、自身の考えに基づいた創作はアリであるが、それを事実のように書くのはアウトだ。このブログでは、おもに自身の考えや、それに基づいた仮説などを綴るつもりである。

誹謗中傷。行動や考え方に対して批判するのは構わないが、人格の否定はしてはならない。人の悪口ばかりの文章など読んでいても面白くない。たとえ事実だとしてもである。

 

さて、なんとなく書きたいことも書いたし、いったん筆を置くことにする。

ここまで約一時間かかった。キーボードのブラインドタッチの精度と漢字変換の精度が上がれば、もう少し入力が早くなると思うし、ミスタッチが減れば倍の効率になる手ごたえを感じた。考えながら打ち込んでいるので、ときどき手が止まる。

いまググってみたら、一時間平均目安で800~1000文字なので、遅いわけではなさそうである。問題は内容があるかないか。内容がピーマンのようにスカスカの文章なら誰でも書ける。ネットで読んだ記事によると、あるラノベなどは擬音だけで2ページ以上使っているようである。これが行数稼ぎってやつか。ラノベ読まんから知らんけど。