話が面白い人とつまらない人の差について
久しぶりのカタカタである。
さて、今回は書きたい話題がある。
話が面白い人と、つまらない人の差についてである。
話を聞いているだけで、うんざりする人がいる。
いっぽう、おいとまする時間をとうに過ぎていても、椅子から離れるのが惜しくなるほど話の面白い人もいる。
つまらない話を聞いているだけで眠くなる。まったく自分にとってはどうでもいい話を延々と聞かされるのにも我慢の限界がある。
まあ、だいたいが自慢話か愚痴話なのである。これらの話の特徴は、飽くなき自己主張なのである。どこまで行っても自分自分、よくもまあ、そんなに自分自身にのみ興味がおありになられるものだと感心を通り越して呆れるのである。
聞き手を全く意識していない。己と向き合ってるのか、己にしか興味がないのか、その二つがどう違うのかを考えながら聞いていると、要するに、自分の主張に賛同して欲しいだけなのではないかと思えてくる。
話がつまらない人の特徴
先日ひたすら遺産相続の話をする人に出会った。
ある地方での話である。先祖が有力者で一帯の土地が一族のモノなのだが、土地の遺産分割をめぐって親戚で揉めているのである。
彼は「私はそこいらの弁護士よりも遺産相続の法律に関しては詳しい」とうそぶいていた。
そして、自分の主張がいかに正当であるか、兄弟がどれだけ邪悪かを力説していた。大学院に進んだ子供の研究テーマが一族のルーツだという話にも驚いた。
本当に家名を誇りにされているのだろう。彼は自分の言い分を信じ、土地の分割に対する主張を緩める気はない。きっと死ぬまで解決しないのだろう。
正直な話、人の土地の問題になど全く興味がない。マイナーな人物の家系図を辿るのには知的興奮を覚えない。最後のほうは船を漕いでいたので、内容も覚えていないから、ただひたすら「お付き合い」しただけに過ぎない。
彼には面白く話してやろうといったサービス精神が皆無であった。時間を割いて話を聞いているのだから、せめて面白おかしく語りやがれと腹立たしくなりケチをつけたくなった。
嫌なら話を聞かなければいい、という考えは通用しない。つまらない話にも付き合ってあげるのが、人間社会の礼儀であり思いやりなのである。彼には頃合いを見計らって話を止める配慮が足りない。話を続けたいのなら、笑えるエピソードを織り交ぜるなどの工夫が欲しい。
話の面白い人の印象
自慢話ばかりでも構わない。ただし、そこにギャグを噛ませるテクがあればの話である。
バカ話だけでは人間性が薄っぺらいと思い適当にしか扱いたくなくなるが、ときおり含蓄を含んだ一言を発すると、この人の言うことには価値があると注目したくなる。
また、ただ単に自己主張ではなく、誰かのために自分はこう思う、という発言は、その人のもつ高い精神性を浮かび上がらせる光を放つ。
心の奥底から自然に湧き上がってくる意識していない心、つまり義や利他だからである。
なんの下心もない、人を喜ばせたいという感情で溢れているのが面白い話である。
1100文字 20分所要
思いつきで久々に書いた。最近忙しいのでなかなか書く時間が取れない。
本当に書く気があれば何が何でも時間を捻出するものだ。まだまだ自分には習慣化していないのと、書く覚悟がない。とはいえ、自分を責める気もない。
覚悟がどうとか、今はいい。そのうちに自然に覚悟しなくてはならないときがやってくるだろうから。