話が面白い人とつまらない人の差について
久しぶりのカタカタである。
さて、今回は書きたい話題がある。
話が面白い人と、つまらない人の差についてである。
話を聞いているだけで、うんざりする人がいる。
いっぽう、おいとまする時間をとうに過ぎていても、椅子から離れるのが惜しくなるほど話の面白い人もいる。
つまらない話を聞いているだけで眠くなる。まったく自分にとってはどうでもいい話を延々と聞かされるのにも我慢の限界がある。
まあ、だいたいが自慢話か愚痴話なのである。これらの話の特徴は、飽くなき自己主張なのである。どこまで行っても自分自分、よくもまあ、そんなに自分自身にのみ興味がおありになられるものだと感心を通り越して呆れるのである。
聞き手を全く意識していない。己と向き合ってるのか、己にしか興味がないのか、その二つがどう違うのかを考えながら聞いていると、要するに、自分の主張に賛同して欲しいだけなのではないかと思えてくる。
話がつまらない人の特徴
先日ひたすら遺産相続の話をする人に出会った。
ある地方での話である。先祖が有力者で一帯の土地が一族のモノなのだが、土地の遺産分割をめぐって親戚で揉めているのである。
彼は「私はそこいらの弁護士よりも遺産相続の法律に関しては詳しい」とうそぶいていた。
そして、自分の主張がいかに正当であるか、兄弟がどれだけ邪悪かを力説していた。大学院に進んだ子供の研究テーマが一族のルーツだという話にも驚いた。
本当に家名を誇りにされているのだろう。彼は自分の言い分を信じ、土地の分割に対する主張を緩める気はない。きっと死ぬまで解決しないのだろう。
正直な話、人の土地の問題になど全く興味がない。マイナーな人物の家系図を辿るのには知的興奮を覚えない。最後のほうは船を漕いでいたので、内容も覚えていないから、ただひたすら「お付き合い」しただけに過ぎない。
彼には面白く話してやろうといったサービス精神が皆無であった。時間を割いて話を聞いているのだから、せめて面白おかしく語りやがれと腹立たしくなりケチをつけたくなった。
嫌なら話を聞かなければいい、という考えは通用しない。つまらない話にも付き合ってあげるのが、人間社会の礼儀であり思いやりなのである。彼には頃合いを見計らって話を止める配慮が足りない。話を続けたいのなら、笑えるエピソードを織り交ぜるなどの工夫が欲しい。
話の面白い人の印象
自慢話ばかりでも構わない。ただし、そこにギャグを噛ませるテクがあればの話である。
バカ話だけでは人間性が薄っぺらいと思い適当にしか扱いたくなくなるが、ときおり含蓄を含んだ一言を発すると、この人の言うことには価値があると注目したくなる。
また、ただ単に自己主張ではなく、誰かのために自分はこう思う、という発言は、その人のもつ高い精神性を浮かび上がらせる光を放つ。
心の奥底から自然に湧き上がってくる意識していない心、つまり義や利他だからである。
なんの下心もない、人を喜ばせたいという感情で溢れているのが面白い話である。
1100文字 20分所要
思いつきで久々に書いた。最近忙しいのでなかなか書く時間が取れない。
本当に書く気があれば何が何でも時間を捻出するものだ。まだまだ自分には習慣化していないのと、書く覚悟がない。とはいえ、自分を責める気もない。
覚悟がどうとか、今はいい。そのうちに自然に覚悟しなくてはならないときがやってくるだろうから。
思い込まされている罪悪感
湧き上がる罪悪感
仕事をしていなかったり、誰の役にも立てない無力感が、そのまま罪悪感へと変容する。職を失ったり、病気で働けないのは仕方がないことである。それでも昼間から働いている人を見ると、申し訳なさと情けなさが込み上げてきて泣きたくなるのである。
財産を食いつぶして仕事もせずパチンコ三昧の日々を送っている人を見ると、ふざけた奴だと思う。別に自分自身は何の迷惑も受けていないのにも関わらず、である。
そういう人間を見下して、「あんな人間にだけはなりたくない」という。
まさにアリとキリギリスである。キリギリスが冬に食べ物がなくて困っても、それは自業自得であり、助ける義理はない。努力をした俺たちは、そう考えてしまう。
仮に仕事をしようがしまいが同じ金額しかもらえないなら、一生懸命働くのが馬鹿らしくなる。頑張るほど財をかすめ取られるのだから当然である。
社畜という言葉がある。会社のために身を粉にして働く人々を侮蔑して呼ぶ言葉である。頑張って働いて、その先にあるのは経営者の儲けである。
社畜と呼ばれる人々は「俺が居ないと現場が回らない」と、怒りのパワーで休日返上で不眠不休で働き、納期に間に合わせる。それを誇りとしている。
仕事に人生を捧げるのを美徳とする価値観が普遍的な社会では、働けない人は社会のお荷物だと考えるようになる。働けないのは努力が足らないのでは、なにか悪いことをしているのでは、と考える人が多いからである。
タモリの名言「真剣にやれよ、仕事じゃねえんだぞ」は、エキセントリックに感じるが、実は極めてまともな意見である。
趣味や、自分が人生かけてやりたい仕事(ライフワークという言葉は好きではない)は真面目にやれといっているからである。
逆に言えば、職業としての仕事は(ライスワークという言葉は嫌いだ)、とくに雇われ業務は、自分の人生を犠牲にしてまでやるほどのことじゃあない、ということである。
不真面目にやれと言っているのではなく、社畜になることはない、仕事はきっちりと終えて、余暇には人生をもっと楽しもうと言っているのである。
「やる気のあるものは去れ」も同様である。タモリ本人がそう解説したわけではないので真意は知らないが、少なくとも俺はそのように受け取っている。
社畜という言葉が生まれる背景には、会社や社会のために人生を削りとるのが美徳だと思い込ましている何者かの存在がある。
べつに政治的な話をしたいのではない。陰謀論を語りたいのでもない。
あなたが赤い薬を飲んでウサギの穴の中に入ろうが、青い薬を飲んでベットでいつも通り目覚めようが、俺にはどうでもよい話だからだ。
赤い薬を飲み、あなたが現実世界で目覚めたときに、俺の言っている意味が分かるだけである。
本当にやるべきことだけをやる
取捨選択、ときには取捨択一し、本当に必要なこと以外は諦めることも大切である。
心のそこからやりたい、やらずにいられないこと以外は、とりあえず差し迫って必要なことだけをする。あれもこれも効率よくこなそうと考えると、神経質な人間には追い詰められたような心理状態になる。
そこそこでよい。形になっていればよいと考えられるようになったら、しめたものである。神経質だと、うまくできないくらいなら、やらないほうがよい、と考えてしまうからである。行動に移すまでに非常に時間がかかり、結果やらなくなるのである。
自身の認知が偏っていると認め、細かさを自覚したうえで、いい塩梅に大雑把になるように調整してみる。細かさは長所なのであるが、当事者にとっては苦痛でもある。
細かさを手放す罪悪感は思い込みだと自覚すると苦痛が和らぐ。
自分を犠牲にすることで、社会に価値を認めてもらえるだろうと考えても、実際には資本家が儲かるだけだと思い込んでみよう。しかも彼らは、ありがたいと感謝するのではなく、仕事とやりがいを与えていると見下していると考えてみる。
やりがいや精神論を押し付けてくる連中の吐く言葉を真に受けてはならない。眉に唾してあしらおう。
責任から逃れるのとは違う。不必要に自身を追い詰めることはない、ということである。
本当は自分が思っているよりも、世界は性悪ではない、かもしれない。
世界が公平だと考えている人は多く、割と普遍的な認識である。
神羅万象の理がバランスをとろうとする世界である。だから因果応報であり、悪いことが起きた人はそれ相応の罪がある、という考えである。
俺も世界はバランスだと主張しているが、世界がバランスをとろうとしているのではなく、個人の心がバランスをとろうとしている意であって、同じではない。
受けた恩を返そうとか、受け取ったのに返さない恩知らずに怒りを感じるとか、そういった人の心の動きに関しての話である。
そういった思い込みは、すべて認識の問題なのである。それを自覚すれば、こうも考えることができる。
この世界はRPGだと。
つまり、自分の意志で動いているように見えるが、みな役割を演じているだけであって、仮想現実ゲームの中にいるだけなのかもしれないと。
俺たちは、洞窟の壁に落とされた影をみているだけなのかもしれないと。
真実のごく一部しか知らず、そのものは見えていないと。
2100文字 一時間半所要
まあまあのペースである。集中できればもっと早く打てる気がする。
色々と考えていることを書き始めると、事実確認したりと調べものの時間がある。それも含めてのペースなので、タイピングが早くなったといえる。
変換ミスや苦手なタイプがある。とくに横文字を打ち込むのが苦手である。
ひたすら同じ主張を言葉を変えて続けているだけである。自分自身のために書いているのでくどくなる。
自覚的に無神経になる
カタカタする時間である。
別に論文を書くわけではない。順不同で、とにかく今言いたいことを書くことにしよう。
前回は認知について書いた。認知そのものを論ずるのは非常に難しい。いまだに解決していない深い問題だからである。とにかく言いたいのは、誰しも認知に偏りがあって、それを無くすのは不可能だということだ。
自覚的に無神経になる
クヨクヨしても仕方がないときがある。場数を踏めば、そうなる場合もある。慣れの問題である。修羅場を潜り抜けるとふてぶてしい度胸がつく。
繊細であることは大切だし、元々が神経質なのであれば、それをマイナスと捉える必要もない。ああ、俺は細かいことによく気がつき、傷つきやすい体質なのだなと受け止める。
そのうえで、いざとなると俺はふてぶてしい面もあるな、と思い込む。
それは生きるための知恵だと思う。
タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きてる資格がない。
フィリップ・マーロウのセリフの通りである。
銀河鉄道999にも似たようなシーンがある。
「あんなのをみても食欲に関係ない。鉄郎タフになったわね」
エターナル編で、ヴァルキリーの空間擲弾兵(スペースグレネイダー)に始末された犬どもの死体を見て「うわー 食事がまずくなる」といいつつ、食欲にまったく影響のない鉄郎を評してメーテルが言う言葉である。
「いちいち驚いていたら、生きていけなかったんだ」
「ぼく自身がだんだん残酷な人間になるようで…冷酷な人間になるようで気になるけど……しかたがなかったんだ…」
メーテルは鉄郎に理解を示す。
「星の海は厳しい処…死と隣り合わせのフロンティアだものね。
タフで動揺しない図太い神経を養わない限り、生き抜く事はできない…」
「ごめんね鉄郎…気にしないで……」
厳しい環境に適応するためには、自覚的に無神経になることも必要である。しかし、無神経であることを苦にする感受性も同時に必要である。
神経質だと、人に期待するのはよそう、と考える。
甘えているのは恥だと思う。親切にしてもらって当たり前だという考え方が、どうも許せないのである。
親切にうろたえる。どう対処したらよいのかわからない。借りを作ってしまった、よけいなお世話だ迷惑だと思う気持ちが湧き上がるのと、親切に慣れていないので、どう感謝を表現すればいいのか分からなくてパニックになる。
頼むから放っておいてくれ、と願う。あまり深く関わり合いたくない。いきなり懐にふみこまれているようで恐ろしさすら感じる。一定の間合いを保たないと精神的にもたないのである。
金銭的にも精神的にも借りを作りたくない。貸しはあってもいいが、返してもらえると期待はしない。だから、積極的に親切にするのが難しい。そう、難しいのである。イヤだとか、面倒くさいではなく、難しいのである。
親切にしたいのに、その行動がどう影響するかを考えるほど分からなくなり、果たして迷惑ではないだろうか、かえって嫌がられないだろうかとさんざん悩んでいるうちに、なにも出来なくなるのである。
親切な行いをしたいのに、行動できない。一人相撲をとって、勝手に精神的に参っているだけなのに、それを理解してもらえない辛さがある。むしろ非難されることがある。
そういった日々に疲れ切って、敢えて見えないふりをするのである。精神的なバリアである。結界を張っていることに気がつかず、優しさを押し売りしてくる連中に対し、憎しみすら感じる。彼らは正義の看板を背負ってキレイごとを言っているだけで、結局は自分が気持ち良くなりたいだけなのである。
心のモードを切り替える
心配や問題を抱えているとリラックスできない。いつまでたっても仕事が終わらない。
仕事のことばかり考えてイライラする。
こんなときは心のスペースが少ない状態である。
机上に仕事の本ばかりが置いてあり(いわゆる獺祭である)片付けられていないので、なにか読むたびに本棚にいちいち取りに行かなくてはならないので不便なのと同じことである。不要な本を片付けて、書くのに集中できるだけのスペースを確保しないことには捗らない。
一言でいえば、メモリー不足のPCのようなものである。
そんな状態では、難解な本に取り組んだり、心を震わす読書をするのは無理である。
心の中に常に焦りがあり、このままではよくないと思いながらも、ネットサーフィンや漫画、YouTube、テレビに逃げる。だらだらと受動的に時間を消費してしまう。
先のことを心配しすぎるあまり、何も手につかなくなる。
時計を見て、ふと湧き上がる罪悪感に打ちのめされる。
そういうときにこそ、自覚的に無神経になればいいのである。
つまり、心配する気持ちや罪悪感は、認知のバイアスであるとメタ認知するのである。
逆にこう考えてもいい。心が常に穏やかな状態などありえない。不動心などといった精神状態は観念の中にしか存在しない心境で、穏やかに保つように心身で調整しているのだと。
自分の影響でなにかが変わるのなら、気を揉む意味もある。しかし、自分ではどうしようもないもの、つまり他人の気持ちや考え、天気などを考えても仕方がない。
自分で変えることができるものと切り分けて考える。
このように書いていると、自己啓発本の内容と酷似していて嫌になるが、実際にその通りなのだから仕方がない。
俺はあくまでもポジティブの押し売りが嫌なだけで、認識の偏りを認め、自覚する考えについては同意である。
2200文字 一時間半所要
まだまだ全然書き足らないのだが、時間がない。
しばらくは同じネタになる。つまらない、興味がない人が殆どだろうし、実際に読者の数はほぼ毎日0人である。つまり読んでいる人などいないのである。
ネットの海に放つのが目的の、ただの日記というか考えを記録したものである。最低限読める形にする義務があるというだけで、ようするにチラシの裏に書きなぐった落書きのようなものである。
神経質な性質をなんとかしたい
数日ぶりのカタカタタイムである。
ちょっと書く気分にならなかった。インプットの時間もあったし、考えがまとまらないので書けなかった。
何日かの間に考えていたことを小出しに書いてみたい。
インプットといえば、マイケル・サンデル教授の新刊を読んでいる。邦題は「実力も運のうち 能力主義は正義か?」である。
本の内容は、タイトルからも判断できるように、能力主義の不平等について説明し思想を展開している。
俺が以前よりブログや一部の人に主張している「努力の信者」について言及している。さらっと読んで「大体わかった」では勿体ない。じっくりとよんで血肉にしていきたい。元々興味のあるテーマである。染み込むように頭に入ってくるが、サンデル教授は政治哲学が専門なので扱っている内容が大きすぎると個人的には思った。
神経質な性質をなんとかしたい
俺は非常に神経質である。文章に頻出する単語から性質を判断するAIがあると聞いたことがある。仮に自覚がなくとも、それで測ればおのずと判明するであろう。
素人判断になるが、おそらくHSPでもある。ネット診断によれば、間違いなくHSPとのことである。実際にそうかどうかというより、その疑いがあって、実際に悩んでいるのが問題なのである。
疲れやすく、つねに鬱である。極端に睡眠時間が長い場合もあるし、短い場合もある。
精神的に安定しているように見えるが、気力が湧きたたずに命を長らえているだけのような毎日なのである。しかも時折イヤな考えが頭を支配し、何も手につかなくなる。しばらく時間がたって脳ミソ回路の線路が切り替わるとネガティブな妄想から逃れることができるのである。
これから書くことは、社会心理学を修めている人からすれば間違いであったり、当たり前のことなのかもしれない。俺はまったく無知なので、自身の考えをそのまま書くだけだ。
スピリチュアルや自己啓発に近いいかがわしさもある内容だが、自己救済の目的で考えたうえでの結論である。もちろん間違いに気がついた時点で、正しい考えにアップデートし改めるつもりである。
主旨は、神経質な人間は認知の偏りを自覚しメタ認知することで、いい塩梅に細かさを手放すことで僅かでもタフになれるのではないか、ということである。
ありとあらゆる認知には偏りがある。それを正すことは人間には不可能だと看破する。
この意見は論理的には矛盾している。看破したと認知した時点で偏りがあるからである。
だから論理ではなく、心で理解して欲しい。
つまり、なんにしても取っ掛かりとして決めつけるしかないということである。絶対に揺るぐことのない足場を積み上げて、すべてに共通して破綻の無い理論を生み出すのが理想だが、実際には正しいと仮定して強引に当てはめて証明するしかない問題もあるということである。
自分には偏見がないと考えず、偏見があると自覚することから、すべてが始まる
認知には歪みがある。どれほど自分が素直であったとしてもである。疑い深い人間に、「ひねくれた物の見方をしてますね」と指摘をしても受け入れないという話ではなく、正しい量と方向を知るのは人間には不可能だという話である。
これをわかりやすく説明する。
あなたは今、RPGゲームの世界にいると仮定しよう。
ステータス画面を開くと、HPやつよさなどのパラメーターから、具体的で正確な能力値を把握できるだろう。だから味方や敵のパラメーターと比較すれば、自身が相対的に優れているかどうかが判断できる。
しかし、現実世界では、人間の能力を数値で具体的に知るのは不可能である。
もちろん、屈強な肉体だからあいつは強そうだ、とか、学力テストで常にトップだから彼女は頭が良さそうだ、などと判断はできる。しかし、試合結果や試験の点数は数値としては目安にはなるが、すべてを決定づけるほどの重要さをもたない。
試合で弱い相手と当たったからたまたま勝っただけで、つまり運が良かっただけかもしれない。試験結果が悪かったのは、たまたま体調がすぐれなかったからかもしれない。
運や環境の要素なしに結果だけで能力を測れるほど人間は単純ではない。しかし、それで判断するしかないから、そうしているだけである。
能力が優れているかどうかは比較して判断できると考えるだろうが、自分と比べるときには多めに見積もったり低く見積もったりするものである。それが認知の偏りである。
ここまで1700文字 約1時間半
時間オーバーのため、ここで終了だが、まだ書くべきことは山ほどある。
書くのは億劫だが、話すよりもいい。しかも書き始めると、どれだけでも書いていたい。時間を忘れるほどである。書き始めるまでが辛いのである。筆が乗るというかリズムが出来上がるとバシバシとキーボードを叩き続けても飽きない。ブラックコーヒーの量が増え、尿が近くなるのとお腹の調子が悪くなるくらいしか影響はない。
ところで俺は論ずるのが苦手だと気がついた。分析的ではないからである。
いっけん論理的に見えるが、ただ単に理屈っぽい話し方をするだけで実のところは論理的ではない。数学や論理学は苦手である。
むしろ物語るほうが向いているのではないか。やったことがないので自分でも分からないのだが。
この点についても、なぜそう考えたのか書きたいと思っている。
共感について
日課のカタカタをしよう。
激しく同意します
昨今聞く言葉に、「共感」がある。
TwitterなどのSNSの発信や書籍などを取り上げて、「共感の嵐」などと騒ぎ立てるのである。よく目にするのは、人生について4コマ漫画で表現した作品である。
俺はこの現象に食傷気味であり、なにかと共感しまくる衆人に対し些かイラついているのである。
その理由として考えられるのは、ひとつは俺自身の承認欲求が満たされていない状態だからだと思う。つまりは嫉妬である。
そういった作品は衆目を集めるだけあって、発言にキレがあったり漫画が秀逸なのである。今の自分には創作できるレベルではなく、正直悔しいのである。
共感を英語にするとシンパシーである。シンパシーというのは同情するとか気の毒といったネガティブなイメージを持った言葉である。
一方、「共感の嵐」の場合は、「あ、わかる!そうだよね!言語化してくれてサンキュー」といったニュアンスである。
とはいえ、仲間意識からくる感情なのは変わりがない。親しみのある存在だからこそ共感するのである。その点においてエンパシーとは異なる。
発言者が全く知らない人であっても、立場や考え方に共通点を見出したから共感するわけで、仮に意見や主張にバイアスがあり乱暴な決めつけがあっても、批判的な態度をとらずに同志として受け入れるのである。
その場所はエコーチャンバーの居心地の良い場所となり排他的になる。
外部からは弱者の傷のなめ合いのように見えることもあるし、単なる欠席裁判ショーにしか見えないこともある。
井戸端でも、給湯室でも、便所でも、昔から諸人は共感しあい支え合って生きてきた。それを否定する気は毛頭ないが、そういった紐帯の確認作業に辟易している人間がいるのは指摘しておきたい。
共感しない奴は敵だと見做されるのが厄介だから、共感したフリをすることもある。
お前は敵なのか、味方なのか、と、問われているからである。
まさに感情の押しつけである。愛や絆といった言葉を軽々しく口にする人間ほど、そういった傾向が強いと個人的に思う。
友人が神のように崇めている人がいる。彼に会うたびに「○○さんはスゴイだろ」「偉大なんだよ」「だから崇めろ」と押し付けてくる。
そのたびに、「スゴイねー!」「そうなんだね」と受け止めるのだが、心の中では、「君にとってはね」と付け加えている。本当の意味で共感しないのは、彼をバカにしているからではない。無批判で受け入れられないだけである。
わざわざ敵対したくもないので歩調をあわせはするが、正直なところ深入りしたいとは思っていない。
共感というのは自分自身の感情の動きであって、共感を集めている主張に耳を傾けはするものの、無批判では受け入れないし他人に強制されるものではない。
意気投合した相手と意見が割れると怒りを感じる人がいる。自分が否定されたと受け取るからである。自分と同じ考えの人間などいないと諦念するのは意外と難しいのである。
1200文字 1時間40分所要
共感する心は大切なのだが、共感を連帯感と勘違いして強要する文化が日本にはある。
偏った情報を鵜呑みにし、あいつは叩かれても仕方がない悪い奴だと決めつけて、自分の意見と同じ書き込みを見つけると、乗っかって誹謗中傷する。
みんなが自分の書き込みに共感してくれると承認欲求が満たされて脳内物質がドバドバ分泌されるのだろう。
他人がなにをしようと勝手だが、俺は一匹狼がいい。いかにもオンラインサロンは居心地が悪そうである。
大人になれば強くなれると思っていた
カタカタの時間である。
引き続き、弱者について考えてみよう。
子供は弱者として守られるべき存在であるが、これから俺が多感な思春期に考えていたことを述べたい。
早く成人して、大人としての権利を行使したいと考えていた。
なぜかというと、子供に許された権利は限られていたからである。仮に結婚したくてもできないし、できたとしても親の承諾が必要なのである。ローンを組みたくても同様である。
お前は面倒を見てもらっている身分なのだから、一人前に権利を主張するな、義務を果たせと大人たちは強制する。社会に守られているのが重荷に感じていた。
未成年が家出をしても、警察に職務質問されたら連れ戻されるだけである。家を借りることもできない。何一つ、自分だけの意志で決めることなどできないのである。
環境を変えて一からやり直したいと思っても、自分の一存では住む場所も、関わる社会も変えることなどできないのである。
未成年者が事件を起こしたら少年Aと報道され、親が民事的責任を問われることになる。
それを弱者の強みととる人もいるようだが、俺は自分で責任をとれないからこそ事件を起こすべきではないと考えた。自分のケツを自分で拭けるように早くなりたかった。
一人前の国民としての権利を得たら、義務さえ果たせば、あとは自由にやれる。そう信じていたのである。
日々の生活に息苦しさを覚えていた。早く大人になって働きたい。そればかり考えていた。俺にとって、独立することが強さだったのである。
自分の意志を貫くには、人の助けや情けにすがるわけにはいかなかった。
自身の倫理観と実力のみを頼り、強く生きていきたいと考えた。
良い人もいるが、悪い人間のほうが目立って多いと思っていた。なぜなら、何の物理的な得もないのに悪意を振りまく連中を目にする機会が多かったからである。
自分を曲げずに生きるのは難しい。自分がやられたら嫌なことを努めて他人にしないようにしながら、悪意をもった連中のいる社会を生きなくてはならないからである。
残念なことに、実力が伴わないと節操を貫けないのである。
信念を曲げずに人生を送るのは、言い換えるなら自分自身を縛る考え方である。ブレない強みが弱点になる。
自身に強みがなくても、カメレオンのように色を変えて強者におもねる生き方を恥と思わないのなら、悪意ともうまくやっていけるのだろう。
ベタだが北斗の拳という漫画にたとえると、自分の信じる正義を貫くには物理的な強さが必要なのである。世紀末の荒廃した社会では、食料の奪い合いはもちろん、気まぐれで息をするように人を殺すのである。そんな社会でキレイごとを言っても瞬殺されて口がきけなくなるだけである。いじめの手先は北斗の拳の雑魚と一緒で、ボスの顔色ばかりを窺っている。お前はいじめられてないと思っているだろうが、ある意味いじめを受けているのに早く気がつけよ。
ボスの太鼓持ちになるのだけはプライドが許さなかった。まだ、いじめられるほうがマシだと思った。いじめの手先に嘲りを受けようが、憐れむ感情しか生まれない。
殺人拳法の使い手が、みなトキのような人格者だったら問題ないのだが、多くの強者は悪人である。悪を咎めるには圧倒的な力が必要なのである。
なのに俺にはその力がない。なぜか嫌な奴に限って喧嘩が強いし、いじわるな奴に限って勉強ができる。不思議なことに弱いものいじめをしている奴が先生に認められていてクラスの中心にいる。トキのように実力を兼ね備えた人格者はめったにいなかった。
先生はクラス全体を把握してるつもりだが、真実をなにも知らないので滑稽である。
家庭でも学校でも独りだった俺は、いつも不公平さや、自身が必要としている力と現実のギャップに悩んでいた。
自分がまぎれもない弱者であり、それを認めつつも受け入れることができず苦しんでいたのである。
早く大人になって、真っ当な手段で金を稼ぎたい。学校で粋がっている連中を見返してやりたい。何の根拠もなく、社会に出さえすれば成功すると信じていた。
1600文字 2時間所要
やはり2時間程度はかかる。推敲はなるべくせず、古い記憶を呼び起こし、考えながら書いている。
眠気と闘いながら、ニュアンスが伝わる言葉を選び、リズムよく,ときには韻を踏むように、ときには詩のような表現を探しつつ、思ったように打ち込めないキーボードと格闘している。
社会で孤立しやすい性質を持った人が弱者になる
カタカタの時間である。
前回は弱者について書いた。なかなか深いテーマであるから、単発で取り上げるにはもったいない。これからも少しずつではあるが考えを記していきたい。
弱者について語れるほどの学術的な知識もないし、物語れるほどの構成力も筆力も残念ながらない。ひたすら亀の歩みのように、ゆっくりと考えていきたい。そもそもの目的としては文章力を高めるための練習として書いている記事である。弱者に対して思うことがあって世の中に訴えたいのでもなく、学問として学びたいわけでもないわけで、その点自由なのである。
弱者というと、弱いものを指す。弱いとは、何が弱いのであろうか。
子供のときを思い出してみよう。弱いというと、争いに弱いという意味ではなかったか。
・腕力が弱く、喧嘩をすると負ける。
・気が弱く、言い合いになると言い返せない。
・競争心が弱く、試合に負ける。
弱い彼ら彼女らは、強い者たちの対極に位置する存在である。
子供たちの社会にはカーストが存在する。全体の中で喧嘩が強ければ別だが、運動や勉強や遊びが並み以下だと弱者と認識され、自動的に底辺のカーストに位置づけされるのである。
年下の子や女の子は弱いから、男性が暴力を振るうのは卑怯だという考えが我々には根強くある。緊急時に避難を優先するのも女子供と老人である。屈強な成人男性が最後に残るべきとされている。老若男女という属性なら若い男が強者なのである。
基礎練習を欠かさない女子プロレスラーなら、ほとんどの男性より腕力で勝っているから、戦ったら男性に勝ち目はない。これは例外であって、一般的には女性が力勝負では弱者である。
いっぽうで、体が弱いとか身体・知的障害に対しては、健常者と比べるとハンデがあるので配慮を要するという認識がある。
子供のうちは衝動を理性で抑える能力が発達していないから、中には配慮を要する子供に対していじめ行為をする子供もいる。
弱者には
・社会的弱者
・健常者に対しての身体的弱者
の2種類があるのではないだろうか。もちろん2種類の属性を併せ持った弱者も存在する。
社会的弱者を掘り下げて考える
社会のなかでの弱者なので、相対的な弱者といえる。ジャングルのなかに素っ裸で放り出されたら、ゴルゴ13でもない限り生き延びるのは難しい。環境によるが、おおよその人間は絶対的弱者である。
社会で弱いというのは、なにも能力だけとは限らない。無能でも権力をもっていれば強者である。
身体的弱者であったり、実務能力が低かったとしても、コミュニケーション能力が発達していて影響力が高ければ、社会的には弱者ではなさそうである。
間違いなく社会に存在しているはずの弱者なのに、その正体はつかみどころがないのである。
社会で孤立しやすい性質を持った人が弱者になる
社会のなかで孤立している人が弱者なのではないか、と仮説を立ててみる。
人と繋がれない、繋がってもらえないと感じているから弱者なのではないだろうか。
自分の属している社会のなかでカーストが低いため、周囲との間に対等な関係を築けない。結果、自分にとって不利な条件を飲み続けるしか術がない。
人との繋がりが弱いがために、強者に対抗し得る手段を持たない。
孤立する原因として、コミュニケーション能力の低さが考えられる。
コミュニケーション能力には、人を不快にしない外観と、信頼されやすい立ち振る舞いも含まれる。人は見た目が9割なのである。
話していて楽しい人と、一刻も早く離れたくなる人がいる。
話すほどに尊敬の念を抱く人と、呆れて見下してしまう人がいる。
弱者は、魅力的ではなく関わってもメリットがないと思われてしまうから、受け入れて欲しいのに欲求が満たされない。
弱者同士で助け合うことで解決できないかと思うのだが、そんなに単純な話ではない。
俺の推察では、弱者同士は関りあっても報われないようである。弱者も弱者を見下すからである。自分より弱いものは魅力的ではないから、関わり合ったとしても周囲に気付かれないようにする。
学校や会社などの社会においては、序列リストの順番が重要なのである。
「彼はイケている」とか、「あいつはキモい」など、その社会を構成している人々の間に共通した認識があって、我々は評価に不満があるにせよ従っている節がある。
誰もが共通した認識と考えている序列より自身が下に扱われるのだけは我慢がならない。だから下位の序列の者に対して見下すのである。
そのような構造があるから、かならず椅子取りゲームの敗者が弱者となり孤立するのである。大貧民で革命が起きない限り、あるいは環境が変化しない限り、弱者は弱者のままである。
社会が変われば弱者ではなくなる場合もある
学校ではいじめられっ子でも、塾ではイケてる場合もある。
結婚相談所で見合いすら決まらない恋愛弱者だが、年収2000万で持ち家があり預金が1億ある男。
弱者は見方によっては強者なのである。
満たされるべき欲求が満たされていないのが弱者なのだろうか。
喧嘩が弱く、腕力で尊厳を奪われた人間からすれば、肉体的に弱いと弱者である。
だから、喧嘩が強くなりたいと思う。格闘漫画を読んで強者をボコボコにする想像をしたり、コンプレックスを克服するために筋トレをしたり格闘技を習うのである。
劣等感をバネにして努力できる時点で弱者じゃないという指摘もあるだろう。
苦しいけど、自分自身を弱者と認めたうえで克服しようとするか、あるいは自己卑下するのか。
自己卑下する気持ちも理解できるし、なにか別の問題のせいにする気持ちも理解できるからである。
次回は弱者がなぜ自己卑下し、何かのせいにする理由を考えてみたい。
2300文字 1時間半所要
沼に足を踏み入れたような気分である。
弱者の気持ちが理解できないと書けないし、かといって弱者にとらわれていても書けないのである。
俺は子供のころ学校内で孤立していた。そんな中でも親切にしてくれたクラスメイトもいたが、俺と仲良くしたいのではなく善意からだと知ってがっかりした経験もある。なるほど、俺は深入りしすぎていたのである。
対等な友人関係を築けなかった俺は、人間関係の距離感を学べずに大人になってしまった。自身が弱者であるのを認めたくない一方で、なぜ、誰も配慮してくれないのだと一人で怒っていた。
だから、人に甘えてはならないと思うようになった。世の中は厳しいから、いざとなったら誰も信じてはいけない、頼っても助けてくれない、そう決めつければ人をアテにしなくなる。一匹狼で生きよう。弱者だからこそ自分の身は自分で守るのである。
そう決めても、ときどき人を無性に信じたくなる。お人好しの血が騒ぐのである。
たいていの悩みは人間関係である。体調がまあまあで生活費に困ってない限りは、人との関係性で胃に穴が開くほど悩むのが人間なのである。
その関係性において弱者なのは、人生のなかで相当な苦痛である。
孤立しやすい性質をもっているから弱者なのか。弱者なので孤立したのか。
どちらにしても、弱者になる人には特有の性質があるような気がする。環境に依存する性質なのか、あるいは生まれ持った性質なのかはわからないにしても。