文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

誹謗中傷されるのが嫌なら発信するのをやめればいいというのは思考停止である

誹謗中傷されるのが嫌なら発信するのをやめればいいと言うのは思考停止である。
 
それは生きているのが辛いと言っている人に、「なら死ねば?」と言うようなものだ。
 
前向きな批判ですら、傷付かずに受け止めるのに努力を要する。ましてや、根も葉もない、貶めるためだけの意見を目にすると、自分の存在を自分自身を否定されているのが可視化されていると思い込んでしまう。
 
周りが敵だらけだし、擁護してくれる人がいても、いつのまにか勝手に、こちらの意図に反して争いを始める。
 
強い線引きを持つ心
どこまでが自己の発信において責任を持つべきか。ある結果に対して、どこまで責任を負うべきか。誹謗中傷に対して、どこまでが反省しなくてはならない範囲で、どこからは反応しなくても良いのか?
 
当事者以外からの反論に対しては、外野は黙っていろと思い、正直な気持ちを言うと真摯に対応したくない。むしろクレーマーというか、ここぞとばかりに叩きに来た奴にしか見えないので排除したくなる。人間にはそういう面がある。
叩く者は自分が安全な位置にいる、つまり当事者ではないから楽しいのである。匿名で透明な存在として、娯楽として、自己主張する。
煽り立てたり、煽られてますます火力は上がり、煙は高く登る。それを見た者は、ただの好奇心と自分の中の安っぽい正義感だけで他者を切り捨てる。
多数の中にいると自分が完全な正義であり、叩かれているのは完全な悪なのだから叩かれるのは当たり前だと思う。まさに正義の鉄槌である。
 
燃やす(火種に酸素を送り込み燃え上がらせる)
叩く(正義の鉄槌)
 
この二つの行為には相似点がある。行為者は、その瞬間どちらも心地が良い。破壊的である。悪しき者を一度壊し再生させる。魔女裁判の火あぶり、魔女への鉄槌。
その場の雰囲気、一種の集団ヒステリー状態。これがSNS上で起きている。
炎上し、叩かれているのは魔女裁判の魔女のようなものだ。
 
感度の違い
親切心からの注意でも、相手は人格否定と受け取るかもしれない。叩く側は、その発信が気に入らないというだけで、理論ではなく感情だけで叩く。しかしその批判は、論理のマントで覆われているので一見反論し難い。
受け取り方が人それぞれなので、明確な定義や線引きもなく、お互いが主観で話すから噛み合っていないのにもかかわらず、罵詈雑言だけは与えて受ける形になる。
 
どちらかが論理破綻したことに気がついた瞬間、話をすり替える。議論を真面目にするのではなく、勝った負けたが大切なので、論理を曲げる。力関係がモノを言う。無理が通れば道理が引っ込むのである。
 
建設的な話し合いは難しい
多数の人に叩かれると、自分が悪い、おかしいかもと考える人もいる。一方でブレない人もいる。ブレない強さは、ときには迷惑でしかない。とはいえ、自分自身に不信感を持つのは精神衛生上よろしくない。
 
理解しようと思う心と、理解させてやろうと思う心
理解する側にその準備ができていないと理解はできないし、理解させてやろうと上から目線で考える者は、相手を理解しようとは考えていない。極論であっても、そう考えるバックグラウンドがある。それを推し量るのが度量である。
 
理解するほど、考えはブレるかもしれない。相手にもそれなりの理由や考えがあって、そう言っている。それがわかってしまうと心の底から非難が出来なくなる。理解が出来ないにしても尊重の意思が発生するからである。
だから、自分のことと置き換え、立場を入れ替えて考えられる人は常に苦しむのである。
しかし、思考停止し、ただ自分の考えはこうだからと決め付ける薄っぺらさよりはマシである。思考停止するくらいなら苦しんだほうが百倍、いや1万倍いい。
 
他人の意見は間違っていると一瞬で切り捨てるから、脊髄反射で反応してしまうのである。
他者を理解し尊重する姿勢と、他人事ではなく自分ごとだと思うこと。
その意識が、送信ボタンを押す前に文章を見直す、あるいは取り消すことにはならないだろうか。
ネット炎上は対岸の火事ではないのである。
 
 
今日は記事を書く時間が取れないので、去年の6月13日に書いてEvernoteにぶちこんだ文章を流用した。間違いなく俺の文章だと思うが、もし他人の文章のコピペだとしたら猛省のうえ消去する次第である。
ネットリテラシーの欠如について言及した記事である。まあ、よく見かける内容ですな。なぜに今さらこんな文章を書いたのか。思い出すまま書くと、ある某Q&Aサイトを閲覧していたらコメント欄が不愉快な書き込みで荒れていたので、思わず勢いで書いたような気がする。たとえ他人に対して向けられていると認識していても、辛辣なメッセージは心を傷つけるのである。
言葉は火と同様に、取り扱いには注意が必要なのである。
 
俺の興味分野、つまり書きたいことは、正義や格差についてである。
よって、考えのカテゴリーの記事は今後もこんな文章ばかりになる予定である。
たいていの人にはまったく用のないブログだと思うが、今回はわりとポピュラーなテーマなので検索で来て記事を読んだ人にはお気の毒だったと思う次第である。
 
ここまで2000文字 コピペと加筆合わせても30分くらい。そのうち、うんこしていた時間を除くと実質20分くらい所要。
 
文章を書くのは、書きたい感情が高まっているときが一番捗る。しかし、そういうシチュエーションだと文章が支離滅裂だったりヤバイ言葉を含んでいたりする。なので、書いた記事は保存して、しばらく寝かせておいてから推敲するのがよいのだが、はたしてそれで文章練習になるのだろうか。
自分の頭の中にあることを具現化するための表現として文章を書くのなら、やはり即興こそが筋なのか。悩む。
 

定跡を無視した将棋は通用するか

さて、今日は久しぶりに将棋の話である。

最近思うことがある。

定跡を無視した将棋は通用するのかという疑問である。

本やネットで研究せず、すべてが独学独自の戦法、つまり序盤からの力将棋である。

剣術でいうところの我流である。さらに時代物っぽく言えば「膂力に頼った獣の剣」である。俺の予想では、プロには通用しないが割とアマチュア高段者でもやられる可能性があると思っている。裏付けとしては頼りないが、以前読んだ「投了すっか」という奨励会員が主人公の漫画でそういう回があったのである。「投了すっか」は作中の棋譜が実戦さながらの作品である。

その回では、将棋道場で真剣師のような風貌の男に奨励会二段の小学生が負けるのである。小学生で奨励会二段なのでかなり強いはずなのに、である。この真剣師風の男は定跡を無視した滅茶苦茶な手を指すのだが、奨励会員を含めた道場最強のメンツたちでも歯が立たないほど強いのである。この道場には強い奴はいねえのかと挑発され、このままなめられっ放しじゃいけねえと、主人公が道場の威信をかけて戦うのである。

 

互いに居玉のまま囲いもせず攻め合う展開だったと思う。確か、最終局面は真剣師が67角打で、89角成と桂を取られると67桂打で主人公の王が詰む状態である。まるで将棋のルールを知ってるだけの初心者にありがちな攻めオンリーの局面である。

もちろん主人公が勝つのだが、なかなかスリリングな将棋であった。真剣師は、ただ脂っこい将棋が指したかっただけだと言う。悪い奴ではなく、ギャンブル漫画のような展開にはならないのである。

 

もう何年も前の話だが、知り合いのご隠居が公民館で将棋を指しているという話を聞いた。結局一度も対局することなく亡くなられたので、ご隠居がどんな将棋を指したか知らない。

伝聞では強かったらしいが、どの程度か知らない。なので想像するしかないのだが、その人は本を読んだりネットで調べたりするタイプではなかったのと、オセロも強かったらしいので、論理的思考能力が高い人だったと思われる。 

おそらく我流で強かったのだろう。定跡を自分で編み出していたのかもしれない。対局する相手がいつものメンバーだったからパターン化していたのかもしれない。

 

俺自身の我流話をすると、定跡の重要さを知ったキッカケは角換わりの駒組みである。

ぴよ将棋は角換わりが多い。僅かでも自陣に打ち込む隙があると崩壊するので、駒の配置は考えなくてはならない。28に飛車がいるとき48金だと、銀の交換をした後に39銀と割打ちをくらうのである。なので58金にする。48金にしたいなら、桂馬を跳ねて29飛車とする。これは棋書ではなく、実戦で角や銀を打ち込まれた経験で自ら考え対策したのである。その結果が誰もが知る常識だったとしても、自力で気が付いたのは収穫である。棋書を読んだだけに比べ、はるかに理解度が高いからである。

角換わりが途中までプロの棋譜と同じ進行だったのを知って嬉しかった。定跡はある局面において、対策に次ぐ対策を施した結果の進行だと確信した出来事である。

いろいろ考えた。後手のとき、横歩取りを拒否するにはどうしたらいいかとか、角換わりを拒否するならどうしたらいいかとかである。

横歩取りも角換わりも34歩を突かなければ拒否できる。後手で居飛車なら84歩85歩と飛車先を伸ばせばいいのである。これらは常識なのだろうが、いちおう自分で考えた。

居飛車振り飛車かも重要だが、角道を止めるか開けるかも重要だ。角道を止めると穏やかな進行だが、攻撃力が低くなる。角道を開けると攻撃力は高いが、スリリングな進行である。序盤は角の使い方が肝だと思う。

そう思って考えたのが、88角のまま矢倉を組んで46歩と突いてから47銀と上がって37の桂頭の歩を守りつつ、77銀を66、55に進める戦法だ。角の効きを活かして中央を制圧するのが目的で、いきなり角交換をされずに済むのがいいが、王の囲いが弱いのが欠点である。後に、急戦矢倉という戦法がそれに近いということが分かった。

 

事前の研究もなく、完全な力将棋だけで一局指しきるのは以外と難しいのである。全く経験のないことを想像するのと似ていると思う。定跡から派生する変化には詳しくても、普通指さない手を指されると先を知らない展開になる。そうなると、けっこう強い人でもどう指したらいいかパ二クって間違えてしまうと思う。

意味不明な手を指されると、どんな意味があるのか考えすぎてしまい自爆するのである。44歩パックマンのような手は、知らないと受け損なって敗勢に追い込まれることもある。よく知らないが、初手に端歩を突いたり、角頭を突いたりする戦法もあるらしい。嵌め技のようなものを予め知っておくのは大切である。

 

定跡を学んでない人と対局すると意外に苦戦するかもしれない。こう指したら相手はこう指してくるだろうという思い込みがあるからである。

定跡外の手順は悪くなるはずだから、定跡を深く理解していればとがめられるはずなのか本当はどうなのか。そのときは悪手だったとしても、定跡から外れて数手後に自分が悪くなる変化がある気がして不安になると思う。

そこそこ強い人同士だと、お互いが定跡を知っている前提で将棋が指せる。ここはこうでしょうというお約束を踏まえた勝負になる。上級者になると互いの信頼がある。

そうでないと、棋書に書いてある変化など意味がなくなってしまう。無茶苦茶されたら棋譜を汚された気がするだろう。

もちろん、プロも意図的にわけのわからない展開にもちこむことも多いがそれは作戦である。

 

ここまで2200文字 所要二時間程度

やはり、詳しくないことは書けない。

ここのところ記事の執筆に時間をかけすぎてしまい、将棋の練習時間が少なくなっている。

俺はたいして才能がない。だから焦っても無駄だ。一時間勉強したところで強くなるわけじゃない。やった分確実にリターンがあると思いたくなるが、そんなことはないのである。だけど、毎日少しずつ勉強すると確実に強くなっている。数か月通して振り返ると成長を確認できる。

つまり、腰を据えてじっくり取り組もうということである。

 

自分だけが損をしていると思う感情

昨日の続きである。

なぜ、平等じゃないのだろう。なにも悪いことをしていないのに、なぜ普通じゃないんだろう。この答えが知りたくて仕方がなかった。未だにその答えは見つからない。

運命の神様はイイ仕事をする

昔から運がない人生だった。

つくづく俺は運の無い男だと思ったエピソードを話そう。

小学四年生のころの話である。いまでもあるか知らないが、学級全体の催しで「お楽しみ会」という会が俺が小学生の時代にはあった。クラス全員がティーカップを持参し、予算で購入したお茶とお菓子を楽しんで、各自持ち寄ったプレゼントを交換するのである。プレゼントにはナンバーが振られ、ナンバーと同数のくじを引き当てた者がゲットする仕組みである。

まあ、小学生だからプレゼントといってもせいぜい鉛筆だとかノートである。運が良くても匂いのついた消しゴム程度のものしか当たらない。それでもなにか一つモノが貰えるわけである。

しかし、プレゼントが用意できない家庭もあるので強制ではなかった。プレゼントはモノでなくても良かったのである。肩たたき券的なものも許されていた。当然そういったプレゼントはハズレ扱いである。

 

当日は担任の先生が頑張っていた。何曲も歌をうたったり、学級の楽しかったエピソードを掘り起こして場を盛り上げようと努力していた。普段の先生よりおどけた感じだったので、クラス中がリラックスしたのか、後半の教室はカオスティックな様相であった。

プレゼント交換の時間になった。クラスの皆が一人ずつ番号を呼ばれてプレゼントを受け取る。

「ぼく鉛筆だった。ノートをプレゼントしたから損したなぁ」

「ラッキー!ノートだった」

さまざまな声が上がる。俺は静かに番を待っていた。俺のプレゼントは三菱uniだった。鉛筆の中では高価なほうだ。親の機嫌がいいときに自分用に買ってもらった鉛筆だったがプレゼントに回したのである。

ほとんど最後に俺の番号が呼ばれた。喜び勇んで番号の書いてある紙を先生に渡す。先生は笑顔でプレゼントを渡してくれた。それは一枚の折りたたまれた紙だった。ひょっとしたら、これは肩たたき券の類のモノか?だとしても、仕方がない諦めよう。

「モノがなにか、開けて確かめてごらん」

先生に促されるまま紙を開いて俺は驚いた。紙にはこう書かれていた。

校歌を3番まで歌わせてあげるのがプレゼントです 元気な声で歌いましょう

「このプレゼント要らないです」

俺は先生に言った。

校歌を歌うなんて飛び切りイヤでもないが嬉しくもない。どちらかといえば、罰ゲームの類である。楽しい会で、なんで罰ゲームを受け取らなくてはならないのか意味が分からなかった。みんな、つまらないものにしろプレゼントを受け取っている。俺もつまらないなりに価値のあるものを提供した。

そもそも罰ゲームがあるなんて話は聞いていないし、一人だけ罰ゲームを受けるのは理不尽だと思った。ひょっとしたらクラス全員の陰謀だとすら思った。俺は瞬間的にここまで考えた。ある意味、またかと思った。いつも責められたり怒られたり損するのは俺なんだ。

先生は俺の言葉を無視して言った。

「みんな聞いて!彼のプレゼントは『校歌を歌う』だ。せっかくみんなの前で歌えるんだからチャンスだよな。ほら、歌っていいぞ!はやく!」

教室が爆笑の渦に飲まれた。笑っていないのは俺だけだ。

「うたえ!うたえ!うたえ!」歌えコールが教室に響き渡る。

そうか、これが俺の役割なんだ。分相応でなければならない。高望みしちゃダメなんだ、みんなに笑われるための存在なんだから。運命の神様はちゃんと分かっているんだなあと妙に納得してしまったのである。

 

自分だけが損をしていると思い込む感情

コンビニやスーパーのレジ待ちや行列の類が俺は苦手だ。不愉快な気分になることが多いからである。待ち時間が長いのがイヤなのだが、どうしても並ぶ理由があるなら、まあ仕方がないと納得している。

納得できないのは、タッチの差で割り込まれたり、自分が並ぶ直前に列がいきなり混み合って、そのほんの僅かの遅れのせいで大幅に待ち時間が長くなるときである。さんざん待たされた挙句、自分の後ろに並んだ人がほとんど待たずにレジが空く現象にも苛立ちを覚える。わざわざタッチの差で列が混むように、運命の神がイジワルしているように感じるのである。

自分と比較して、明らかに運が良い人に対して抱く感情は「ずるい」である。ところが運が良かった人は、不正をしていないことが多い。ずるくないのである。

自分だけが損をしているという被害感情は、一体なんであろうか。

いっぽう、自分だけが得をしている状況において、人はどういった感情をもつのであろうか。まず、逆の立場から考えてみたい。

俺は罪悪感を抱く。他の人はわからない。たまたまラッキーだったくらいならツイていたくらいだが、周りの人は酷い目にあっているのに自分だけが得をしていたとしたら、自分はずるいことをしていなくても、なんだか悪いなと思ってしまうのである。

別に、とくにラッキーが欲しいのではなく、いいことがなくても自分だけが損をしたと思わないレベルであってほしいと願うのである。

時折悲劇的なレベルで不運に見舞われる方がいる。本当に運がなかったのだなと同情してしまうし、この程度の不運で文句言っている自分が恥ずかしくなってくるのである。

 

大貧民に弱いタイプ

損、得、運、不運というのは単体でやってくるものではなく、誰かと比較することで感じるものなのだ。

大貧民というトランプゲームがある。初回のみ、手札と場の運および戦略で決するのだが、二回目以降は違う。カード交換があるのだ。カード交換とは、一回目のゲームで決定した階級にあわせて強いカードと弱いカードを交換する。富豪は貧民から強いカードを搾取できるのである。そのため、階級を這い上がるのが難しいシステムとなっている。

平民は、うかうかしていると貧民や大貧民に落ちてしまう。富豪ほどの特権がないからだ。だから、平民階級を守りたい一心で貧民に対して攻撃的になる。徹底して大貧民を叩き、浮かび上がらせず大貧民のままにしておけば自分の階級を守れるからである。

こういった運ゲームに弱いタイプと、いわゆる運がない人は関連性があるように感じている。ものの考え方や頭の使い方などが似ているし、いじられキャラというか、なめられやすいタイプである。

自分の身を守りたい人々は、運の無い人をスケープゴートにするのである。

これはイジメのターゲットにされたくないから、自分もイジメに参加するのに似ている。

 

自分だけが損をしていると思う感情に対し、どう向き合っていけばいいか。

自分だけが損をしていると思い続けていると、人に話しても分かってもらえないと思い込む。鬱屈して、生きているのがしんどくなる。ただ、朝起きて、義務として仕事に出かけ、こなし、帰ってくる。他のことをする気にもならない。部屋を片付ける気にもならず、散らかし放題になる。休みの日は一日中体調が悪くて寝ている。仕事に行くためだけに生きている。仕事は真面目にこなすがミスが多く、いつも叱られている。要領よくできず、いつのまにか雑用を押し付けられ重宝されている。人に必要とされていると感じられる瞬間だけ、生きている実感がある。義務や責任のためだけに仕事をしている。

自ら進んで皆が嫌がる雑用をこなしているから、有難い奴だと思われていると同時にバカにされているのに気がついているが、そういう連中を軽薄で愚かな連中だと見下すことで精神の安定をはかっている。

自分だけが損をしていることに意味や重みをもたせることで、自分自身に言い訳しているのである。

そして、一番重要なのは、自分だけが損をしていると信じているのである。

実は、たいていの人は皆、自分はみんなと比べて損をしていると思っている。

ただ、それを口に出さないだけである。皆、損をしていると思っていることがまちまちなだけで、他人から見たらくだらない悩みでも、本人にとっては重大な悩みなのである。

それに気がつくと、他人に対して寛容になれる。

事情は分からないし、知りたくもないけど、きっとこの人は自分だけ損していると思うようななにかを背負っているのだなと思えるようになる。

 

極端な話をしよう。

ある中学校でクラスの中心的人物A、BとCの三人が、おとなしい同級生のX君を公開処刑したとする。
女子の見てる前で、強引に押さえつけてズボンとパンツを脱がせてフルチンにしたのである。

ドン引きした女子たちの反応を見て、Aたちは爆笑しX君の姿を滑稽だと嘲笑った。

X君は、女子に恥部をみられたショックで学校に来れなくなった。

ABCらは酷いやつらである。だが、Aも実はショックを受けていた。

X君は巨根だったのである。対して、Aのモノは勃起しても小指の第一関節程度だった。イチモツが人より小さいのは自覚しているのでトイレで小便するときには隣から覗かれないよう常に気にしていた。なので、BやCにはバレていないと思っているが、あの情けないXがデカいのに俺様がなんで小さいんだと納得がいかないのである。

Aからすれば、イチモツの大きさこそが悩みであり、自分だけが損をしていると思っていることなのである。X君 からすれば考えられない悩みである。

むしろX君は、クラスの中心的人物として君臨してやりたい放題できるならチンコの大きさなど2cmでもイイくらいに思うかもしれない。

 

悩みは尽きないのである。問題は人と比べて同等だと思えるかだが、誰しもがはかり間違えるからである。だから折り合いをつけて生きているのだが、不満が爆発する人は相当納得していないのである。

 

ここまで3900文字 約3時間所要

考えながら書いている。つまり考えがまとまっていない。書くことがすでに決まっているのなら、ひたすら書くのみである。書くことが決まっておらず、その都度考えているから遅くなる。

書きたいことをまとめつつ、それをどう表現するかが課題である。文章は読みにくく、多義的で、リズムが悪い。我ながら妙に癖のある文章だと思う。

イムリミットなので、きょうはここまで。

明日は気分転換に将棋の話題にしよう。

 

 

 

鬱屈していた日々

おことわり

まず、この文章を書くにあたり、ことわっておきたいことがある。

これから書く文章は愚痴でもないし、共感して欲しいわけでもない。ましてや、可哀そうな俺を知ってくれというわけでもない。

鬱屈していた日々を思い出して、その時の感情に真摯に向きあい、それが何なのかを理解し表現したいのである。

生きている意味とはなにか。問いを立て考えてみたいだけである。

表現というのは、頭の中にあるものを何らかの形で具現化することである。それを芸術で表現できるなら素晴らしいことである。残念なことに、俺には芸術で表現できるだけの力がない。だから駄文で書き散らすしか方法がない。適切な表現ではないのは理解したうえで、不適切な表現で書くしかないのである。

 

自身が鬱屈していたころの経験をTwitterで表現している人は、わりと多いようである。マンガや秀逸なツイート文で多くの共感を得てバズり、Yahoo!ニュースなどで紹介されているのを時折見かける。

しつこいが、俺は表現することで共感を得たいのではない。むしろ、そのような作品によくみられる「共感の嵐」などの煽り文句を見るたびに、何もわかってないやつが分かった気になって共感しているだけみたいな薄っぺらさを感じずにはいられず、そういった輩と関わってしまった時点でこっぱずかしい気持ちになるのである。

 

これから書こうとすることは、かなり過激な内容も含まれる。気分を害されるかたもいよう。あらかじめご承知おき頂きたい。

 

生まれてからほぼ喘息・アトピー性皮膚炎

慢性的な疾患は、生活の質を著しく悪化させる。

俺は生まれてからの人生ほぼすべて、喘息、アトピー性皮膚炎の患者である。こういった病気は基本的に寛解はするものの完治はしない。

こういった病気はありふれており、診断を受けている人はかなり多いが、発作の程度はまちまちである。とくにアトピー性皮膚炎は、死ぬような病気じゃないと軽く考えている人が多い。あくまでの俺の体感的な主観であるが、実態とはかけ離れてはいないと思う。

季節の変わり目などは、特に体調が悪化する。正直な話、花粉症ごときで辛いだの騒いでいる連中など相手にするのもアホらしいのである。むしろ花粉症程度で済むなら体ごと代わって欲しいくらいである。

発作がないときは元気そうに見えるのが、これらの疾患の特徴である。アトピー性皮膚炎は顔も手も傷だらけなので外観から判別できるが、あいつはアトピーだと認識されると皮膚が炎症しているのがデフォ状態となるので、とくだん気にされない傾向にある。

むしろ、感じるのは見下されているような雰囲気である。顔や体が湿疹だらけなのはスキンケア不足であったり不潔だったりと、つまりは本人の努力が足らないからだという決めつけや、視界に入ると汚物を見るように目を背ける人がいたのである。

感染するわけではないが、皮膚が炎症している人物と関わりを避けたがるのは本能的に理解できる。しかし、顔中に湿疹があると無能そうだとか自分より下だと思うらしく、高圧的だったり憐れんだりしてくる人がいたのは残念に思う。

そういう上から目線の人たちに、掻くから湿疹が酷くなるんだよと言われまくった。痒みがどれほど辛いのかを知らないから、そんなことを言えるのだ。たぶん、これを読んでいるあなたも掻くのを我慢できないと思う。

痒みは突然襲いかかってくる。皮膚の下を蟻がはい回っているようなぞわっとした感触があり、患部が熱を帯びると痒みは増々高まる。気がつくと指が勝手に動き出す。なにかに体を擦り付ける。搔かずにはいられない。

肌を露出させ、ブツブツとした湿疹を引っ掻くと快感である。バリバリと爪でブツブツをこそぎ落としていると、薄黄色の液体と血が滲みでてくる。

忘れたころに痒みが引き、ヒリヒリと痛くなってくる。掻かなければよかったと後悔しても後の祭りである。我慢できなかった罪悪感と、ぐちゃぐちゃと無残な姿となった皮膚、そして痛みだけが残る。

たかが、胸を虫に数か所食われた程度でケンシロウみたいになったからヤベーよと大事ぶっている奴がいたけど、はっきり言ってお前の湿疹など大したことないから。でも、はやく病院行ったほうがいいとか、酷くならないといいねとか、みんな優しいのである。なのになぜ俺には優しくないのだろう。

喘息の発作が起きていても見た目のインパクトがないため、周囲はヒューヒューうるさいなくらいの認識である。死ぬほど息が苦しくても歩いて病院まで一人で行かなくてはならないし、事実そうしてきた。

息が苦しいのを他人に説明したところで無駄である。経験して初めて辛さを理解できるのである。誰も代わってはくれない。自分だけの苦しみである。

ぱっと見は酷く目に映らない特徴もあって、喘息は周囲の理解を得にくい病気である。なので、だいたい健常者扱いされる。健常者扱いされるが、実際の身体能力は罹患していない人と比べると大きなハンデがある。たとえば、たばこの煙や埃の多い環境にいると具合が悪くなるし、大笑いしたり走ったり重い物を持ち続けると発作が起こるのである。

そして、もっとも大きな特徴は、喘息は甘えだという周囲の認識である。周囲の人々は喘息になるのは気持ちがたるんでいるとか、精神的な甘えであるなど尤もらしい理由を挙げて患者の責任と結論付けるのである。

俺が小学生や中学生だったころは、親をはじめ学校の先生や同級生など周囲の人々で喘息の原因について理解してくれる人は少なかった。健常者が鼻水をだしたり咳をしていると「風邪なら治るまで休め」となるのに、俺が喘息の発作で苦しんでいると「また病気に逃げるのか」と言われていたのである。

 

地獄のマラソン大会

中学のときにマラソン大会があった。運動会や合唱コンクールなど、クラスの団結を学ぶ行事も嫌いであったが、もっとも嫌いだったのはマラソン大会である。

俺は喘息の具合が悪いので走行を免除して見学させてほしいと担任にお願いした。事実、季節の変わり目で毎晩発作に悩まされていた時期だった。

結果はノーであった。理由は、喘息持ちの他の生徒もマラソンに出場するので特別扱いはできないということと、具合が悪くなるのは気の持ちようだからだと言われた。

膝を痛めていると申告した生徒はマラソンを免除されたのに、喘息は免除の理由にならないのである。その理屈なら膝の具合が悪いのは気の持ちようではないのか。

そう反論すると、病気を言い訳にして逃げるのは良くないぞ、と説教された。

もちろん真面目に走ったら発作がひどくなるので押さえて走った。それでもヒューヒュー喘鳴が消えないので辛かった。冷たい空気を吸い込むと肺に痛みが走る。まるでガラスの粉が肺の中で擦れているような痛みだ。気管支は収縮し息が吐けない。胸の上に鉄の塊で重しをしているようだ。腹式呼吸をしていないと息ができないストレスでパニックになりそうだ。

汗で体中が痒くなる。脆弱な体に怒りを覚える。いっそこのまま呼吸が止まってしまいばいい。なんでこんなに軟な体なんだ。死ねばいい。死ねばきっと、無茶を言った担任や、助けてもくれない周りの奴らの責任になる。罪悪感を抱えたまま今後の人生を送って欲しい。でも、そのために俺が死ななくてはならないのは理不尽だと思った。

これが甘えなのか、と思った。あんたたちは喘息じゃないから、こんな苦しくはない。せいぜい息が切れるくらいだろう。なのに、なんの権利があって、俺に「甘えている」などと言えるのだろう。ここまで精神的に追い込まれているのに、なんで気持ちがたるんでいるのだろう。

そんなことばかり考えながら、ひたすら走った。当てつけとばかりに走った。途中で投げ出したりせず、既定の距離である5kmは意地でも走ってやろうと思った。

途中から歩いた。走るのはもう無理だった。いつのまにか肩で呼吸していた。苦しい息を整えようとする。吐き気がこみ上げ、鼻水が溢れて体操着に滴り落ち、心臓の動悸が爆発しそうなほど高まるのを抑えきれなかった。

この場所で倒れたら、バスで点呼したとき俺が居ないのに気がつくだろうか。また面倒臭い奴だと思われるだろうか。周りの奴らも、俺のことを迷惑な存在だと再認識するだけだろうか。それとも心配して探しに来るだろうか。心配というより職務だから探すけど、正直な話、手がかかる問題児だと思うだけで、俺にこんな無理をさせた反省など絶対にしないだろうな。そう思うと、なんで彼らの土俵で相撲を取る真似などしたのだろう。

走り終えバスに戻ったら担任が言った。

「ほら、やればできるじゃないか。できないってのは甘えなんだよ」

始めから最後まで歩けばよかった。要領が悪いな、俺。

無理して走ることなどなかったなと思った。でも、担任の言葉が許せなかった。抗議するには、もっと自分の体を痛めつけて苦しめないといけないと思った。

 

 ここからは、敢えて誤解を恐れず書く。

小学校から高校までほぼ全ての学校生活において、自分が同級生より劣っているなと思っていた。他のみんなのように物事をこなせないからである。体が弱くても勉強ができたり、人望があればいい。俺は勉強はできないし、人望がなかった。だから友達ができない。ぎゃくに人から嫌われるのは得意だった。

アトピー性皮膚炎の同級生が一人いた。手足が棒のように細くて女の子より腕相撲が弱かったと思うが、そいつは勉強ができた。大きな家に住んでいて、おもちゃを沢山もっていた。友達も多くて尊敬されていたように思う。

だから病気は、勉強ができなかったり、友達ができない言い訳にはならないのである。

俺には身体的な病気以外にも、精神的な病気があったのかもしれない。学校の先生はともかく、小児科の医師からも心療内科や精神科の診療を勧められたからである。

精神病扱いされたのはショックだった。受診といっても話をするだけだよと、執拗に勧めてきた時期があったのだが、そのときの俺は受け止めることができなかったのである。

お前は異常だよと言われている気しかしなかったのである。周囲すべてが敵に見えた。

俺のことを異常と決めつけて、精神病院に隔離しようとしているに違いないと思い込んでいたのである。

基地外扱いされたのが、本当にショックだった。精神科に罹っている人は、そういう人達しかいないと思い込んでいたからだ。

俺がどれだけ普通になりたくて、普通になろうと努力しているのか、あんたらは全然分かっていない。その苦労と努力を全く分かろうともせず、俺を無視して精神病と決めつけているとしか思っていなかったのである。

 

運命に対する大きな怒り

運命を司どる神がいるなら、なぜ俺には困難を与えたのだろう。他の奴より不利な要素ばかりじゃないか。なのに特に特典もない。

 

つづく

 

時間がおしてしまった。タイムオーバーである。

ここまで3600文字 3時間所要

続きは明日書く。まだまだ書き足らないぜ。

思っていることを考えながら書くと、スラスラとは書けない。あまり推敲してないが、キーボード操作の間違えと誤変換の多さが目立つ。

 

 

復讐について考えてみた

復讐について考えてみた

 

復讐を題材にした物語は多い。この間読んだ漫画も復讐劇だったのだが、読んでいて思ったことがあったので書いてみたい。

 

復讐というのは、仕返しのことである。理不尽にもいじめっ子に酷い目にあわされた経験がある人なら、誰でも一度は考えたことがあるだろう。

やられたら、やり返す。言うのは簡単だが、これができないから復讐したいわけである。

その漫画の主人公は、骨格レベルで見た目に難のある女性である。子供のころから見た目で差別され、親も含めて誰からも優しくされることなく生きてきた。とくに高校のときに三人の同級生から酷いイジメを受ける。

大人になっても見た目で差別され、自分なんかこの世にいないほうがいい、せめて臓器提供して人の役に立って死のうと決心する。しかし、臓器提供の手術のはずが権力者の娘そっくりに美容整形されてしまう。美しく生まれ変わった姿をみて喜ぶ主人公。今後は身代わりとして生きることになるのである。

権力者は主人公の身の上にいたく同情し、お抱えのヤクザをつかって復讐を勧めるのであった。主人公はヤクザを使って、三人のうち二人を自殺に追い込む。主人公は、いままでは簡単に死なれてしまい、彼女らが苦しみ反省する時間が少なかったと不満を漏らし、三人目の主犯の女には地獄の苦しみを味わわせて反省してもらいたいとオーダーするというストーリーである。

この話じたい、よくあるストーリーである。百田尚樹の小説にも同じようなのがあった。顔に難があるというのは、こういうと申し訳ないがブスのことである。

本人には全く責任がないのだが、彼女らの親の責任でもない。理不尽だが、誰のせいでもないのである。しかし、世間の風当りは強い。理不尽な扱いを受けるのである。

ここで強調したいのは、これらの作品の共通点として、これは酷いと思うくらいにブスと描写されている点である。美人とそうでない人がいるのは仕方がないが、ブスの度が過ぎているのである。

むしろ、そういった人には心情的に優しくしてあげないとならないと思うのは変であろうか。とはいえ、優しくしてあげる理由が、「あなたが度が過ぎるほどのブス」だからでは失礼である。

なので俺は、顔面に難があるなと思った人には、本気で人間は顔ではないと思って接することにしている。つまり、顔面については一切考慮せず、他の面で素晴らしい部分や尊敬できる部分を探すのだ。とはいえ、まったく恋愛対象にはならないので、そこは勘違いされないように一線引いて関わるのである。

 

でだ。ブスに接する態度の話は、なんとなく流れで書いただけである。これから書きたかったことを書く。

この物語に出てくる三人目の主犯の女は、割と普通の主婦である。ぱっとしない男と結婚し、旦那によく似た可愛い男の子が一人いる。まあ、描写の限りでは良く出来ているわけではないが、ちゃんと妻をやっているし母をやっているのである。慎ましく家庭を守っている姿をみていると、正直、復讐なんてバカなことして欲しくないなと思ったのである。

男の子を妻の実家に預けてから復讐タイムがはじまったのは主人公に残された良心である。読者としてはホッとした。子供まで復讐に巻き込んでいたら吐き気をもよおして読むのを止めていただろう。ちなみに旦那のほうはハニートラップに嵌ったので自業自得である。

復讐はバランスをとろうとする行動である。だから復讐自体には共感できるのである。

しかし、復讐には、適切なタイミングと内容があって、それがズレているとバランスがおかしくなるのである。

年数がたてば状況も変わる。復讐で影響を受ける人間の中には全く無関係の者がいる。子供などだ。生まれてきた子供には何の責任もない。かれら子供に被害が及ぶような復讐は明らかにやりすぎな復讐である。

殺しちゃうのもやり過ぎである。積もりに積もった恨みをいっぺんに返そうとすると、死以外ではつり合いが取れなくなるのではと思うが、命を奪うのはやりすぎだ。

よく「一回は一回だからな」と言って、軽くぶつかっただけなのに思いきり殴ってくる奴がいるが、それは理屈として間違っている。回数だけの問題ではない(子供のころの俺は、一回は一回というジャイアン的な理屈が正しいような気がしてしまい、これ以上被害が増えるまえに自分自身で納得しようとしてしまっていた)。

理不尽な思いをした代償として加害者には厳罰を望みたいのだが、現在の司法では私刑は許されていない。加害者が刑事罰を受けたとしても、被害者や遺族からすると、ぬるい刑だなと感じる。要するに、やったもの勝ち的なものがあるのだ。

自分が受けた被害を、正確に加害者に味わわせるシステムはないからである。

ふてぶてしく反省の色がないと、死ぬほど苦しめないと帳尻がとれないと思うのが人情である。やられた方は倍返しでも足りないと思うし、第三者からみたら、仕返しとはいえやり過ぎと思うときもある。

被害には、外国為替のようにレートがあるわけではないから、数値で表すのは不可能である。本来ならお金で補償することはできない。しかし、金を貰っても気は済まないが、そうするしかないのである。

「目には目を、歯には歯を」は有名な言葉だが、これはやられたら同じ部分をやり返せではなく、同等程度の損害をもって報復とする、という考え方である。とはいえ、問題がないわけではない。

江戸時代の仇討ちも報復であるが、あくまでもルールに則ったシステムである。

長幼の序があり、主君や親、兄など目上のものの敵以外には認められず、幕府への申請が必要だった。仇討ちの仇討ちは許されず、また返り討ちの仇討ちも許されていなかった。つまりが、恨みっこなしということである。

正直、仇など討ちたくない侍もいただろう。しかし、仇を討とうとしないと名誉に関わるので嫌々仇討ち申請をしていた者もいたのではないだろうか。助太刀を頼めるとはいえ、腕に覚えがないと返り討ちにあう可能性も考えると、よほど殺してやりたいくらい憎んでないと仇討ちなどしたくないからである。

どうしても殺したいなら刺し違える方法がある。刺し腹といって、相手を指名して切腹すると、指名されたものも切腹しないと不名誉になり、生命、社会的生命のどちらかを確実に奪えるのである。

 

復讐は連鎖する。どこかで断ち切らなくてはならない

しかし、やられたままで、何一つやり返さないのは不満である。できれば加害者にも相応のペナルティを与えたい。そうでないと均衡がとれない。そうでないと気持ちが悪い。

加害者側が被害者に「これで水に流してくれ」といって、金銭などを渡してくることがあるが、被害者からすれば、水に流すというのが気に入らない。許すことがあっても、決して忘れたくないのである。

被害者は加害者に法律以上の復讐はできない。法が裁いたら、すべてを水に流して忘れましょう、復讐ダメ絶対という世の中になったのなら、先ほどのブスは報われない。ブスなだけで苦労をして、何もいい思いをしていないからである。せめて、なにか法律スレスレの嫌がらせくらいはしたら?と思うのである。

理不尽をどう受け止めるか。被害者からすると、加害者が死ぬほど苦しみ後悔している姿をみて、自分の被害と同等だなと感じるまでは許せないのだが、それを実行してくれるシステムが合法的に存在しない。時代劇の必殺仕事人が人気があるのは、やはり晴らせぬ恨みを晴らしてくれるからであろう。反省のはの字もしていない悪党が殺られると観ている側はスッキリするのである。

許そうと思うのは自分自身の心情の問題であって、それを加害者が許してもらったと考えるのは間違いである。人を憎む苦しさから逃れたいから許そうと努力するのであって、あくまでも自身の精神を保つためである。加害者側には自分と同等以上に苦しんで欲しいのである。なのに現実と希望が乖離している。だから苦しいのである。

その苦しみから解放されるのは、加害者が罪を深く認識して反省して苦しむ姿を被害者が見て納得したときである。しかし、そんなことはほとんどない。

 

世の中やったもの勝ちのような気がするのだが、こういった復讐ものの作品が次々と登場して無くならないのは、やったもの勝ちを絶対許せないと考える人間が多いともいえる。

いっぽう、エンターテインメントとはいえ、明らかにやり過ぎな作品も多いが、それはある意味正しい。人間の本性はそんなものだからである。たとえば、ラース・フォン・トリア―監督の「ドッグヴィル」は胸糞悪い映画だが、すべての出演者が非道徳的な人間だとしたらという問いに対する回答といえる。

人間の復讐心を描いた作品を鑑賞し、人間の本性について考える機会が増えるのはいいことである。

 

ここまで3400文字 所要約3時間

書き始めると割と集中できる。駄文を連ねているだけで楽しい。いちおう仇討ちについては若干調べた。間違いがあるかもしれないので、真に受けて人に話すと恥をかくかもしれない。出版物のように校正入った文章は別だが、ブログの記事などは必ず裏を取ってから人に話した方がいい。

 

 

 

 

 

生き辛さをかかえているのは普通である

さて。毎日恒例の、とりとめのない文章を垂れ流そうと思う。

 

小学生の頃の話を少ししたいと思う。

以前にも書いたが、小学三年生のころは担任教師との関係が最悪であった。もちろん先生にも至らないところはあったのだが、多くは俺に原因があった。たとえば、こんなことがあった。

新学期をむかえたある日のこと。学校からの配布物を母親に渡すと、興味なさげに目を通してから、今度の先生の字は下手だねぇとぽつりと言った。

当時、学校から家庭への連絡はわら半紙にガリ版印刷であった。当然手書きである。

先生の字は普通に読めるし、むしろ上手な気がしたのだが、大人からすると、まあ、そういうものなんだろうと受け止めた。

俺の通っていた学校では、給食の時間は班ごとに机を四人分向かい合わせにして、先生が日替わりで班にやってきて食事をとる方式であった。

俺の所属する班に先生がやってきた日のことである。いつものように食事をとりながら、全く深い考えもなく口から発した言葉が以下である。

「うちのお母さんが、先生の字が下手だっていっていたよ」

嘘は言っていない。確かに母親は言っていたのである。実際に字が下手かどうかはわからないし、俺は下手だとは思わないが、きっとそうなんだろう、くらいの軽い気持ちであった。言って誰が得をするとか全く考えていない。とにかく事実を言ったという信念だけはあった。

先生は、飲んでいた牛乳を吹きそうになって、こらえて呼吸を整えてからおもむろに答えた。

「そうか。お前のお母さん字が上手いからな、先生敵わないよ。もっと上手くなるように努力するよ」

今思えば大人の回答であった。当時の俺は、先生が母親に敬意を払ってくれたようで、自分のことのように誇らしくなった。

俺は感心して、家に帰るとさっそく親に経緯を伝えた。

「先生に、字が下手だってお母さんが言ってたよと話したら、上手くなるように努力するって言ってたよ」

それを聞いた親は怒った。

「あんたバカじゃないの!そんなことわざわざ言うものじゃないわよ、何考えてるの」

「でも、確かに言っていたよ。嘘は言っていない。人に言われたくないのなら口止めしてくれればいいのに」

このようなやり取りを経て、口止めされていなくても他人に言ってはいけないことがあると学んだ。

問題は、どれが言ってはいけないのか区別がつかないことだ。そう言うと、なんでそんなことぐらい判断つかないんだ、言われた人がどう思うとか考えれば分るでしょうと、さらに怒られる羽目になったので、なんとなくわかると誤魔化して話を打ち切った。

 

俺が子供時代の話をすると、もしかしたら君は発達障害ではないかと言われるようになった。発達障害は恥ずかしいことではないし、周囲が理解し配慮するべきだと言う人もいる。

俺は、発達障害だという指摘に対し、だとしたら何?といいたい。

俺自身は、障害がある人のことを、なるべく理解して配慮したいと思っている。しかし、障害を理解しろと押し付けるのは間違っていると思うのである。

障碍者(なぜかこの変換になる)のことを理解する気もないし、なるべく関わり合いたくないと考える権利もあると思うのである。

明らかな悪意をもって関わってくるのは別として、無関心だったり、避ける行為まで批判するのはやりすぎだと思うのである。

俺は仮に障碍者だったとしても、基本的に他人に配慮されなくても仕方がないと諦めている。他人から、私は障碍者だから配慮しろと押し付けられるのも嫌だからである。

とはいえ、ある程度目に見えて分かりやすい障害だと、社会全体に配慮されるのが普通である。

俺は自分自身が障碍者と言えるほどのレベルではないと思っているので、人に配慮されると心が痛む。居心地が悪いし、どことなく見下されたようにも感じる。

勝手に障害があると決めつけられて配慮されたくないのである。

 

なんらかの障害をもっていたり特殊な経験をした人が、のちに体験を伝えて世の中に貢献している姿をみて励まされるとか素晴らしいという人がいる。

自分自身も他の何かで苦しい思いをしたからこそ、内容は違えど共感できると思う人と、自分より不利な状況の人をみて、ああでなくて良かったという前提で「勇気をもらった」とか言っている人がいる。

後者の人からは自分より劣った存在がハンデを乗り越えて頑張っているみたいな解釈をしているようで、障碍者を見下しているような態度を感じる。

俺はそこまで特殊な経験をしていないので、他人に感動を与えるような活動はとてもじゃないが無理である。

そこまで突き抜けていたら人に話す価値もあろうが、俺の体験など微妙すぎて聞いているほうも眠たくなってくるであろう。それは子供のころから自覚していたので、話題性を持たせるのと同情を買うためにエピソードを盛って人に話していた。

こちらの落ち度は隠して、酷い目にあった話をするのである。話すほど整合性がとれなくなるので修正しながら話すのだが、おかしい部分を周りにツッコまれて最終的には「なぜこうしなかった」「それならこうしたらよかった」と責められ、自分が悪かったと結論付けられるので、体験談を話す気はなくなったのである。

自分がどれだけ可哀そうかを他人に理解させるのは難しいしその必要もない。なのに、なんでそんな愚かな行為をするのかといえば、お前らより苦労してたんだと一発かましておきたいような気になるからである。

世の中にはもっと大変な人がいるのだから甘えたこと言ってはいけないよ、とか、お前の苦労など私からすれば全然大したことがない、などと言われるうちに、俺ごときの辛かったことを話しても受け止めてくれる人はいないんだなと理解するようになった。

なので、こうしたエピソードを取り上げるときは、自分以外の人物の非難を避けてなるべくフラットな記述になるよう心掛けている。

 

こういう考えを書き留めるのが恥ずかしいと思うのは昔からであるが、とくに小学三年の作文事件がウエイトを占めているように思う。それまでは割と作文で褒められていたからである。

人に話すのはさらに苦手である。うざがられそうだからだ。誰も俺になど興味はない。ただ、俺の行動や発言にツッコミどころが多くてネタとしては面白がっている奴は常にいた。

同級生であっても上下関係があり、精神的カーストで俺は最下層だったかもしれない。

笑いを提供しているのだが、笑わせるのではなく、笑われているのである。自分を下げて笑われて、傷つきながらも人と関われているので安心するのである。

インテリぶっているように思われたくなかった。恥ずかしく罪悪感がある。なにかと理屈をこねるとか、子供らしくない話し方で生意気だと大人に言われていたからである。

だから、本当は興味がある歴史や文学などの分野に興味ないフリをしていた。とはいえみんな大好きな野球には興味がないので、周りからは何が好きなのかわからない奴だとか、本ばかり読んでる奴とか思われていたと思う。

そんな環境だったから、話しがあう友人はほとんどできなかった。友達などいらないと思っていた。

本で学んだことを話すと難しい言葉を使うなと言われるから、なるべく平易な言葉やバカっぽい言葉を選んで、思考停止しているようにふるまっていたら、本当にそうなってしまったのである。

だから、いま、少しでも時間を取り戻したいくて、こうして書いているのである。

 

ここまで約3000字

所要一時間半~二時間くらい

実は、ヒマをみてコツコツと思ったことをメモしている。メモを参照しながら話題を膨らませている。推敲はしたくないのだが、さすがにまとまりが悪すぎるのでしている。

しかし、最低限である。文面がおかしい、意味が伝わりにくい部分のみざっと直している。文章の質そのものをじっくりと向上させるのは、あまりにも苦行すぎるのである。

こうして書いているうちに、じょじょに向上していけばいい。

どちらかといえば、文章のスタイルそのものが、もう少し分かりやすく軽妙洒脱になればよいなとは思っている。カチカチのストロングスタイルの文章も良いのだが、遊び心も欲しいのである。これはテクニックというより性格の問題化もしれない。

 

やりたいことを独学で伸ばすにはどうしたらいいか

あれもやりたい。これもやりたい。

やりたいことだらけで意欲は素晴らしいが、やる時間がない。

光陰矢の如し。年齢を経るにつれ、残された時間は少ないと実感するのである。

沢山やりたいことはあるが、どれもモノにならないような気がして焦るのである。

己の分をわきまえて、欲を出さずに、本当に自分に必要なものだけを選び取る。

大抵を諦めれば、もしかしたら一つくらいは形になるのではないか。

とはいえ、偏り過ぎるのも考えものである。

最低限の常識的な時事問題は押さえておきたいし、リベラルアーツは学んでおきたい。

加えて、必要なのは仕事の専門的知識である。

誰もが押さえておくべき知識と、専門性の高い知識収集に必要な時間だけは確保したい。それを除いて使えるのが、自分をさらに高めるための時間である。

趣味や、やりたいことには種類がある

自分を高めると言っても、必要性がない知識の収集でも構わない。趣味なのだから。むしろ、好きであることが重要であって、人気があるとか、カッコいいという理由で始めてもやる気にならないのである。

カッコ悪い、他人に言うと引かれそうなものでも、好きなもののほうが伸びる。むしろマニアックであるほど研究者が少ないので、そのことに関しては世界レベルで詳しくなれる可能性すらある。

俺は、他人に本心を悟られたくないあまりに興味のないものを趣味だと偽ってきたことがある。好きなものを貶されると傷つくので言いたくないのである。

なので、「音楽は何が好きなんですか?」なんて聞かれると、最近はヒップホップが好きかな、まだ全然詳しくないんだけどね、なんて答えるのである。なんとなくカッコいいと思われたいだけのために見栄をはるのである。しかもツッコまれたときのために、最近とか、詳しくない、などのワードで逃げているのである。

そもそも人間を信用していないのである。胸襟開いて語り合える間柄の人間など、漫画や小説、映画の中にしか存在しないと思っているのである。

どうせわかりあえっこないし、そのことでバカにされるくらいなら、バカのフリをしていたほうが気が楽なのである。

 

趣味というか、やりたいことにも二種類ある。

・好きで調べているうちに詳しくなるもの

・練習が必要なもの

好きで調べているうちに詳しくなるものを挙げると、レコード収集とか、観る将などである。ディグっていくうちに興味の対象がワイドからディープになり、レベルが上がると同好の士以外では意味不明な会話になるのだが、それが楽しいのである。口(くち)プロレスで骨のある奴に出会ったときの喜びは一入である。詳しいほど仲間内では尊敬される傾向にあり、沼に深入りする熱量の高さが最も重要視される。

 

練習が必要なものといえば、スポーツ、楽器、将棋、お稽古事などだろう。これらは年季や才能によって技術に優劣があるので、楽しいだけの趣味ではない。常にリソースを割いて練習しないと技術は向上しないし、休めばレベルダウンする。どこまでガチかが趣味かどうかの境目である。

たとえば将棋をどこまで本気でやるかを考える。仮に毎日将棋のことだけを考えている生活が許されたとしても、全く才能もなく、いままで積み上げてきた技術の蓄積もないのだから、どんなに頑張っても、せいぜい一般人のなかでは強い方だねってレベルまでにしか上達しないと思うのである。

絶対に超えられない壁があるのである。そう考えたらイヤになってくる。時間や労力を割くだけ無駄だから止めておくか、とすら思う。

頑張ったからといって、報われるわけではない。実力や結果がすべての世界でもある。

それでもやりたい。そう思えるのが、本心からやりたいことなのかもしれない。

 

独学は難しい

俺は変にプライドが高い。普段は遜って謙虚にしているが、それはハードルを下げて自分が傷つかないようにしているだけである。

だから、詳しい人と対等に話せないのがわかっているときは議論を避けている。対等に話せないのが恥だと思っているからだ。なので、その件については初学者を装うのである。

何も知らないので教えて下さい、というスタイルなので謙虚に感じるが、実はそうではない。うっかり詳しいなどと口走って知識不足が露呈したら、徹底的にツッコまれて激しく傷つくのがわかっているからである。ハートが傷つかないために知っていることでも知らないフリをするのである。

さまざまなことに精通している人のなかには尊敬できる人柄のひともいるが、人を傷つける物言いをする人も多い。情けない理由ではあるが、こちらは知らないフリをしているだけなのに、そんなことも知らないのかと嘲るのだ。思わず「そんなことぐらい知っているわい」と言いたくもなる。

以上の理由で、俺はほとんど人との会話で積極的に学ぶことはない。だから本やネットで学ぶのだが、なまの人間との深い対話がないので掘り下げられない。自問自答になる。

だから、こうして誰も読まないような文章を書いているのである。これは頭の中を整理するために必要な作業である。 

学んだことをブログに書くにしても、文章力が高いに越したことはない。書くという能力は汎用性が高い。考えなければ書けないし、書かなければ形に残らない。そして書くという行為は時代や場所を超えて考えを伝え、人の感情を動かす。人は言語とともにある。

 才能がないにしても書き続けていれば、なにか良いことがあるかもしれない。

 

ここまで2200文字 所要約2時間

一時間1100文字のペースだ。

時間の使い方としては、短期集中が望ましい。疲れて集中力が低下しないように無意識で加減しているから時間が余計にかかる気がする。ペース配分が上手いのは良いことだが、まだまだ雑念が入る。

プロの楽器奏者クラスになると一時間集中して練習したら昼寝したくなるぐらい消耗するのだ。ダラダラやるのは練習時間だけは多くて「やった気になる」が、あまり身にならないと思う。もう少し短時間で書けるようになりたい。