文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

学びと才能について考えてみる

なぜ、中高年になってから学びはじめると自分には時間がないと焦るのか

「僕には時間がない」「俺に残された時間は少ないんだ」

学習や、趣味、やりたいことに一生懸命な人がよく言うセリフである。かくゆう俺も、常にそう思っている一人である。いまも文章力を高めるために、この記事を書いている。

今回は、結果を早く得たいがあまり、焦る気持ちについて書き連ねる。

 

山の頂を見てしまう

まず、時間がないと感じる理由として、到達したい地点である山の頂と現在地のギャップがある。

これからやらなければいけないことが満載過ぎて、コツコツ手をつけていたら死ぬまで終わらない気がするのである。他にもやらなければならないこともあるし、一日の僅かな時間でどうやって学ぶのだろう、と思うのである。だから、なるべく楽をして頂上に登りたいと考えるのである。

登山は頂上をみないで、目の前の道を見るのがコツらしい。

そういう意味ではいまこの瞬間に注目する、つまりマインドフルネスになるのが、焦りを鎮める効果があるのではないかと考え、瞑想する時間を設けている。

実際には時間はあることが多い

時間が少ないというのは思い込みで、実際には時間が残されていることが多い。

しかし、中年以降にはじめた勉強や趣味だと、遅れを取り戻すために人一倍打ち込まなければならないし、そのために残っている時間は実際に若者より少ないから、もどかしさを感じるのである。もっと早い時期に始めていれば良かったと後悔しても後の祭りである。

しかし、高齢ではじめた趣味に真剣に打ち込んで豊かに生きている人はたくさんいる。遅すぎる、時間が少ないと考えても仕方がないのである。それよりも前向きに楽しみながら打ち込めばいい、それはわかっている。

 

だがしかし。その事実をもってしても焦燥感が生じるのが人間である。

なぜ、俺も含めて、時間がないと焦るのか。考えながら書き記し、思考を整理したい。

 

高めている能力を比較する対象は

モチベーションが下がる原因の一つとして、努力した分だけ能力が高まっていないと感じることがある。成果が上がっていないと、なぜあれだけ努力したのにと嫌気がさすのである。

昔の自分と比較し、出来るようになったことなどポジティブな要素を自覚すれば良いのだが、得てして絶対評価ではなく相対評価になりがちである。全体の中で自分はどのあたりに属しているのかが気になってしょうがないのである。

あまり努力していないのに自分より評価が高い者に対してズルいと思う感情は、認知的不協和である。要領よく勉強しているだけかもしれないし、自分の見ていないところで努力しているのかもしれない。そもそも自分自身の努力とはなんら関係のないことである。

つまり、人間が陥りがちな心理について自覚するだけで、考えても無駄なことでイライラせずにすむのである。他人は他人と割り切るのは精神論ではないのである。

そんなことはわかっているが、このネット社会である。情報過多で、比較対象が多すぎるのである。自分より優れた書き手だらけで、ひたすら劣等感が刺激され居たたまれなくなり、追いつけないならいっそやめてしまおうかと思ってしまうのである。

 

階段を登るように成果は表れない

なかなか上達しなかったが、コツをつかんだら難なくできるようになった経験は誰しもあるだろう。まるでドラクエのレベルアップのように突然能力が向上するのである。

努力をしたから、その分に見合った上達をするというわけではない。コツをつかむまで時間や努力を要する人もいるし、飲み込みが早いタイプも存在する。思ったように成長しないのである。人よりも成長がスローに感じて焦りを感じるのである。

また、成果が上がっているのか不安になることもある。能力が向上している実感はあっても、独学している限りは学び方が合っているか不安になるのである。

本当にこんなことして意味があるのか、と思うと急に虚しくなってくる。頑張ったところで並以下だったら傷つくので、本気などだしてませんよと己を守りたくなるのである。

まず結果を求める

ローンで買い物をすると、お金を全て支払わなくとも商品を受け取れる。金利を支払う代わりに時間を買うのである。

同様に、まず成果を手に入れてからコツコツと努力をして返済したい、ときどきそんな考えが浮かぶことがある。

突然才能に目覚めないだろうか。と、考えた経験があるのは俺だけではないだろう。

コツコツ努力をするのはスローすぎる。地道で正しい反面、要領が悪い気がする。

どうせなら、自分が才能のある分野がなにかを知って、なるべく時間と労力をかけずに能力を高めたい。だから自分探しの旅にでかけ、ヒーローになれる可能性のあるジャンルを必死に求めるのである。そして、道を見つける人もいれば、諦めと妥協をする人もいるし、絶望する人もいるのである。

俺自身は才能は無いと思うが、いまは書くことと、将棋について能力を高めたいと思っている。

諦めきれなかった人

自分には、なにもない。才能がなかった、頑張ったけど向いてなかった。そういう人がいる。ぶっちゃけ俺もそうである。

正しく言えば何もないのではなく、自分が望むほどの相対的な能力がなかった、ということである。

だから、諦めたといいつつも、実は眠っている才能が覚醒する可能性があると心の奥底で信じているのだ。可能性を信じたいから、やらない。結果が白黒ハッキリするのを恐れるからである。やっていたらスゴイ才能だったかもしれない、という可能性を心の中で信じ続けることで自分自身を守っているのである。

しかし、どうしても諦めきれずに手をだすわけである。くすぶりつづけた心が、物事のスタートを遅らせているのである。

少年マンガによくある才能覚醒はうそっぱちである

眠っている才能がいきなり覚醒するのは少年マンガの世界である。なぜか激しい修行をするとすぐ強くなっている。また、強敵との戦いの最中に開眼するのも少年マンガの特徴である。

主人公はいつのまにか周囲を置き去りにして強くなるのである。かつての強敵が、いまでは雑魚キャラより弱いと感じるほどにである。

思うに、少年マンガの展開は都合が良すぎるにも関わらず深く共感してしまうのは、才能の高まりに対する憧れではないか。とくに異世界転生モノとよばれるジャンルに、本来の俺はこんなんじゃない異世界に行けば有能なんだ、みたいな主張を強く感じる。

自分の深層的な希望を反映する鏡としてキャラクターを認識しているのかもしれない。

現実にはあり得ないが、仮に、突然自分の器を超えた能力を授かったとしても使いこなせないと思う。マンガでも一時的に強い力を得た敵は最終的に力に飲み込まれて崩壊して消えていくパターンが多い。

主人公が突然天才になる設定などもあるが、それは単に作者の都合である。だから元に戻ったら天才のときの記憶はない。

不思議な力を用いてバトルするマンガもあるが、それは必ず能力に制約や弱点があり、純粋な能力の高さよりキャラの経験による判断がメインな頭脳戦にウエイトを置いているので本質的にはご都合主義ではない。

いま、いきなり俺の手がキーボードを滑らな動作で叩き、ここからの文章が読みやすく素晴らしい内容になったとしたらだ、俺は恐ろしい。それは自分の文章ではないし、もしかしたら霊界からの通信かもしれないからだ。自分自身の力しか信じられないのだ。

 

冒頭の例で言えば、山頂まで実際に登れる能力があるから登れたのである。登る力がないのに登ったことになっているのは恐ろしいのである。登頂は目的ではなく目標であり結果である。過程が能力を高めるのだ。

勉強、筋トレ、楽器、将棋など、脳に覚えさせる行為をせずに能力が高まったり、技能が身に付いたりするはずがない。あったとしても使いこなせるはずがない。経験していないことをどうやって知るのか。多重人格者の人格が入れ替わっているのであれば考えられるが、それ以外では考えられないと俺は思っている。

ここまで3200文字 ここ最近では長文である。約2時間10分程度。かんたんなメモを用意したが、お茶を飲んで考えながら書いたので時間がかかっている。

コツコツと続ければ、すこしずつ読みやすい内容のある文章になると信じて。