文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

どうにもならない不確実なことを単純化するのはバカである

注意書き

この記事は、俺のEvernoteにあったメモを加筆修正したものである。文体から俺が書いたものだと思うが、もし他人の書いたものだったら、お詫びして記事を消去する。

苦労して書いたはずなのに忘れている。本文とと矛盾しているのである。ダメだな、俺。

 

安易に結論を出さない

ネガティブ・ケイパビリティという概念がある。不確実なものや解決できない状況に耐える力のことである。辛抱つよさ、どうにもならないことを受容する力といってもいい。

治療方法が未だ解明されていない慢性病に疾患していると、とてもじゃないが耐えられないときがある。死ぬような病気でなくとも、生活の質の低下は精神を病む。効果が怪しくても藁にも縋る思いで神頼みしたくなるのである。

そういった怪しい民間療法は、単純明快で具体的な回答を用意しているから、それで楽になるならと思考停止してしまうのである。

 

このような、どうにもならない苦しみに耐え葛藤する人間につけこむ人間には腹が立つのである。

精神的な問題もそうである。

自身の知りうる知識の枠の範囲内で、すべてを説明しきろうとするな、といいたい。
たとえば、子供の描いた絵を分析するにも、月を描いたら、それは不安の象徴だから愛情が不足しているだの、勝手なことをぬかす輩がいるが、ふざけるなという話である。


誰であっても、その人のいうことややることを合理的に説明して安心しようとするな。人の複雑さをすべて説明し尽くせるほど、まだ科学は進んでいないし、ちっぽけな知識で説明がつくほど人間の精神の奥底は単純ではないからだ。


脳は楽をしたがる。分かりたがる。そうすると安心する。マニュアルでやり方を知りたがるのは、自分自身で考える時間を短縮したいからだ。


意見が対立したときに、白か黒かに単純化して「どちらかに付く」のが大切なのではない。

 

「私の敵に具わっている美質を認めないわけにもいかないし、私に与する人々の内に欠点があるのも認めざるをえない」
モンテーニュ

 

敢えて結論を棚上げする。つまり慎重な姿勢であり、寛容の精神、度量の広さだ。白黒はっきりさせるのではなく、皆のためになにが良いのかを考え続けることである。

どっちつかずの日和見ものといわれても、敢えてどちらの味方もしない。問題の本質にのみ忠実になろうとする態度こそが善なのではないか。 


以前から疑問に思っていたが、なぜ多くの人は分かりやすさを求めているのだろうか。
ワイドショーや知的バラエティなどのテレビ番組ではわかりやすい解説が好評だし、YouTubeでも知的と言われているタレントが複雑な問題を単純化して解説する動画の再生回数が軒並み増えていると言う。

わかりやすい話は忘れやすい。自分で苦労してプロセスを辿ったものは、忘れても自力で戻れる。だから、再びトライしても時間はかかったとしてもやり通せる。
わかったつもりになったことは、あとで人に説明できない。にも関わらず、知った気にはなっているから厄介だ。まあ、半分以上俺のことだが。自戒を込めて。


解決が非常に難しい問題を単純化しすぎるのは、バカになる近道である。

 

ここまで約1200文字

メモを転載して加筆修正した。だいたい1.5倍程度のボリュームになったが、時間は2時間弱かかった。論点がよくわからない文章だったので、修正に苦労した。

要するに、どうにもならない不確実なことを受容し耐える力について考えていたら、どんどん考えが飛んで、自分の能力内で問題解決し答えをすぐにだすのは脳が安心して楽したいだけといった主張や、意見を白か黒かと二択にしたり、複雑なものを簡単にしすぎるのはいかがなものかという言及に至った次第である。

最後の一行が結論である。

文章を直すのは、ある意味新規で書くより疲れる。ほとんどが推敲である。しかもそれほど整っていないのが、骨折り損のくたびれ儲け感を増長している。

まだまだ書きたいことが山ほどあるのだが、書き始めるまでが遅い。

が、いちどキーボードを触り始めると割と集中している。作業は手を付け始めるとリズムが生まれる。

ここまで1600文字 二時間ちょいである。