文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

自覚的に無神経になる

カタカタする時間である。

別に論文を書くわけではない。順不同で、とにかく今言いたいことを書くことにしよう。

前回は認知について書いた。認知そのものを論ずるのは非常に難しい。いまだに解決していない深い問題だからである。とにかく言いたいのは、誰しも認知に偏りがあって、それを無くすのは不可能だということだ。

自覚的に無神経になる

クヨクヨしても仕方がないときがある。場数を踏めば、そうなる場合もある。慣れの問題である。修羅場を潜り抜けるとふてぶてしい度胸がつく。

繊細であることは大切だし、元々が神経質なのであれば、それをマイナスと捉える必要もない。ああ、俺は細かいことによく気がつき、傷つきやすい体質なのだなと受け止める。

そのうえで、いざとなると俺はふてぶてしい面もあるな、と思い込む。

それは生きるための知恵だと思う。

タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きてる資格がない。

フィリップ・マーロウのセリフの通りである。

 

銀河鉄道999にも似たようなシーンがある。

「あんなのをみても食欲に関係ない。鉄郎タフになったわね」

エターナル編で、ヴァルキリーの空間擲弾兵(スペースグレネイダー)に始末された犬どもの死体を見て「うわー 食事がまずくなる」といいつつ、食欲にまったく影響のない鉄郎を評してメーテルが言う言葉である。

「いちいち驚いていたら、生きていけなかったんだ」

「ぼく自身がだんだん残酷な人間になるようで…冷酷な人間になるようで気になるけど……しかたがなかったんだ…」

 メーテルは鉄郎に理解を示す。

「星の海は厳しい処…死と隣り合わせのフロンティアだものね。

タフで動揺しない図太い神経を養わない限り、生き抜く事はできない…」

「ごめんね鉄郎…気にしないで……」  

 

 

厳しい環境に適応するためには、自覚的に無神経になることも必要である。しかし、無神経であることを苦にする感受性も同時に必要である。

 

 

神経質だと、人に期待するのはよそう、と考える。

甘えているのは恥だと思う。親切にしてもらって当たり前だという考え方が、どうも許せないのである。

親切にうろたえる。どう対処したらよいのかわからない。借りを作ってしまった、よけいなお世話だ迷惑だと思う気持ちが湧き上がるのと、親切に慣れていないので、どう感謝を表現すればいいのか分からなくてパニックになる。

頼むから放っておいてくれ、と願う。あまり深く関わり合いたくない。いきなり懐にふみこまれているようで恐ろしさすら感じる。一定の間合いを保たないと精神的にもたないのである。

金銭的にも精神的にも借りを作りたくない。貸しはあってもいいが、返してもらえると期待はしない。だから、積極的に親切にするのが難しい。そう、難しいのである。イヤだとか、面倒くさいではなく、難しいのである。

親切にしたいのに、その行動がどう影響するかを考えるほど分からなくなり、果たして迷惑ではないだろうか、かえって嫌がられないだろうかとさんざん悩んでいるうちに、なにも出来なくなるのである。

親切な行いをしたいのに、行動できない。一人相撲をとって、勝手に精神的に参っているだけなのに、それを理解してもらえない辛さがある。むしろ非難されることがある。

そういった日々に疲れ切って、敢えて見えないふりをするのである。精神的なバリアである。結界を張っていることに気がつかず、優しさを押し売りしてくる連中に対し、憎しみすら感じる。彼らは正義の看板を背負ってキレイごとを言っているだけで、結局は自分が気持ち良くなりたいだけなのである。

 

心のモードを切り替える

心配や問題を抱えているとリラックスできない。いつまでたっても仕事が終わらない。

仕事のことばかり考えてイライラする。

こんなときは心のスペースが少ない状態である。

机上に仕事の本ばかりが置いてあり(いわゆる獺祭である)片付けられていないので、なにか読むたびに本棚にいちいち取りに行かなくてはならないので不便なのと同じことである。不要な本を片付けて、書くのに集中できるだけのスペースを確保しないことには捗らない。

一言でいえば、メモリー不足のPCのようなものである。

そんな状態では、難解な本に取り組んだり、心を震わす読書をするのは無理である。

心の中に常に焦りがあり、このままではよくないと思いながらも、ネットサーフィンや漫画、YouTube、テレビに逃げる。だらだらと受動的に時間を消費してしまう。

先のことを心配しすぎるあまり、何も手につかなくなる。

時計を見て、ふと湧き上がる罪悪感に打ちのめされる。

そういうときにこそ、自覚的に無神経になればいいのである。

つまり、心配する気持ちや罪悪感は、認知のバイアスであるとメタ認知するのである。

逆にこう考えてもいい。心が常に穏やかな状態などありえない。不動心などといった精神状態は観念の中にしか存在しない心境で、穏やかに保つように心身で調整しているのだと。

自分の影響でなにかが変わるのなら、気を揉む意味もある。しかし、自分ではどうしようもないもの、つまり他人の気持ちや考え、天気などを考えても仕方がない。

自分で変えることができるものと切り分けて考える。

このように書いていると、自己啓発本の内容と酷似していて嫌になるが、実際にその通りなのだから仕方がない。

俺はあくまでもポジティブの押し売りが嫌なだけで、認識の偏りを認め、自覚する考えについては同意である。

 

2200文字 一時間半所要

まだまだ全然書き足らないのだが、時間がない。

しばらくは同じネタになる。つまらない、興味がない人が殆どだろうし、実際に読者の数はほぼ毎日0人である。つまり読んでいる人などいないのである。

ネットの海に放つのが目的の、ただの日記というか考えを記録したものである。最低限読める形にする義務があるというだけで、ようするにチラシの裏に書きなぐった落書きのようなものである。