文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

大局観

将棋の大局観については羽生先生も本を出されているし、論じ尽くされているので、今更書くのもどうかと思うのだが、敢えて書いてみる。

まず始めに書いておくが、素人の思いつきを述べているだけなので間違いだらけだと思うし、全く参考にはならないので、なにかを掴もうとして読むのなら、ご遠慮いただきたい。ノウハウ的なことには一切ふれないし、俺自身も分からないからだ。

ただ、漫然と将棋の勉強をするのではなく、本質的なことを掴みとり、深く理解するために疑問に思ったことをつらつらと述べたいだけである。

 

 大局観を語る前に、まず大局観とはなにかを定義してみたいと思う。

局面のどちらが有利不利かを把握するのが大局観である。が、PCソフトの弾き出す期待値=大局観ではない。あくまでも大局観は人間固有のものである。

コンピューターソフトは詰みまでの手順を間違えない前提で評価値を弾き出すから、人間が詰みを読み切れなければ、たとえ期待値が高くとも「これは詰ませられない」と判断して投了することがある。言い換えると、人間的には勝つ見込みなしな局面であっても、詰みがあれば期待値は逆転するのである。

「ここは、こんな風に指すものだろう」と判断するのが大局観のある指しまわしと言え、直観によるものが大きいのである。

考慮しているときは、何を指したらいいのかわからないときもあるが、直観により手が見えているのだが、読み抜けは無いか確認しているときが多い。ある程度の棋力になると自分自身を信用しているが、絶対はないと思っているからである。

AIは恐怖心が無いので、人間では恐ろしくて指せない手をかましてくる。駒損も一切考慮せずに、その局面で最適だと判断した手を指してくる。さらに、処理時間やPCのスペックだけでも最適手は変化するのである。棋風というか、こうしたいという主張がないのである。だから人間らしくない指しかただとわかるのだ。

 

 

では、評価値とはなんであろうか。常に相手が読み通りの手を指すとは限らないので、評価値はその手番だけのものといえる。

人間同士の実戦では、自分では見えない手、もしくは見えているけど不利だから指さないだろうと判断した手を、対局者が指してくることが多い。実力が拮抗、あるいは相手が弱ければ思考がシンクロすることも多いが、相手との実力差があるほど乖離するのが普通である。とはいえ、攻めの棋風、受けの棋風など一貫した方針があるわけで、なんとなく納得できるものである。

思考した通りの展開になるのは、終盤では考えられる。終盤になるほど手が限定されてくる傾向があるように感じる。終盤ほど、その一手以外を選べば即負ける局面が増えてくるからである。

 

序中盤と終盤は本質が異なる

終盤になるほど選択肢が減り、有効な手が限られる。終盤は詰みを見つける能力が高いほど強いといえる。

序中盤では大局観が大切だが、終盤になるほど詰めのうまさが大切だからである。

終盤はPCソフトが有利なのは詰みを見逃さないからである。プロ棋士も詰みがあるかどうかのチェックにPCソフトを使うのは普通である。将棋が強い人でも、そのときの気分や体調次第でミスをしたり実力を発揮できないことがある。だから、終盤の寄せになるとAIは強いのである。

大局観を高めるには

プロやアマ高段者の棋譜を並べるのは、よい勉強方法といえるだろう。さまざまな局面を知ることで、「こういうときは、どう指すのか」がわかってくるのである。

最近ようやく譜号に慣れてきて、棋譜をみたら盤に並べなくとも視覚的に駒の位置関係を把握できるようになってきたように感じている。まだまだ経験が少ないので、考えながらでないと駒の位置を間違えるが、僅かずつではあるが脳内将棋盤とシンクロしているのである。言い換えると、盤面を瞬間的に脳内に焼き付ける感じである。

そのような経験を積むに従い、ヒューリスティックに局面を判断できるようになってくるのではないか、とにらんでいる。なぜなら、多くのAIはそのようにして学習しているからである。AIにとって、局面の認知が最も難しいのである。いっぽう人間は得意とするところである。大局観は人間だから感じ取れるものなのである。

評価値は、どちらが勝っているかと同一なのか

まあ、基本そうだと答えたいところであるが、評価値を絶対的なものとしてとらえることには反対である。評価値原理主義になってはいけないのである。あくまでもPCソフトの判断であり、参考にするなら良いが、評価値が低いから負けだとか、高いから勝っているというのは厳密にいえば間違っているのである。

あくまでも玉が詰むか投了しない限り、負けではないのである。評価値が高い側が間違えれば頓死することもある。勝負に絶対などないのである。

だから評価値をみて、すべて分かった気になど絶対になっては損である。PCソフトに支配されているのと同じだからだ。

たとえば、振り飛車にするだけで評価値はマイナスになる。マイナスであっても、俺は振り飛車を指したいんだと思えば指せばよいのである。マイナスになるなら振り飛車は不利だからやめよう、というのは思考停止である。

むしろ、なぜマイナスになったのか、その点に注意を払うべきである。どういった要素がマイナス評価になるのか。何手先でどういう不利な変化があるのか考える。それが研究である。だから、序盤研究が熱心だと、変化を計算済みで指すことができるのである。

ここまで約2100字。実は暇なときにコツコツと下書きをしていたので、一時間ちょいでここまで書けた。キーワードから思いついたメモ書きを残しておき要約としておけば、膨らませる作業をすれば文章が整うからだ。今後はレジュメを書いておくのはアリにしておこう。

読み返すと、当たり前のくだらん事しか書いていないのに気がつく。すでに複数言及がある、いわば常識的なこと、あるいは検証されていない妄想的なことだからである。

もちろん誤りに気が付けば改める気ではあるが、この文章は思考の過程として敢えて残したいと考えている。