共感について
日課のカタカタをしよう。
激しく同意します
昨今聞く言葉に、「共感」がある。
TwitterなどのSNSの発信や書籍などを取り上げて、「共感の嵐」などと騒ぎ立てるのである。よく目にするのは、人生について4コマ漫画で表現した作品である。
俺はこの現象に食傷気味であり、なにかと共感しまくる衆人に対し些かイラついているのである。
その理由として考えられるのは、ひとつは俺自身の承認欲求が満たされていない状態だからだと思う。つまりは嫉妬である。
そういった作品は衆目を集めるだけあって、発言にキレがあったり漫画が秀逸なのである。今の自分には創作できるレベルではなく、正直悔しいのである。
共感を英語にするとシンパシーである。シンパシーというのは同情するとか気の毒といったネガティブなイメージを持った言葉である。
一方、「共感の嵐」の場合は、「あ、わかる!そうだよね!言語化してくれてサンキュー」といったニュアンスである。
とはいえ、仲間意識からくる感情なのは変わりがない。親しみのある存在だからこそ共感するのである。その点においてエンパシーとは異なる。
発言者が全く知らない人であっても、立場や考え方に共通点を見出したから共感するわけで、仮に意見や主張にバイアスがあり乱暴な決めつけがあっても、批判的な態度をとらずに同志として受け入れるのである。
その場所はエコーチャンバーの居心地の良い場所となり排他的になる。
外部からは弱者の傷のなめ合いのように見えることもあるし、単なる欠席裁判ショーにしか見えないこともある。
井戸端でも、給湯室でも、便所でも、昔から諸人は共感しあい支え合って生きてきた。それを否定する気は毛頭ないが、そういった紐帯の確認作業に辟易している人間がいるのは指摘しておきたい。
共感しない奴は敵だと見做されるのが厄介だから、共感したフリをすることもある。
お前は敵なのか、味方なのか、と、問われているからである。
まさに感情の押しつけである。愛や絆といった言葉を軽々しく口にする人間ほど、そういった傾向が強いと個人的に思う。
友人が神のように崇めている人がいる。彼に会うたびに「○○さんはスゴイだろ」「偉大なんだよ」「だから崇めろ」と押し付けてくる。
そのたびに、「スゴイねー!」「そうなんだね」と受け止めるのだが、心の中では、「君にとってはね」と付け加えている。本当の意味で共感しないのは、彼をバカにしているからではない。無批判で受け入れられないだけである。
わざわざ敵対したくもないので歩調をあわせはするが、正直なところ深入りしたいとは思っていない。
共感というのは自分自身の感情の動きであって、共感を集めている主張に耳を傾けはするものの、無批判では受け入れないし他人に強制されるものではない。
意気投合した相手と意見が割れると怒りを感じる人がいる。自分が否定されたと受け取るからである。自分と同じ考えの人間などいないと諦念するのは意外と難しいのである。
1200文字 1時間40分所要
共感する心は大切なのだが、共感を連帯感と勘違いして強要する文化が日本にはある。
偏った情報を鵜呑みにし、あいつは叩かれても仕方がない悪い奴だと決めつけて、自分の意見と同じ書き込みを見つけると、乗っかって誹謗中傷する。
みんなが自分の書き込みに共感してくれると承認欲求が満たされて脳内物質がドバドバ分泌されるのだろう。
他人がなにをしようと勝手だが、俺は一匹狼がいい。いかにもオンラインサロンは居心地が悪そうである。