初段までの道は険しい
将棋の練習について、ある程度の考えが固まりつつある。
記事を書くのも楽しいが、少しずつでも将棋をやらないと上手くならないので、その辺りのバランスも踏まえて活動する次第である。今日は、ざっと練習のねらいについて書こうと思う。
以下の文章は、常識的すぎて参考にならない、あるいは全くの思い込みで事実と反する場合がある。あくまでも俺の考えかたなので、参考にするなら自己責任でお願いしたい。
当面の目標は初段になること
初段というのは、ピアノでたとえるとクラシックの名曲を下手なりに通しで弾けるレベルではないかと考えている。童謡であれば初心者でも弾けそうだが、やはり憧れの名曲を弾けてこそ楽しいのだと思う。基礎を身につければ、あとは完成度を高めていく方向になるからである。
将棋の基礎を身につけて、対局そのものの質を向上させると、もっと将棋が楽しくなる。そんな気がするのである。今は正直楽しいわけではない。思いどおりに指せずにイライラすることしきりである。だから、このフラストレーションを解消したい一心で強くなりたいと希望するのである。
得意戦法を身につける
初段になるには得意戦法を持っているのが絶対条件である。そうでなくては初段になれるはずがないのである。
まず、居飛車か振り飛車か、オールラウンダーか、自らのスタイルを決定するのだが、中級者までは振り飛車が良いという。受け重視であり、居飛車より覚えることが少ないからである。俺は敢えて居飛車でいこうと考えている。理由は、プロ棋士の採用率が居飛車のほうが多いからである。もちろん振り飛車も覚えるつもりだが、俺は器用ではないので、まずは居飛車を徹底的に練習するのである。
棋書を数冊購入した。居飛車の基本戦法と右四間飛車の定跡本である。相居飛車対策とノーマル振り飛車には右四間で応戦するつもりで購入した。ざっと読んだら、ぴよ将棋で研究してみようと考えている。お互いの棋力が初段以上ないと、棋書通りの展開にならないし、書いてある変化にならないからである。
ぴよ将棋を使う理由は、将棋ウォーズで初段と対局したら、おそらく瞬殺されるので練習にならないのである。
ちなみに、将棋ウォーズも将棋倶楽部24もアカウントはあるが、一度も対局したことはない。なんとなく弱いうちは対局したくないのである。
基礎ができたなと思った時点で実戦するつもりである。
中盤の構想力を高める
棋譜ならべ、次の一手、将棋ウォーズ実況を観る。これらが役に立つと考えている。
棋譜ならべは大局観が身に付くと思うのである。一つ一つの変化を深く読むのではなく、全体的な局面を観るのである。指す前に四隅の香車を見よという格言があるらしい。おちついて盤面を見渡すと良い手が見えてくるという意味であろう。
どうやって攻略するか、どう受けるか。相手がされて一番困る手を考えるのである。
プロも中盤に一番持ち時間を使っているように感じる。序盤は研究しているし、終盤は詰みが読めれば早いからである。
常に次の一手のような手が必ずしもあるとは限らないのである。とがめる悪手も互いになく、なにを指したら良いのかわからない局面であっても、ぬるい手を指したくはない。自分が指したい手がいい手かどうか、いまひとつ分からないときでも狙いをもって指したいものである。
将棋実況チャンネルは、強い人が構想を話しながら指してくれるので勉強になる。
駒の働きと駒得どちらも大事なので、臨機応変に作戦を変更する必要もある。戦略を練るという意味で頭を使うのは中盤だと思う。
終盤力は詰将棋の数をこなして
俺は、詰将棋をせずに終盤が強くなるはずがないと考えている。将棋は終盤が命である。ぱっとみて詰みが見えるようでなくては、せっかく勝てた将棋が負けになるのである。
詰将棋はパターン認識である。とにかく反復練習あるのみである。ひたすら3手詰をやりこみ、暗記するくらいパターンを覚えるのである。すると実戦で似た局面になったときにヒントになるのである。
ドラゴン桜という、偏差値の低い生徒を東大に合格させるテーマの漫画を読んだとき、数学の勉強法とされたのも同様だった。徹底的に問題集をやりこめば、見た瞬間に解き方がわかるようになるという。計算問題はスピードが命だから、いちいち頭で考えていては間に合わない。パターンに反応するよう、脳にデータを徹底的に叩きこむのである。その都度数値は違っても考え方は変わらないので、当てはめれば答えがはじき出される寸法である。
さて、ここまで1800文字である。不思議なことに一時間半ほど経過している。
やはり、考えながらだと書くのが遅くなるようである。
できれば一時間程度の時間で2000文字程度の記事を仕上げたい。なるべくなら読書と将棋に時間を割きたいからである。文章を綴るのは習慣として止めたくないので、明日からはボリュームを減らす方向で考えてみよう。とにかく書き続ける。駄文であろうがなんであろうが関係ないのである。