社会で孤立しやすい性質を持った人が弱者になる
カタカタの時間である。
前回は弱者について書いた。なかなか深いテーマであるから、単発で取り上げるにはもったいない。これからも少しずつではあるが考えを記していきたい。
弱者について語れるほどの学術的な知識もないし、物語れるほどの構成力も筆力も残念ながらない。ひたすら亀の歩みのように、ゆっくりと考えていきたい。そもそもの目的としては文章力を高めるための練習として書いている記事である。弱者に対して思うことがあって世の中に訴えたいのでもなく、学問として学びたいわけでもないわけで、その点自由なのである。
弱者というと、弱いものを指す。弱いとは、何が弱いのであろうか。
子供のときを思い出してみよう。弱いというと、争いに弱いという意味ではなかったか。
・腕力が弱く、喧嘩をすると負ける。
・気が弱く、言い合いになると言い返せない。
・競争心が弱く、試合に負ける。
弱い彼ら彼女らは、強い者たちの対極に位置する存在である。
子供たちの社会にはカーストが存在する。全体の中で喧嘩が強ければ別だが、運動や勉強や遊びが並み以下だと弱者と認識され、自動的に底辺のカーストに位置づけされるのである。
年下の子や女の子は弱いから、男性が暴力を振るうのは卑怯だという考えが我々には根強くある。緊急時に避難を優先するのも女子供と老人である。屈強な成人男性が最後に残るべきとされている。老若男女という属性なら若い男が強者なのである。
基礎練習を欠かさない女子プロレスラーなら、ほとんどの男性より腕力で勝っているから、戦ったら男性に勝ち目はない。これは例外であって、一般的には女性が力勝負では弱者である。
いっぽうで、体が弱いとか身体・知的障害に対しては、健常者と比べるとハンデがあるので配慮を要するという認識がある。
子供のうちは衝動を理性で抑える能力が発達していないから、中には配慮を要する子供に対していじめ行為をする子供もいる。
弱者には
・社会的弱者
・健常者に対しての身体的弱者
の2種類があるのではないだろうか。もちろん2種類の属性を併せ持った弱者も存在する。
社会的弱者を掘り下げて考える
社会のなかでの弱者なので、相対的な弱者といえる。ジャングルのなかに素っ裸で放り出されたら、ゴルゴ13でもない限り生き延びるのは難しい。環境によるが、おおよその人間は絶対的弱者である。
社会で弱いというのは、なにも能力だけとは限らない。無能でも権力をもっていれば強者である。
身体的弱者であったり、実務能力が低かったとしても、コミュニケーション能力が発達していて影響力が高ければ、社会的には弱者ではなさそうである。
間違いなく社会に存在しているはずの弱者なのに、その正体はつかみどころがないのである。
社会で孤立しやすい性質を持った人が弱者になる
社会のなかで孤立している人が弱者なのではないか、と仮説を立ててみる。
人と繋がれない、繋がってもらえないと感じているから弱者なのではないだろうか。
自分の属している社会のなかでカーストが低いため、周囲との間に対等な関係を築けない。結果、自分にとって不利な条件を飲み続けるしか術がない。
人との繋がりが弱いがために、強者に対抗し得る手段を持たない。
孤立する原因として、コミュニケーション能力の低さが考えられる。
コミュニケーション能力には、人を不快にしない外観と、信頼されやすい立ち振る舞いも含まれる。人は見た目が9割なのである。
話していて楽しい人と、一刻も早く離れたくなる人がいる。
話すほどに尊敬の念を抱く人と、呆れて見下してしまう人がいる。
弱者は、魅力的ではなく関わってもメリットがないと思われてしまうから、受け入れて欲しいのに欲求が満たされない。
弱者同士で助け合うことで解決できないかと思うのだが、そんなに単純な話ではない。
俺の推察では、弱者同士は関りあっても報われないようである。弱者も弱者を見下すからである。自分より弱いものは魅力的ではないから、関わり合ったとしても周囲に気付かれないようにする。
学校や会社などの社会においては、序列リストの順番が重要なのである。
「彼はイケている」とか、「あいつはキモい」など、その社会を構成している人々の間に共通した認識があって、我々は評価に不満があるにせよ従っている節がある。
誰もが共通した認識と考えている序列より自身が下に扱われるのだけは我慢がならない。だから下位の序列の者に対して見下すのである。
そのような構造があるから、かならず椅子取りゲームの敗者が弱者となり孤立するのである。大貧民で革命が起きない限り、あるいは環境が変化しない限り、弱者は弱者のままである。
社会が変われば弱者ではなくなる場合もある
学校ではいじめられっ子でも、塾ではイケてる場合もある。
結婚相談所で見合いすら決まらない恋愛弱者だが、年収2000万で持ち家があり預金が1億ある男。
弱者は見方によっては強者なのである。
満たされるべき欲求が満たされていないのが弱者なのだろうか。
喧嘩が弱く、腕力で尊厳を奪われた人間からすれば、肉体的に弱いと弱者である。
だから、喧嘩が強くなりたいと思う。格闘漫画を読んで強者をボコボコにする想像をしたり、コンプレックスを克服するために筋トレをしたり格闘技を習うのである。
劣等感をバネにして努力できる時点で弱者じゃないという指摘もあるだろう。
苦しいけど、自分自身を弱者と認めたうえで克服しようとするか、あるいは自己卑下するのか。
自己卑下する気持ちも理解できるし、なにか別の問題のせいにする気持ちも理解できるからである。
次回は弱者がなぜ自己卑下し、何かのせいにする理由を考えてみたい。
2300文字 1時間半所要
沼に足を踏み入れたような気分である。
弱者の気持ちが理解できないと書けないし、かといって弱者にとらわれていても書けないのである。
俺は子供のころ学校内で孤立していた。そんな中でも親切にしてくれたクラスメイトもいたが、俺と仲良くしたいのではなく善意からだと知ってがっかりした経験もある。なるほど、俺は深入りしすぎていたのである。
対等な友人関係を築けなかった俺は、人間関係の距離感を学べずに大人になってしまった。自身が弱者であるのを認めたくない一方で、なぜ、誰も配慮してくれないのだと一人で怒っていた。
だから、人に甘えてはならないと思うようになった。世の中は厳しいから、いざとなったら誰も信じてはいけない、頼っても助けてくれない、そう決めつければ人をアテにしなくなる。一匹狼で生きよう。弱者だからこそ自分の身は自分で守るのである。
そう決めても、ときどき人を無性に信じたくなる。お人好しの血が騒ぐのである。
たいていの悩みは人間関係である。体調がまあまあで生活費に困ってない限りは、人との関係性で胃に穴が開くほど悩むのが人間なのである。
その関係性において弱者なのは、人生のなかで相当な苦痛である。
孤立しやすい性質をもっているから弱者なのか。弱者なので孤立したのか。
どちらにしても、弱者になる人には特有の性質があるような気がする。環境に依存する性質なのか、あるいは生まれ持った性質なのかはわからないにしても。