人の話は半分に聞いておこう
体が言うことをきかない。ガタガタだ。
元々体が弱いので、疲れやすく病気になりがちなのだが、年齢的なものもあるのか寝ても疲れが取れなくなった。
じっくりと取り組みたいが時間がない焦りがある。休む時間を多くとるほど、パソコンに向かう時間は少なくなる。
仕事をして、残った時間で何らかしらを書く。無駄な時間と思いながらも、俺にはもうこれしかないと書くのである。
根本的に取り組む姿勢を変えないとダメかもしれない。そう思えてくる。
とにかく書く習慣をつける。そのために、どうでもいいことでも書く。書く。書く。
言いたいことは山ほどあるのに書けない。仮に時間が無尽蔵にあったとしたら、余すことなく書き尽くせるのだろうか。そうも思えない。書く以前に自己解決してしまうと、意欲が湧かなくなるのである。自分の中で気が済んでしまうと、どうでもよくなる。そんなものである。
ネットで自分の考えと同じことを誰かしらが主張している記事を読むと、既に言及されつくしているなと思う。今さら俺が言う必要性を感じなくなる。発見や新鮮さがないのである。
俺だけのオリジナルな意見はあるのだが、所詮誰かの意見の二番煎じなのである。同じ人間が考えることなど大して違いはないのである。
4000年以上前から、人間についての大抵の問題は考え尽くされている。
なのに、解決している問題など殆どないのである。
本を読んでも、既に研究され尽くした成果を学ぶだけで、自分で考え付いたことなど何もないような気になる。
いや、以前から考えていた問題については、既に研究成果と同じ答えに辿り着いていたことは沢山ある。当然そういうときは理解が早い。
しかしそれは研究して得た答えではなく、あくまでも直観した答えである。たまたま答えが同じだっただけと考えるべきだろう。しかもそれが完全無欠の絶対的な正解ではない。学問においては、絶対不変の正しさはあり得ないと思っている。
ただ単に、蓋然性が認められるというだけである。
論理に矛盾がない。自然科学なら実験すれば再現できる。だから今のところ間違いなさそうだ、というだけであって、「絶対に正しいから不変だよ」というわけではないのである。
定説を覆す批判も必要である。いかなる意見であっても、それが学問の発展に繋がるのなら受け入れるべきである。
根拠を示し論理的に矛盾してなければ、他の説を唱えてもいい。あとは論文を読んだ人が内容を判断して決めればよいのである。論理が破綻していると判断されればトンデモ論となるだけである。
理論ではなく仮説であれば、ぶっ飛んだ説も面白いと思う。後でそれが実は正しかったとされたケースも実際に多いからである。
ただ、すべての人が判断できるほど簡単な内容ならともかく、専門知識が必要な論理が殆どである。専門家が判断して、これは世の中に広がると誤解を与えると思うなら徹底的に批判されるべきだとも思う。
オカルトを徹底的に批判していた大槻教授は、そういう意味でスゴイ人である。まさに学者である。一応言っておくが、俺はオカルトを否定しているのではなく、大槻教授の姿勢を評価しているのである。
批判といっても「ダメだよ」という批判ではなくて、クリティカルシンキングの意である。
心理学等の論文を引用して、何らかの意見を主張する人にも気をつけたほうがいい。
論文の内容だってピンキリである。精査され批判に耐えまくったものから、蓋然性の低い論文もある。論文を有難がらないほうが身のためである。
批判といっても、何から何まで疑えって話ではなく、まずは主張をフラットに肯定するところから始める。ケンカ腰じゃだめである。
そのうえで、おかしなところがないか考える。主張は受け止めるが信じるわけではないというスタンスである。
正解のない問題こそ、あの手この手を使い、信じ込ませたい内容を信じさせようとする輩がいる。
尤もらしい、耳に心地の良い論理は信じたくなるのである。
この世の真実を知ったような気がしているだけで、都合良く事実を歪ませた作り話を信じ込んでいるだけである。
約1600文字 2時間所要
書いているうちに方向があれよこれよと右に左に泳ぎまくり、結局はオンラインサロンやYouTubeで稼ぐインフルエンサー等の主張をクリティカルシンキングしましょうみたいな内容に落ち着いたのである。
本来話したい内容ではなかった。
文章も生き物だから、時々フラフラと明後日の方向に進むものである。