文章練習

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抑うつ状態からの脱却について話をしよう

抑うつ状態からの脱却について話をしよう
 
あのころは、気分が落ち込み何をするのも億劫だった。
好きなものに一切の興味が持てず、休みの日はカーテンを開けず一日中寝ていた。世間から見捨てられないように仕事にしがみつくのがやっとだった。自分なんてどうせ虫けらだと思っていた。
社会にいてもいなくてもクソの役にも立たない存在だと思っていた。
 
胸にポッカリと開いた虚無感を埋めるかけらは、この世の中にあるのだろうか。
 
誰もが信用できなかった。どうせ、みんな親切ぶっているだけで自分のことにしか興味がない。隙あらば人のことを食い物にしようとしている、そんな連中ばかりだ。
だから、何かをしてあげてありがとうと言われても、ああ、お礼を言っておけばノーコストで動いてくれるロボットだと思われているんだなと思った。
にもかかわらず、嫌な奴だと思われたくない一心でニコニコしている自分に心底うんざりする。
 
毎日仕事をするために生きている。仕事が終わったらひたすら眠り、明日からの仕事に備える。
何のために生きているのだろう。仕事をするためにご飯を食べて、眠る。そうして稼いだお金で食べて寝る。まるでロボットが働いた報酬で電力を購入して、働くための電力を賄っているようだった。笑えない冗談だ。きっとこの陰気さが人に嫌われるのだろう。
「今さらどうやって明るくなれというのだ」
そう口にしたとき俺は誰に言い訳しているのかと思い、おかしくなった。
 
なぜ、周りの人は、テレビの話題やらどこの店で何を食べただとか、くだらない話題で盛り上がれるのだろうか。
もっと話さなくてはならない深いことがこの世にはたくさんあるのに、なぜその話題を避けるのだろう。
 
面倒くさい奴だと思われたくないので、こちらからは話題を振らない。自分の話など興味を持ってもらえるかわからない。場の雰囲気を悪くしたら責任はとれない。
 
自分が出来ることを、他人ができないことが不思議だった。どうしてこの人は、こんな自分でも出来ることが出来ないのだろう。ふざけているのだろうか。
 
なのになぜ俺だけ、仕事で頑張ったことは評価されずに難詰されるのだろう。
 
自分の成果を同僚に横取りされても我慢しなくてはならない。自分ごときが口をだしたら面責される。大人しく耐えなくてはならないのだ。
 
毎日が理不尽の連続だった。たまに理不尽さを愚痴ると「世の中はそんなものだ」と一蹴される。
コミニュティの為に身と心を削り捧げているのを評価してもらえないことが悲しかった。
 
誰も俺には興味がない。
磨り減ったら交換される部品のようなものだ、そう思い込むしかなかった。
 
部屋は荒れ放題だった。飲みかけのペットボトルを何十本と放置したままだから足の踏み場もなかった。
帰宅すると緊張の糸が緩む。疲労の波が押し寄せ、敷きっぱなしの布団の上で動けなくなる。
 
親友という存在を信じることができない。
でも、そういう存在に憧れた。
 
抑うつの人は自己肯定感が低いらしい。だから、自己肯定感を高めることで抑うつから精神状態が良くなり幸せになれる、という主張をよく見かける。
 
しかし、俺の考えは違う。
抑うつで辛いのなら自己肯定感を上げる努力をするより、この世の無常を受け入れた上で智恵について考えを巡らすことをすすめる。
そうすれば、自己肯定感が低くとも心の持ち方次第で抑うつから逃れることもできるかもしれない。
 
 
今まで俺は、周囲から認めてもらうために属するコミニュティに対して忠誠を誓い貢献してきた。
正直な話、自分を押し殺していたと思う。
バカにされてもヘラヘラしていた。
このコミニュティで必要不可欠な存在になりたい、頼られたい、そんなことばかり考えていた。
 
そしてついに、仕事も人間性も認められた。今まで自分のやってきたことは正しかったと安心した。
 
今までの俺は、自分なんてどうせダメな人間だから何をやってもダメだし、不当な扱いを受けて当然だと思っていた。
 
だから、認められ頼られたときは天にも昇る心地になった。ついに必要とされたんだと、自分自身を褒めてあげた。
それがキッカケとなり、抑うつから解放されることになる。
 
そうして、今までは高望みと諦めていたことにも手を出すようになり、結果を出した。
 
ところが、そのコミニュティとは距離を置く出来事がおきる。
いままで笑いものにしていた可哀想な奴が、登り調子だと憎たらしいのだ。
面倒を見て助けやっていたはずなのに、いつから対等になったつもりだ、というわけだ。チャーリイ・ゴードンになったような気分だった。
 
そのときに思った。他人の評価に振り回されても仕方がないと。
自分がやりたいことをやり、やりたくないことはやらない。そのように振る舞える自由を手に入れるために行動するべきだと。
無理をして合わない人と付き合い、本当はやりたくないことを我慢してやるのは、もうゴメンだ。
周りの人を価値基準にする必要はないのだ。
 
確かに、人から自分がどう思われているかを自己評価の根拠にしたら、一時的に自己肯定感が上がった。
しかし、他人の評価を基準にし続けることの困難さと辛さを考えると、あまりおススメできない。
 
人生は長いようで短い。
他人の評価のためにやりたくないことをして、精神と時間を消耗するのはもったいない。
明日もし、世界の終わりがくるとしたら、やりたいことをせずに死にたくない。
 
心残りなことがあるとしたら、今やるほうがいいに決まっている。
 
そう思うなら、自分自身を価値基準にするべきだ。
 
だが、断っておくが、今の俺は自己肯定感が高いわけではない。
俺は自分自身のことをクソみたいな存在だと思っている。
だが同時に、周りの人々もクソだと思っている。そのクソみたいなのが人間だと思っている。
 
人は間違える存在である。だから人間は尊いし愛おしい。
人間の汚さや、他人と自分との違いを受け入れることで「まあ、仕方がない」と諦めることができる。
 
自分がダメな人間だから、裏切られても仕方がないわけではない。嫌われて当然なわけではない。なぜなら、自分に問題がある場合もあるが、そうでない場合もあるからだ。
 
人の心を永遠につなぎとめることなどできるわけがない。裏切られることもある。
心を傾けて礼を尽くしても自分を嫌う人はいるから、好きになってもらう努力をしても報われない場合もある。
 
気の合わない人もいるし、妬まれることもある。利害の不一致もある。でも、一言で言えば「どうしようもないこと」だ。
 
だから、どうしようもないことに罪悪感を抱き、人に良く思われよう、好かれようとすればするほど自分に嘘をつき続けるので辛くなる。
 
「天に恥じない行いをしていれば、人がどう思おうが知ったことではない」
そう割り切って、自身の心の持ち方を変えた。
 
とはいえ、社会の中で孤立しないように立ち回るのも智恵である。他人を不快な気持ちにさせないように言動に気を使い、そのときに応じて嘘をつくのも方便である。
 
言動や身だしなみに他人を不快にする要素がないか気にすることは大切で、不要な敵を作らずに済む。
相手がどう思うか汲み取ることが思いやりだ。論理的に正しいとか、法律的に問題ないとかではなく、やってはいけないことはしない。
 
また、他人との距離感も大切である。
お互いが踏み込みすぎると争いが起きる。
 
道徳とは、世間知である。不要な争いを避け、社会の一員として生きていくために大切なものだ。道徳を軽んじてはならない。
 
幸せに生きるには、どうしようもないことは諦めることが肝心であるが、一方で他人の気持ちを慮る繊細さが大切である。
 
 
約3000文字 所要は20分程度 うんこしていた時間を除くと実質10分
 
図らずも本文と解説の二部構成になっているわけだが、じつはこの構成が気に入っている。本文中で拙いばかりに言い表せきれないことを言及する場として活用しやすいのである。
 
この駄文であるが、じつは二年以上前に書いた文章のコピペである。抑うつ状態から脱却したのはさらに数年前遡る。ようやく当時を見つめ直し、書くことができるようになったのが約二年前であった。
 
この話には興味深い点がある。自分の軸を持ち、評価を他人に委ねないことで生きやすくなったわけだが、あくまでも抑うつからの脱却のきっかけは他人からの評価であった部分である。
「社会的ななにか」から「客観的な」評価を得ると、鬱屈している状況においてはカンフル剤となる場合がある。存在を肯定され、貢献を認められたからである。
 
所属していたコミュニティにおいて認められたから自己の存在意義を見出せたわけである。しかし、コミュニティ内のポジションが変化したことで軋轢が生じた。それがきっかけで、自分自身を価値基準とするのが最も自身にとって善いことだと気がついたということである。もちろん、自己が社会的に成熟した存在であるよう努力する前提であるが。
誤解を恐れず言えば、このとき父権主義的な考えから自由主義的な考え方にシフトしたのである。
 
時間オーバーしたので、ここで終了することにする。