どうしたら弱者は報われるのか(考える過程において、この問いそのものが変化する可能性がある)
カタカタしよう。
昨日は、あまりの眠さにPCを前にしながらダウンした。
今日も下書きせずに考えながら書くから、読みにくく何を言っているのかわからない文章になるかと思う。
俺の認識では当ブログは日記帳であって、思考をアウトプットする場であるから、最終的なまとまった文章での発信は別のブログで実名にて行うつもりである。
前回書いた内容について
やはり、「弱者」というワードが自分にとってのキーなのである。
弱者について非常に興味がある。
弱い者は強い者を憎むしかないのであろうか。
憎しみを理性で押さえつけるしかないのか。だとしたら、報われない。
もし、それしか方法がないのであれば、俺が弱い人間の立場だったとしたら、できるだけ社会に関わらずに自分だけの世界に逃げ込みたくなる。
もし自分が弱い立場だったら、という視点でものを見るのが寛容性なのだが、独善的で自身のものの見方に疑問を覚えない無謬主義的な考えをもつ人々が世の中には多いのである。
たとえば、男性弱者への「かわいそうだ」といった見下しや、その歳で結婚できないのは何か人に言えない性癖があるに違いない、といった勝手な決めつけである。
キモくて弱いオッサンを本能的に警戒する女性の立場は理解できる。べつに男性弱者を差別をするなとか、優しくしてあげなくてはならないと主張しているのではない。
好意ではなく純粋な善意を勘違いされては困るという、彼女らの言い分はもっともだからである。
弱者の苦しみに寄り添い配慮するのと、弱者を受け入れるのは別のことだからである。
弱者を取り巻く環境に対して批判めいたことを言いたいというより、どうしたら弱者は報われるのかを考えたい。
どうしたら弱者は報われるのか(考える過程において、この問いそのものが変化する可能性がある)
人は知らないことを書けない。ある意味において俺は男性弱者であるから、自身の知る限りにおいて書くことができる。知ればさらに深く書くことができる。
知らなくとも当てずっぽうで答えたり、推量して答えることはできるが、詳細に書くことはできないのである。
知っていることとは、本などで学んだことでもよいのだが、それだけでは不十分である。
架空の漫画家、岸部露伴が言うように、好奇心をもって、目で見て、耳で聴いて、味わってみないとわからないことが世の中には膨大にあって、それらを経験しないとリアルなことは書けないのである。
(学問の世界でいえば、フィールドワークをせず金枝篇を著したフレイザーは「書斎の学問」と批判をうけているが、著書そのものは非常に高い資料的価値があると評されている。前回のようにネットで少々調べた程度だと、ほんの上辺をさらって知った気になったにすぎない。その結果、コンビニ袋のようなペラペラしたものしか書けないのである。重厚な内容を書くなら、その分野に関する情報を死ぬ気で集める覚悟が必要だと個人的には思う)
ネットで調べた情報をそれっぽくまとめた記事は確かに便利だが、筆者自身が問題に直接関わっていないので明らかにリアルティが不足しており、述べる結論もコンドームのように薄っぺらいのである。
その点、実際に行動して経験している人の発信は地に足の着いた実際的な内容であって、揺るぎの無い信念に基づいた発言をしている。考え方は違っていても尊敬に値する書き手なのである。
テーマなどというと、社会問題や環境問題のようなビッグなことばかりに目が向くかもしれない。あちこち取材して人から話を聞いたり、文献を調べたりとしなくては確かなものを書けないのではないかと不安になるものである。
しかしテーマは身近に潜んでいる。むしろ身近だからこそ知っているので書けるのである。
自分には特別な経験や知識などないので、何も書けないのかというとそうでもない。
誰しもが人生を送っている。多感だった頃の記憶を探りあてると、死ぬほど悩んだ問題を思い出すかもしれない。あるいは日々の暮らしの中で感受したことを書くのもいい。
どんな問題であっても、好奇心をもって興味深く観察し、実際に関わると輪郭が浮かび上がってくるのである。
自分の人生など特別ではないと思い込んでいるだけで、竹内まりやが歌うように毎日がスペシャルなのである。書くべきことなど石ころのように辺りに落ちているのである。
好奇心をもったら深く知ろうとする。
面倒くさがらない。
丁寧に。
焦らない。
簡単に、効率よく知ろうとしない。興味の赴くまま、ゆっくりと時間をかけて知るうちに詳しくなるものである。
勉強だと思わないことである。知らなくてはならないと思わないことである。好きで、いつのまにか知っていた、くらいがいい。
みんなは関係ない。自分が本当に心の底から好きか、その問題に関心があるかを問い続けるべきである。
と、今、自分に言い聞かせているのである。
約1900文字 約2時間所要
弱者を救う方法を考えているのではなく、どうしたら報われるのかを考えようという試みである。
弱者、強者という主観的、客観的な認識や定義もない概念をどのように分類し、弱者が報われる方法を考え出すのは俺には荷が重すぎる。人類が滅亡しないかぎり解決するような問題ではないと思える。
しかし試みるのは大切である。
試みの地平線を思い出してしまった。
「ソープへ行け」
女にモテずに童貞拗らせている男性弱者にとっては、まさに金言である。