文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

宿題の答え

昨日の記事で問いを立てた。

愛する人を失って(亡くして)哀傷に満ちた涙を流すのは、誰のためなのか。

 

カップラーメンが出来上がるまでの時間や、うんこしているときに考えてみたが、答えはでない。というか、でるはずがない。そんな生易しい問題ではないし、そもそも答えがあるのかも怪しい。

しかし、考えてはみた。

これまでの思考の軌跡を辿ってみるとしよう。

 

そもそも誰から見た視点なのか

誰のために涙を流しているのかを問題にしているが、そもそも誰から見た視点で問うているのかが問題である。

誰目線での話なのか。自身の目線なのであろうか。

もし自分から見て、自分が涙を流すのはなぜだと問うているのであれば、自分の胸に聞いてみるといい。

大切な人(亡くなった人)を失ってしまいショックを受けている。そして、自身の心の奥底で、その人の代わりになる存在を求めているのであれば、自分自身のために涙を流しているとは言えないだろうか。

失われてしまった自身の心の破片を埋めるためには何をすべきかを考える。現実的にも拠りどころだった存在ならなおさらである。

だが、途方に暮れて流す涙は、本当に自分自身のためだけに流している涙なのだろうか。

埋葬するのは死そのものに意味があるから

一万年前の、我々人類がまだ狩猟採取で日々の糧を得ていたころを考えてみる。まだ技術も医療も進歩していないから、不慮の事故であっけなく人は死んだ。

当時の人々も、身内が絶命したら地に伏せて痛哭しただろう。見たわけではないので想像ではあるが。

家族や仲間が死ぬというのは、その集団内で助け合える存在が減るのと同義だから、自分の身がより危険に晒されることになる。とくに有力な人物であればなおさらである。

だが、自分の身を案じるあまりに涙していただけかといえば疑問が残る。

少なくとも五万年前のネアンデルタール人たちには、死者を埋葬する習慣があったようである。ただ単に地に放置するのではなく、風雨や動物からの影響を受けないよう丁寧に埋葬されていたという

死者を悼む感情がなければ、この世からいなくなってしまったと嘆くだけ嘆き、遺体は放置したままだろう。死んだのは困るし悲しいが、そんなことより代わりとなる存在を探さねば、というわけである。

埋葬するという行為は死んでしまったこと自体に意味をもたせている。

亡くなった人物に対し敬意を払い、我々の存在する世界とは別の世界に旅立ったのなら、どうか達者でと祈る気持ちのようなものがあり、あるいは永遠の安らぎを得るよう祈る気持ちがあり、永遠の別れを惜しんで涙を流すのであれば、それは愛慕の落涙だと思う。

 

世の中は自分以外のために存在しているという視点

自分自身のことでなくても涙を流すことがある。他人の経験を聞いてもらい泣きしたり、テレビや映画、漫画、小説などの死別シーンに涙した経験のある人も多いだろう。

そういった自分自身以外のことにも涙するのも、誰のためという視点ではなく、どこから見た視点かという話になる。

 

テレビを観ていると、テレビの向こうの世界には絶対に介入できない。ただ、視聴者は事の成り行きを観察しているだけである。

これは俺だけなのかもしれないが、昔からよく考えることがある。

世の中は自分以外のために存在しているという考えである。

簡単に説明すると、世界は自分以外の誰かが主人公であり、自分はそれを見聞きし記録するビデオカメラに過ぎないという考えである。

結婚式や誕生日会など、人には主役になれるシーンが大体ある。でも、絶対に俺は主役になれず、自分の視点で世の中を見聞きして記録しているだけのような気持ちになることがある。

あくまでも自分の視点でしかモノを見ることができないため、他人がどう思っているかは分からない。なので、他人が近しい人の死を前に涙していても、それが故人を悼んでいる涙なのか自己憐憫の涙なのか知りようがないし、気丈に振舞う人の暗涙にむせぶ姿を知らないだけかもしれないのである。

物事は自分から見てどう見えるかしかないのである。

俺は、ドキュメンタリー映画のカメラ目線といったらいいのか、うまい喩えがみつからないが、自分自身がそこに存在しているのだが存在していないような、そんな立ち位置からの視点で社会を観察しているときがある。

こちらが話を聴く態勢になると、大体の人は自分の話をしたがるし、話しているときは生き生きとしている。誰しも皆、自分は世界の主人公だと思っているからだろう。

その話が真実なのか事実なのかわからない。ホラ話かもしれない。

まるで、映画「ビッグフィッシュ」のようにである。

 

結論

結論は出ないのだが、愛する人を失って(亡くして)哀傷に満ちた涙を流すのは、誰のためなのかは俺自身の視点でしか感じることができない。俺自身の感情だったり、ドキュメンタリー映画のカメラ目線で感じた印象でしか語れないものなのではないかと考えている。

そもそも、純粋に死者を悼む気持ちと自己憐憫の情を区別する意味があるのかも疑問である。おそらくどちらも入り混じった複雑な感情であり、千言万語を費やしても表現しえないからこそ、あらゆる表現の普遍的なテーマとなっているのだろう。

しかし、子供のころ、誰のために涙を流すのか疑問に思ったのと、利己的な涙は美しくないと感じたのは真実である。なぜそう感じたのかは結論がでないにしろ大切にしたい。

 

約2000文字 約二時間所要

特に目新しい発見も無いまま訳の分からない持論を展開し、最後にケムに巻いて終わっただけに過ぎない。

でも仕方がないのである。本当に考えたとおりのことを書いただけなので、結論もでないし、独りよがりになるのである。

こんな問いは、答えなど出す必要もない。ただ、一考する価値はある。どんなくだらないことであっても考えてみる。そうすると意外な発見がある場合がある。