文章練習

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ご近所とのお付き合い

実家の近所の家がいつの間にか更地になっていた。だいたい数か月後にはペンシル住宅が建ちはじめる。古くから住んでいた人が亡くなって、土地が転売業者の手に渡り建売物件として売り出される。

さらに数か月後には、マイホームを夢見る人が汗と涙と血を流して稼いだ金でローンを払いながら住みはじめるのである。数千万円の買い物である。ほとんどの人は一生で一番高い買い物だろう。本当に我が地元に骨を埋める覚悟はあるのか気になるところだ。

木造家屋が取り壊されて、近代的な住宅が建つ。その繰り返しだ。土地はあたかも一つの生命体のように新陳代謝している。停滞を許さないのだ。

そんなことを思いながら散歩をしていたら、間口いっぱいに半透明のビニール袋が土嚢のように積み上げられた家を目にした。以前は普通の家だったのだが、俺の知らない間にゴミ屋敷になっていたのである。3月の風が吹き生暖かい異臭が漂ってきた。左右隣りと向かいの家にとっては最悪な状態である。

ここに限らず、住宅地にはときおり変わった家がある。だいたいはボロボロで手入れがされておらず、植木も伸び放題になっている。ひどいとゴミが溢れ悪臭がしていて近寄りがたい。壁が張り紙や落書きだらけなのも見たことがある。張り紙の文面は極端に偏った主張だったり恨み辛みだったりと様々だ。

文面から、社会や世間、親族や近所の住人に、強い不信や不満があるのだろうと感じる。 きっと近所ではアンタッチャブルな存在として認識されていて、誰もが必要以上に関わらないのだろう。

ゴミ屋敷は、ほとんどが老人の一人暮らしである。いつか死ぬからそれまでの辛抱だ。周囲はそれくらいに捉えていて、まともに向き合う人はいないのかもしれない。

実家の近所の佇まいは、十年前と比べるとせせこましい。庭付き一戸建ての土地が数軒の狭小住宅になっている。北側がスッパリと傾斜した屋根の家が増え続けていて、似たような風景が続く。だが、微妙に少しずつ違いがあるのがミソである。仕上げや材質を変えて、それぞれの家がオリジナルティを主張してるのである。

人間ってのは厄介な生き物で、全く人と同じだと気分が悪いからである。完全な平等が嫌なんだなあと、つくづく思う。個性のない量産品と自分を重ねてしまうからかもしれない。自分は自分の中では特別だからである。

そういった人間の性を知ってか、特別仕様を提案して不必要に金を払わせるのも土地建物を扱う連中の手段である。

「人と同じのイヤなんすよ」「個性が大切なんで、他人とかぶらないようにお願いします」

そんなことを言っている人に限って個性的ではない。俺から言わせてもらうと、つまらない奴である。なるべくみんなと同じようにしようと努力しているのに、そうならないのが個性だと俺は思う。人と違うとかはどうでも良い。それより譲れないこだわりを大切にして欲しい。

そんなことを思索しながら散歩をしているだけで疲れてきた。

 

俺は疲れやすい。体力が無いのも原因だが、視界や耳からの情報過多による脳ミソのパンクが原因だと思っている。すこしのポジティブな刺激で十分幸せになれる燃費の良さもあるのだが、刺激が強すぎると疲労を覚える。楽しいけど疲れるので、ゆっくりしている時間が長いのである。

気分転換の散歩ですら、風景を観すぎると考えすぎて疲れる。足腰が弱っているのではなく頭が疲れる。

どうやら、俺はHSPってやつらしい。

ご近所同士のお付き合いが苦手なのだ。それなりにコミュニケーションはできるのだが、とにかく疲れるのである。

仕事の話でもなく、趣味の話でもなく、内容の無い噂話や悪口を聞くのが嫌なのである。

俺自身はマンション暮らしだが気楽でいい。引っ越しのときに上下左右の住人に挨拶しなくて良いと不動産屋からアドバイスを受けた。最近はどんな人が住んでいるのかお互い知らないほうが防犯上も良いとされているそうである。

昔なら、お届け物を預かったり、不審者に声掛けするなど隣同士で助け合ったものだが、今では誰が住んでるかも分らないから自分でなんとかするしかない。でも、そのほうが気楽だと思う。希薄化した社会を問題視する向きもあるが、煩わしい近所付き合いを回避したい人も多いのではないかと思っている。

同じ階の住人とはエレベーターで会ったら挨拶くらいはするが、ほとんど口をきかない。そういったドライな人間関係のほうが俺には合っている。コミュニケーションに割くリソースを最小限にできるからである。

濃厚な人間関係に興味がないのではなく、必要以上に関わると疲れるのでセーブするために、敢えて門戸を狭くしているのである。

ただでさえも活動できる時間が少ないのだから、なるべく無駄にエネルギーを消耗したくない。余計な事には近寄らず、敢えて見ないようにして刺激をシャットアウトしている。そういうところが他人から見ると、俺は気難しく他人に興味がないように映るようで人が寄ってこない。

最近は、それこそが俺を守る鎧のようなものだと思っている。お人好しは頼みを断れない。俺に話しかけるなオーラをだすのが生きやすさに繋がっているのである。

自分の機嫌をとるのが自分にとっても他人にとっても幸せだと言う人がいるが、不機嫌そうな雰囲気を出すのが自分の幸せに繋がっているというケースも考えられるのである。

お人好しは人間社会の発展に必要だと思っているし、俺はお人好しな性格に生まれて不満はない。しかし、他人の犠牲になり過ぎないように生きるには、ちょっとした工夫が必要なのである。

俺のようなタイプが精神を病まずに人生を送るには、感じが悪い人にならなくてはならないのである。

 

なので、近所に住んでる感じの悪いおっさんがいても、特にルール違反をしたり迷惑行為をしていないなら、どうか寛大な心で見守ってやって欲しいと願う。

 

2300文字 約二時間程度所要

全くなにも準備せず、いきなり書き始めた。日記のようなエッセイのような書き出しで、途中からなにが言いたいのか自分でも分からないまま書き進めた。

自分の頭の中をスッキリさせるには最適な作業である。

もう少し読ませる文章を書きたいが、まだまだ修行をはじめたばかり、上手くいかない。

試行錯誤をして、自分なりの文章を追求したい。