文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

SNSの不毛な議論はやめようぜ

思考が死んでる。

今日は何も書けない。寝不足がたたった。

昨晩、スマホのメモに思いついたことを書きなぐったのだが、粗が多く、このままコピペするのもいかがなものかと考える。

書けなくとも、とりあえず何か書く。それがきっかけになって、書けるかもしれないからだ。指を動かす訓練だと思えばいい。思考が死んでも、なにも考えないなんてことはない。その瞬間に思ったことを連ねるだけでも文章になるのである。

ただし、その文章に読む価値があるかどうかは別の話であるが。

 

そういえば、最近は死にたくなるほど嫌な思いをしていない。心が死んでしまうほどの強烈な刺激を受けていないのは精神にとってはありがたいことではあるが、モノを書こうとする衝動的な意欲が湧かないのである。

(現在の俺の環境だと、日常的な出来事でも十分な刺激がある。なので多感だった頃に戻ったらショック死するかもしれない)

とはいえである。反射的に嫌な思いをぶちまけたところで、電脳世界のどこかにクソを垂れ流すにすぎず、なんら生産的ではない。受けた刺激を消化する時間が必要なのである。内省を経た思索を言語化しようとする試みこそが文章に価値を生むのである。

 

ときどき、その試みをSNSで目にするたび、残念な気持ちになる。

彼らはこう主張する。

・「社会には格差があり不公平である。自分は恵まれていない(貧困、病気、差別など)。恵まれた人間は底辺を努力不足というが、普通のレベルになるだけでも恵まれた人の数倍努力しないとならない」。

・「思いやりが報われない」

筆者の苦悩や主張はわかる。俺もさんざん味わってきたからである。

彼らの主張は一般論やマクロな話ではなくパーソナルでミクロな話なので、データや定義付けされた慰めや反論は意味を持たない。ゆえに意見が噛み合わず平行線を辿る。

自分を基準にして語っているので主観的過ぎるのである。とはいえ、主語を大きく語るような話でもない。(われわれと言い出したら眉に唾をつけて話を聴く必要がある)

このような主張は本質的に正解とはいえない。正解である必要もない。その人からみた社会の真実であって、否定する必要もないし、かといって客観的事実を曲げて肯定する話でもない。

正解がないと主張する理由は、どうしようもないことだからである。

社会にマッチしていない環境や特性をもって生まれた、と結論づけるなら構造主義的だし、社会不適合者であっても生きている意味があると結論づけるなら実存主義的だからである。最終結論は自分で決めるしかないのである。他人は決めてくれないからだ。

そして結論は自分だけのものだ。他人を納得させるために議論を吹っ掛けるのは不毛である。(と思う。今の時点では)

なので、安易に結論づけることよりむしろ、さんざん遠回りして「自分はなんなのだ」と考え続ける過程が大切なのである。

その過程をブログなどに書くことで自身の精神が浄化されていく。それが目的でも良いのである。

 

なぜSNS等で理不尽に対して言及した書き込みを読むと残念な気持ちになるのか、言いたいことがまだ伝いきれていない。口が足りない印象である。もう少し粘って書いてみる。

なんというか、彼らの主張には感情的には理解できるのだが、意見そのものに同意できないのである。偏っているからである。そもそも同意する必要もない。それぞれ考え方が違うのは仕方がない。

彼らの感情に耳を傾けると、一般論で語るのは彼らの心情に寄り添っていないと理解できる。

たぶん、たいていの人から見るとどうでもいい、つまらない、くだらない文章で、そこまで深く考えている人間は少ない、と書き込む側も思っている。

意見を交わしたところで平行線になるのは分かっているのに、コメントするたびに攻撃的な文章になっていく。どうせ噛み合わないなら、お互いに思っていることを言い合うだけでよいのである。

自身の苦悩や苦労を理解して欲しいくせに、理解できるはずがないとも思う。天邪鬼なのである。なので、SNSで攻撃しあうのではなく、思ったことをお互い言い合うだけで十分なのである。

理不尽な社会に対する気持ちを綴った書き込みに、批判めいたことや正論で追い詰めるようなコメントをしないでやって欲しいなと思う。

約1700文字 約二時間所要

書き始めると、まあ書ける。

思考が死んでいるから文章も読み難い。相変わらずである。

とにかく習慣である。毎日続けるのが肝心である。