文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

生き辛さをかかえているのは普通である

さて。毎日恒例の、とりとめのない文章を垂れ流そうと思う。

 

小学生の頃の話を少ししたいと思う。

以前にも書いたが、小学三年生のころは担任教師との関係が最悪であった。もちろん先生にも至らないところはあったのだが、多くは俺に原因があった。たとえば、こんなことがあった。

新学期をむかえたある日のこと。学校からの配布物を母親に渡すと、興味なさげに目を通してから、今度の先生の字は下手だねぇとぽつりと言った。

当時、学校から家庭への連絡はわら半紙にガリ版印刷であった。当然手書きである。

先生の字は普通に読めるし、むしろ上手な気がしたのだが、大人からすると、まあ、そういうものなんだろうと受け止めた。

俺の通っていた学校では、給食の時間は班ごとに机を四人分向かい合わせにして、先生が日替わりで班にやってきて食事をとる方式であった。

俺の所属する班に先生がやってきた日のことである。いつものように食事をとりながら、全く深い考えもなく口から発した言葉が以下である。

「うちのお母さんが、先生の字が下手だっていっていたよ」

嘘は言っていない。確かに母親は言っていたのである。実際に字が下手かどうかはわからないし、俺は下手だとは思わないが、きっとそうなんだろう、くらいの軽い気持ちであった。言って誰が得をするとか全く考えていない。とにかく事実を言ったという信念だけはあった。

先生は、飲んでいた牛乳を吹きそうになって、こらえて呼吸を整えてからおもむろに答えた。

「そうか。お前のお母さん字が上手いからな、先生敵わないよ。もっと上手くなるように努力するよ」

今思えば大人の回答であった。当時の俺は、先生が母親に敬意を払ってくれたようで、自分のことのように誇らしくなった。

俺は感心して、家に帰るとさっそく親に経緯を伝えた。

「先生に、字が下手だってお母さんが言ってたよと話したら、上手くなるように努力するって言ってたよ」

それを聞いた親は怒った。

「あんたバカじゃないの!そんなことわざわざ言うものじゃないわよ、何考えてるの」

「でも、確かに言っていたよ。嘘は言っていない。人に言われたくないのなら口止めしてくれればいいのに」

このようなやり取りを経て、口止めされていなくても他人に言ってはいけないことがあると学んだ。

問題は、どれが言ってはいけないのか区別がつかないことだ。そう言うと、なんでそんなことぐらい判断つかないんだ、言われた人がどう思うとか考えれば分るでしょうと、さらに怒られる羽目になったので、なんとなくわかると誤魔化して話を打ち切った。

 

俺が子供時代の話をすると、もしかしたら君は発達障害ではないかと言われるようになった。発達障害は恥ずかしいことではないし、周囲が理解し配慮するべきだと言う人もいる。

俺は、発達障害だという指摘に対し、だとしたら何?といいたい。

俺自身は、障害がある人のことを、なるべく理解して配慮したいと思っている。しかし、障害を理解しろと押し付けるのは間違っていると思うのである。

障碍者(なぜかこの変換になる)のことを理解する気もないし、なるべく関わり合いたくないと考える権利もあると思うのである。

明らかな悪意をもって関わってくるのは別として、無関心だったり、避ける行為まで批判するのはやりすぎだと思うのである。

俺は仮に障碍者だったとしても、基本的に他人に配慮されなくても仕方がないと諦めている。他人から、私は障碍者だから配慮しろと押し付けられるのも嫌だからである。

とはいえ、ある程度目に見えて分かりやすい障害だと、社会全体に配慮されるのが普通である。

俺は自分自身が障碍者と言えるほどのレベルではないと思っているので、人に配慮されると心が痛む。居心地が悪いし、どことなく見下されたようにも感じる。

勝手に障害があると決めつけられて配慮されたくないのである。

 

なんらかの障害をもっていたり特殊な経験をした人が、のちに体験を伝えて世の中に貢献している姿をみて励まされるとか素晴らしいという人がいる。

自分自身も他の何かで苦しい思いをしたからこそ、内容は違えど共感できると思う人と、自分より不利な状況の人をみて、ああでなくて良かったという前提で「勇気をもらった」とか言っている人がいる。

後者の人からは自分より劣った存在がハンデを乗り越えて頑張っているみたいな解釈をしているようで、障碍者を見下しているような態度を感じる。

俺はそこまで特殊な経験をしていないので、他人に感動を与えるような活動はとてもじゃないが無理である。

そこまで突き抜けていたら人に話す価値もあろうが、俺の体験など微妙すぎて聞いているほうも眠たくなってくるであろう。それは子供のころから自覚していたので、話題性を持たせるのと同情を買うためにエピソードを盛って人に話していた。

こちらの落ち度は隠して、酷い目にあった話をするのである。話すほど整合性がとれなくなるので修正しながら話すのだが、おかしい部分を周りにツッコまれて最終的には「なぜこうしなかった」「それならこうしたらよかった」と責められ、自分が悪かったと結論付けられるので、体験談を話す気はなくなったのである。

自分がどれだけ可哀そうかを他人に理解させるのは難しいしその必要もない。なのに、なんでそんな愚かな行為をするのかといえば、お前らより苦労してたんだと一発かましておきたいような気になるからである。

世の中にはもっと大変な人がいるのだから甘えたこと言ってはいけないよ、とか、お前の苦労など私からすれば全然大したことがない、などと言われるうちに、俺ごときの辛かったことを話しても受け止めてくれる人はいないんだなと理解するようになった。

なので、こうしたエピソードを取り上げるときは、自分以外の人物の非難を避けてなるべくフラットな記述になるよう心掛けている。

 

こういう考えを書き留めるのが恥ずかしいと思うのは昔からであるが、とくに小学三年の作文事件がウエイトを占めているように思う。それまでは割と作文で褒められていたからである。

人に話すのはさらに苦手である。うざがられそうだからだ。誰も俺になど興味はない。ただ、俺の行動や発言にツッコミどころが多くてネタとしては面白がっている奴は常にいた。

同級生であっても上下関係があり、精神的カーストで俺は最下層だったかもしれない。

笑いを提供しているのだが、笑わせるのではなく、笑われているのである。自分を下げて笑われて、傷つきながらも人と関われているので安心するのである。

インテリぶっているように思われたくなかった。恥ずかしく罪悪感がある。なにかと理屈をこねるとか、子供らしくない話し方で生意気だと大人に言われていたからである。

だから、本当は興味がある歴史や文学などの分野に興味ないフリをしていた。とはいえみんな大好きな野球には興味がないので、周りからは何が好きなのかわからない奴だとか、本ばかり読んでる奴とか思われていたと思う。

そんな環境だったから、話しがあう友人はほとんどできなかった。友達などいらないと思っていた。

本で学んだことを話すと難しい言葉を使うなと言われるから、なるべく平易な言葉やバカっぽい言葉を選んで、思考停止しているようにふるまっていたら、本当にそうなってしまったのである。

だから、いま、少しでも時間を取り戻したいくて、こうして書いているのである。

 

ここまで約3000字

所要一時間半~二時間くらい

実は、ヒマをみてコツコツと思ったことをメモしている。メモを参照しながら話題を膨らませている。推敲はしたくないのだが、さすがにまとまりが悪すぎるのでしている。

しかし、最低限である。文面がおかしい、意味が伝わりにくい部分のみざっと直している。文章の質そのものをじっくりと向上させるのは、あまりにも苦行すぎるのである。

こうして書いているうちに、じょじょに向上していけばいい。

どちらかといえば、文章のスタイルそのものが、もう少し分かりやすく軽妙洒脱になればよいなとは思っている。カチカチのストロングスタイルの文章も良いのだが、遊び心も欲しいのである。これはテクニックというより性格の問題化もしれない。