文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

誹謗中傷されるのが嫌なら発信するのをやめればいいというのは思考停止である

誹謗中傷されるのが嫌なら発信するのをやめればいいと言うのは思考停止である。
 
それは生きているのが辛いと言っている人に、「なら死ねば?」と言うようなものだ。
 
前向きな批判ですら、傷付かずに受け止めるのに努力を要する。ましてや、根も葉もない、貶めるためだけの意見を目にすると、自分の存在を自分自身を否定されているのが可視化されていると思い込んでしまう。
 
周りが敵だらけだし、擁護してくれる人がいても、いつのまにか勝手に、こちらの意図に反して争いを始める。
 
強い線引きを持つ心
どこまでが自己の発信において責任を持つべきか。ある結果に対して、どこまで責任を負うべきか。誹謗中傷に対して、どこまでが反省しなくてはならない範囲で、どこからは反応しなくても良いのか?
 
当事者以外からの反論に対しては、外野は黙っていろと思い、正直な気持ちを言うと真摯に対応したくない。むしろクレーマーというか、ここぞとばかりに叩きに来た奴にしか見えないので排除したくなる。人間にはそういう面がある。
叩く者は自分が安全な位置にいる、つまり当事者ではないから楽しいのである。匿名で透明な存在として、娯楽として、自己主張する。
煽り立てたり、煽られてますます火力は上がり、煙は高く登る。それを見た者は、ただの好奇心と自分の中の安っぽい正義感だけで他者を切り捨てる。
多数の中にいると自分が完全な正義であり、叩かれているのは完全な悪なのだから叩かれるのは当たり前だと思う。まさに正義の鉄槌である。
 
燃やす(火種に酸素を送り込み燃え上がらせる)
叩く(正義の鉄槌)
 
この二つの行為には相似点がある。行為者は、その瞬間どちらも心地が良い。破壊的である。悪しき者を一度壊し再生させる。魔女裁判の火あぶり、魔女への鉄槌。
その場の雰囲気、一種の集団ヒステリー状態。これがSNS上で起きている。
炎上し、叩かれているのは魔女裁判の魔女のようなものだ。
 
感度の違い
親切心からの注意でも、相手は人格否定と受け取るかもしれない。叩く側は、その発信が気に入らないというだけで、理論ではなく感情だけで叩く。しかしその批判は、論理のマントで覆われているので一見反論し難い。
受け取り方が人それぞれなので、明確な定義や線引きもなく、お互いが主観で話すから噛み合っていないのにもかかわらず、罵詈雑言だけは与えて受ける形になる。
 
どちらかが論理破綻したことに気がついた瞬間、話をすり替える。議論を真面目にするのではなく、勝った負けたが大切なので、論理を曲げる。力関係がモノを言う。無理が通れば道理が引っ込むのである。
 
建設的な話し合いは難しい
多数の人に叩かれると、自分が悪い、おかしいかもと考える人もいる。一方でブレない人もいる。ブレない強さは、ときには迷惑でしかない。とはいえ、自分自身に不信感を持つのは精神衛生上よろしくない。
 
理解しようと思う心と、理解させてやろうと思う心
理解する側にその準備ができていないと理解はできないし、理解させてやろうと上から目線で考える者は、相手を理解しようとは考えていない。極論であっても、そう考えるバックグラウンドがある。それを推し量るのが度量である。
 
理解するほど、考えはブレるかもしれない。相手にもそれなりの理由や考えがあって、そう言っている。それがわかってしまうと心の底から非難が出来なくなる。理解が出来ないにしても尊重の意思が発生するからである。
だから、自分のことと置き換え、立場を入れ替えて考えられる人は常に苦しむのである。
しかし、思考停止し、ただ自分の考えはこうだからと決め付ける薄っぺらさよりはマシである。思考停止するくらいなら苦しんだほうが百倍、いや1万倍いい。
 
他人の意見は間違っていると一瞬で切り捨てるから、脊髄反射で反応してしまうのである。
他者を理解し尊重する姿勢と、他人事ではなく自分ごとだと思うこと。
その意識が、送信ボタンを押す前に文章を見直す、あるいは取り消すことにはならないだろうか。
ネット炎上は対岸の火事ではないのである。
 
 
今日は記事を書く時間が取れないので、去年の6月13日に書いてEvernoteにぶちこんだ文章を流用した。間違いなく俺の文章だと思うが、もし他人の文章のコピペだとしたら猛省のうえ消去する次第である。
ネットリテラシーの欠如について言及した記事である。まあ、よく見かける内容ですな。なぜに今さらこんな文章を書いたのか。思い出すまま書くと、ある某Q&Aサイトを閲覧していたらコメント欄が不愉快な書き込みで荒れていたので、思わず勢いで書いたような気がする。たとえ他人に対して向けられていると認識していても、辛辣なメッセージは心を傷つけるのである。
言葉は火と同様に、取り扱いには注意が必要なのである。
 
俺の興味分野、つまり書きたいことは、正義や格差についてである。
よって、考えのカテゴリーの記事は今後もこんな文章ばかりになる予定である。
たいていの人にはまったく用のないブログだと思うが、今回はわりとポピュラーなテーマなので検索で来て記事を読んだ人にはお気の毒だったと思う次第である。
 
ここまで2000文字 コピペと加筆合わせても30分くらい。そのうち、うんこしていた時間を除くと実質20分くらい所要。
 
文章を書くのは、書きたい感情が高まっているときが一番捗る。しかし、そういうシチュエーションだと文章が支離滅裂だったりヤバイ言葉を含んでいたりする。なので、書いた記事は保存して、しばらく寝かせておいてから推敲するのがよいのだが、はたしてそれで文章練習になるのだろうか。
自分の頭の中にあることを具現化するための表現として文章を書くのなら、やはり即興こそが筋なのか。悩む。