文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

いじめ問題について考えてみた

思考を彷徨わせ、駄文を書き連ねよう。

さて、今回のテーマはいじめである。

書く理由は、普遍的なテーマだし、ここ最近思うことあり、考えてみたくなったタイミングが今だからである。

論文ではないので、あちこちに思考が飛ぶ。まとまりもなく、論理的でもなく、結論も出ないかもしれない。だが、とにかく考えて文章にする。それが目的である。

 

俺自身は酷いいじめを受けていないし、したこともない。とはいえ、今思うといじめだったなと思う出来事はあるし、俺自身に自覚がないだけでいじめたかもしれない。

今後は気になるワードがあっても、敢えて定義せず感覚で書く。

 

道徳~自分がされたら嫌なことを他人にもしない

たいていの人間は、自分がされたら嫌なことは他人にしてはいけないと教わる。

道徳の話をはじめると話が長くなるし、それは今回論じたい内容ではないので手短にすませる。社会契約説をもちだすまでもなく、自分自身の権利を守るために他人の権利も尊重するのが道徳の要旨である。相当の悪人でも殺人は躊躇するし、たいていの人は盗みや暴力であっても忌避する。殺人、盗み、傷害は普遍的にやってはいけないことと認識されている。

しかし、それ以外の道徳は社会構造によって違い多様性がある。これがポイントである。

いじめの原因~ 俺たちと奴ら

様々な要因が入り組んでいるのでいじめの原因を特定できないが、一つの理由として分断がある。

我々人間には、俺たちと奴ら、つまり自分の属する集団と、それ以外の集団とに分断する性質がある。

俺たち(仲間)には危害を加えない。奴ら(敵)には危害を加えてもいい。

危害を加えていい連中には、どこまでならしてもいいか。それは社会構造や今までの経験から生み出される価値観によって決定する。

例を挙げると、盗みはやってはいけないが人を泣かせて悪どく稼いでる金持ちからなら許されるとか、暴力は許されないがレイプ魔ならちんこをちょん切っても許されるといった考えである。

ここで大切なのは、俺たちと奴らの範囲である。どこまで仲間と判断し、どこから奴らと見做すかが曖昧なのである。範囲が人それぞれであり、非常に狭い場合もあるし、寛大な場合もある。そして、この範囲が広いほどいじめは発生しない。

 

傍観者はいじめに参加していると見做してもいいのか。

傍観者の心情は、危害を加えられたくないから仲間だと見做されたい。奴ら側だと見做されたくない。傍観者は、勢力の強い側から奴ら側だと見做されるのを恐れている。

とはいえ、積極的にいじめに参加したいわけでもない。日和見主義的な考えであり、奴ら側からも恨まれたくないし内心同情しなくもないが巻き込まれるのは勘弁だと思っている。

 

いじめられる奴は悪いのか

外観や経験、その集団のマイナーな道徳を共有していない、通じない存在がいじめられやすい。簡単にいえば、集団からはみ出している変な奴、理解できない存在である。

性格的には、お人好しで弱みを見せる、つまりなめられやすいタイプである。

あるいは、嫌な奴やステータスが高い人物もいじめに遭いやすい。

後述するが、いじめには制裁型と気慰み型がある。制裁型の場合、制裁理由が理不尽であってもその集団内においてはいじめられる奴に問題があると見做される。簡単に言えば、みにくいアヒル子がいじめられる理由と同じである。

白鳥の群れにいればいじめられないで済むはずが、アヒルの群れでは異分子として排除の対象になったのである。

 

 

不文律がわからないといじめられる

その社会の構造で共通している明文化されていない特有の道徳を不文律とする。

集団内の不文律を見抜く能力がある、さらに言えば不文律を作り出す才能があると上手に仲間内でやっていける。しかし、不文律を見抜けないと周囲から敵認定されてしまう。

新人の分際であいさつがなかった程度のことで集団無視したりカバンを隠したりするのである。

これは敏感だから見抜けるとか、注意力が高ければ見抜けるものではない。適応力の問題である。不文律をものにできないと、まるでルールの分からないゲームに参加させられているような気分になる。

不文律はパターン認識能力でも探れるが、人生中盤にならないと大量のデータが揃わないのが欠点である。

社会で生活するうえで不文律を知るのは大切だが、知る過程は人それぞれなのである。

 

人間には「悲惨な状況を面白いと思う」習性があるのではないかと疑っている

いじめの仕組みを考察しても解決には至らない気がするのである。議論して、ソリューションを提案してもその通りにうまくいくとは思えないのである。

なぜなら、人間の本能が多分に悲惨な状況を面白いと思うからである。

幼稚なことから下世話なことまで人間は遊び感覚で酷いことをする。

子供は虫の足をちぎって遊ぶ。虫から手足がなくなって胴体だけになったらどうなるだろうと考えると面白いからである。

調子に乗っていた芸能人がスキャンダルで全てを失い記者会見で呆然としている姿をみるとざまあみろとネットにボロクソ書き込む人がいる。面白いからである。

拷問は痛がるリアクションが面白い。手を下すと反応があり、それからどうなるのか好奇心をかきたてるのである。

集団無視をしたらどうなるだろう。皆の前で土下座させて辱めを与えたらどんな反応するだろう。いじめのアイデアを練って悲惨な結末を迎えたときのリアクションを想像すると面白くてたまらないのである。

辛い、楽しくない、苦しい、そのような悲惨な状況を味わっているのがどうでもいい奴であれば面白いと感じるのが人間である。

人は、自分と違う、こいつは仲間じゃないと考えた対象には残酷になれるのである。

一方、仲間だと思う存在には、可哀そうだと思うし助けようと思うのである。

 

人間には集団から異分子を排除しようとする習性がある

人間は社会性を持つ動物なので、社会の秩序維持のために危険分子や弱者を排除しようとする習性があるのではないかと疑っている。

ヤバイ奴がいる。危険な人物は集団から排除しなくては、いつ寝首をかかれるかわからない。寄生する奴は排除しよう。タダ乗りは許さないのである。

その集団においては危険分子やフリーライダーは敵だから、いじめをしても許される空気がある。むしろ集団に貢献していると認識されるので、罪悪感どころか正義感をもっていじめるのである。これがいじめられる奴が悪いという理屈である。

 

仲間という語~もっと適切な呼び方はないだろうか

先ほどから、「集団」とか「仲間」という語を多用している。はじめに定義付けを行わずに感覚で書くと宣言したが、そろそろ適切なワードがないか考えてみたいと思っている。

さらに、今後の主張したい論理が理論的にやや破綻していて、どうしても整然としない箇所があるので、これからは文章がよりカオスになるのを予め宣言する。

 

いじめられている人は集団に受け入れてほしいと願っている

いじめられている人には、自分が悪いからいじめられると考えるタイプと、周囲全てが悪いと考えるタイプの二つがある。 

みんなに嫌われるのは自分が悪いからだと考えるタイプの人たちは、自己犠牲して集団に貢献し仲間に入れてもらおうと考える。

周囲の気分を害さないように気に入らなくてもヘラヘラ笑うなど不当な扱いをされても受け入れようと努力する。それがいじめられっ子気質ととらえられるのだが、根本的には集団に同化して、いじめられない存在になろうとしているのである。それを理解するのが大切なのである。

自分が弱いからいじめられると考えるタイプの人は、弱いなら弱いなりに生き延びる手段として集団に同化するために努力する。あるいは認知的不協和によって自ら忠誠を誓う。

周囲が悪いと考えるタイプの人は、自分の力しか信じない。いじめる奴にやり返したいが実力的に敵わないなら、より弱い奴をいじめるなど別に矛先が向かう。あるいは自分の実力を高めたり、いじめる奴を陥れようとする。相手がその気ならこちらもとことんやろうと考える。暴力に対してさらに上回る暴力で対抗しようとする。

感覚的にはどちらかに振り切れているのではなく二つが混じり合った感情だが、個性によっていじけるタイプかやり返すタイプかの優位が決定する。

 

いじめられている人は、本来なら仲間のはずの自分に対して集団が仲間扱いをしてくれないから傷ついている。受け入れてもらえないから不満、不安を抱えている。

仲間に裏切られたと感じた経験は誰しもあるだろう。そいつが自分を仲間扱いしているフリをしてたと悟ったときに「裏切られた」と思うのである。

その不満と不安を解消するための行動が人によって違うし、傍から見ていて行動が合理的ではなく、自分からいじめられに行ってるようにみえるからである。

それは理解できるのだが、「ヘラヘラしてっからいじめられるんだよ」などといった見当はずれのアドバイスを提案しても本質とかけ離れているため、いじめ問題は解決しないのである。

仲間の範囲と格付け

あくまでも観測者の主観によるが、その集団において、自身が仲間と認識する人の範囲を水平方向に、格を垂直方向にグラフにとると、なんとなく仲間の位置付けができそうだ。

中学生が観測者なら、喧嘩が強い奴は集団の中での格が高い。しかしヤな奴だと仲間の範囲外なので、いざそいつが困っても助けない。弱っているときなら制裁的いじめをするかもしれない。

お人よしな奴は範囲的には仲間と認識しているが、自分より格下だと思ってなめた態度をとるかもしれない。ちょっとした遊び感覚程度ならいじめるかもしれない。しかし、制裁的ないじめはしない。

 

結論

いじめには自分を軸とした格の上下の相対的判断があって、いじめる相手の範囲といじめの強度や種類を使い分けているのではないかと考える。

いじめられる側には、本来ならあってはならない理不尽ないじめられる原因があって、それは人間の本能に関わっている。

いじめには、制裁型と気慰み型がある。制裁は集団の異分子排除、気慰み型は遊びのためのいじめである。胸がすっとするのが制裁型、悲惨な状況が面白いのが気慰み型である。

いじめられる人には、集団に受け入れられなかった事実に傷つき、集団の仲間に入れてもらえなかった不満と不安がある。

いじめられる原因は自分にあると考え、集団に受け入れてもらおうと努力するタイプは誤解されやすい。

考えられる解決策は、学校の道徳の時間でいじめの理論を教える。具体的には格をフラットに見るようにし、範囲のとりかたを広く取れるように啓蒙するのである。

だが、これは難しいと思う。いじめは社会性のある動物の性だからである。

自分の中で理論立てて、どのように立ち回るべきか考え、落としどころを探るしかないかなと俺自身は思っている。

 

 

 

ここまで約4000文字、2時間20分程度。書くのがかなり早くなった。1時間2000文字である。俺スゲー。

もちろん推敲も校正もしていないので、このまま仕上がったとするのは無理がある。

思弁的な割に、論理展開に無理がある。かといって経験的でもない。

考えながら書いたので、すっきりした。俺の練習用ブログなので内容など何でもよいのである。