いじめで暴力をふるうタイプはどんな人か
今日も思いつくままキーボードをカタカタしよう。
このブログの考えをハッキリと宣言しておこう。
きちんとした結論を出す必要もないし、根拠を示す必要性もない。言いたい放題のブログである。
デマを拡散するつもりは一切ない。このブログの記事をどう捉えるかは読者のあなた次第である。
思索を文章としてアウトプットするのが目的だから、文章の内容については最低限の刑事的、民事的な責任は持つが、正確さについては保証しない。以上ご承諾のうえ閲覧願いたい。
今回考えるのはいじめの暴力である。
前回にもいじめについて考えたが、いじめといっても色々ある。今日考えたいのは、全員でシカトするとか物を隠すというレベルではなく、暴力について考えてみる。
暴力を受ける。心身ともに苦痛である。暴力を受けた体の痛みでめそめそするのではない。屈辱で泣くのである。
暴力を振るうタイプ
いじめで暴力というと、大したことのないような気がする人も少なくない。しかし、暴力とはプリミティブなパワーであり、ある程度成熟した現代の社会においては安易な行使を許されないのである。暴力は犯罪である。ただ、「いじめ」においては暴力が影で行われることが多く、顕在化しにくいため対処が難しいのである。
人をぶん殴ったら警察に捕まって刑務所に入るかもしれない。殴った相手の身内から復讐されるかもしれない。暴力を振るう前に、そこまで考えて欲しいものである。
自分の行動が暴力だと気がついていない人もいる。早く気がつかないと身を滅ぼす原因となる。
いじめで暴力を振るうタイプは大きく分けて二種類である。
軽い知的障害があるタイプ
頭は切れるが懲りないタイプ
前者は後先考える想像力がない結果、恐怖心が少ないタイプだと考えられる。なぜなら、喧嘩を吹っ掛ける相手の能力を把握するまえに殴りかかるからである。
自分より喧嘩が強い相手だったら返り討ちに合うかもしれない。その想像ができないのである。
相手が強くて皆の前で無様に敗北したら、他の連中にナメられてしまうリスクがある。
そいつがとんでもない悪党だったら、誰も見ていない場所なら有り金全部奪われた挙句に殺されるかもしれない。物事を深く考える慎重な人間だったら、そこまで考えるだろう。
だから、普通はムカついたくらいで他人を殴らない。リスクがあるからだ。
考えるより先に手が出るのは、ムカつきを解消するには殴るのがシンプルな解決方法だからだし、殴ったらどうなるのかを想像できないからである。
気に入らない奴や弱そうな奴をぶん殴ると泣くのが面白いしスッキリする。
深く考えずにぶん殴るから、その場の勢いで勝つことが多い。一種のハッタリである。上手くいくうちに、ひょっとして俺は喧嘩が強いのではと勘違いして、そのように振舞うようになる。
たまに、ぶん殴る相手を間違えて返り討ちにある場合もある。強い相手に何度も負けると服従するようになる。彼らは、ハッタリの通用しないガチで強い相手には頭を押さえつけられる傾向がある。
以前本で読んだが、暴力で少年院に入った少年を調べたら軽度の知的障害がある人が多いそうである。とりあえず揉めたらぶん殴る。ムカついたらぶん殴る。金が欲しければ暴力で脅かす。それで割と問題が解決するから、深く考えたりせず暴力で物事を解決する方法に慣れてしまったのではないだろうか。
一方で、後者のように頭が切れるが、懲りずに暴力トラブルを起こす者もいる。
知的な問題はないのに同じ失敗を繰り返すのである。
その現象を説明するのにぴったりな、とんでもないワルが主人公の漫画がある。梶原一騎原作の「人間凶器」という漫画である。
主人公は暴力で人を支配しようとするが、より強い者にやられてしまう。
ならば権謀術数をもって勝とうとするが、それでもやられてしまう。
上には上がいるのである。
全ての人間は利己的だ、だから自利を貫くには最強でなければならないというのが主人公の持論である。
主人公は年少あがりのチンピラなのだが、悪魔のように頭が切れ、数か国語を自在に操り次々と犯罪を計画し実行する。さらにイケメンで巨根の持ち主でスケコマシの才能があり、そして最も重要なのは空手の達人なのである。
頭脳、色、強さの全てを併せ持ったスーパーマンなのである。
だが、邪悪な心を持っているが故に敵が多い。古巣の空手団体、ヤクザ、マフィア、FBIから狙われ続け、世界を転々とする。単行本一巻につき一回は殺される一歩手前まで追い詰められて恐怖のあまりションベンを漏らすシーンがあるほどだ。
人間凶器は敵の強さを客観的に把握できている。だから強い敵とはまともに戦わない。罠を仕掛けるなど卑怯な手を使う。自分がやられるはずがないと根拠なく信じるタイプではないのである。
それでも毎回死にそうな目にあうのは、彼が懲りないからである。頭の悪さとは違う、ネガティブな予想力のなさからくる恐怖心の無さである。彼は幾度となく危ない橋を渡る。状況がリアルにヤバくなってくるまで、恐怖心が全くないのである。
脳の偏桃体とか前頭葉とかの話になると、そもそも俺は専門家ではないし、深い理解をしていない。なので、学術的な根拠を示すものは何一つないが、ネガティブな予想力のなさからくる制裁への恐怖心の無さがいじめで暴力を振るう人間の傾向に見られると指摘しておく。
余談だが、とび職や大工など高所で作業する職人たちは、ある程度高所に恐怖心があるほうが向いているそうである。
高所に恐怖心が全くないと無理な作業をして落下事故を起こすからである。
適度なビビりが入ってこそ、安全なのである。
約2200文字 二時間半所要
書きたいことの半分も書いていないが、ここで止めておく。
また何度か書いてみたいテーマではある。いじめについて学術的な研究をしているわけでも、テーマに関する著作を読んだわけでもないので見当外れな内容かもしれないし、一部差別的な表現もあり、マズイかなと考えつつもアップした。
暴力だけは許せない。無視や物を隠すのも論外だが、まだかわいいものである。
人間の尊厳を奪う野蛮な行為である。
なにも考えてないヤンキーは行動力がある。考えすぎるタイプは暴力のリスクを考えるから安易に暴力を振るわない。たとえ喧嘩が強かったとしてもである。
どうも社会では、行動力があるほうが上だとか、深く考えすぎるより動け的な意見が多い。ヤンキーは社会に出ると通用するとか、うじうじ悩んでるだけで行動できないからいじめられるなど、適当なことを言っている人が多いなと思うのである。
とにかく敵に味方の兵士をぶつける。勝ち負けは時の運だ。運よく何度か勝つと出世する。それでも運が悪いとやられてしまう。確かに考えても仕方がない場合もあって、そんなときは運を天に任せるしかない。
だが、時の運に全てを委ね、自力で考えないのはアホである。行動力の高さはメリットだけではないのである。
面白かった話を面白く伝えるのは難しい
昨日の続きである。
「それの何が面白いの?」が恐ろしいのである。
オチもなければ笑いどころもない。ないない尽くしの文章を読んでくれる人などいない。読んでいる最中に止めてしまうだろう。つまらないと言われたり、批判されるのが不安なのである。
だから、自虐ネタを採り入れてでも笑いを取ろうと必死になったり、批判されるのを恐れるあまり理路整然とした説教臭い話をするのである。
悶々と過ごすうちに、どうせ俺なんて異常な感性の持ち主だから、面白いと思った話なんて誰にも理解してもらえないと諦めるようになるのである。
小学生のころ、面白かったなと感じた事件を作文にしたことがある。どんな話かは想像に任せるが、ある公園での大したことのない子供同士の遊びである。
皆の前で朗読したのだが、先生を含めた全員の反応に深く傷ついた。
「お、おう」
「そ、そうか」
「で?意味わからん」
ストレートな質問もあった。
「それのなにが面白かったの?」
答えられなかった。いや、答えたくなかった。どこがどう面白いかを説明するのは負けた気がするからである。解説をするほど意味がわからない可能性もある。
「い、いや、俺は面白い話だと思って」
「どこがだよ。それを言ってみろって」
そのときのやり取りを誰もが知っている状況に喩えるなら、田代まさしが「ミニにタコ」と苦しい弁明をしていたのに似ている。本当にお前大丈夫か?みたいな。
その場にいた誰もが俺の作文を理解できないということは、みんなの理解力が乏しいのではなく自分の感覚の問題だということが状況から明らかになったのである。だが、未熟だった俺は、素直に受け入れるだけの余裕がなかった。周囲の責任にしたのである。
もしかしたら、先生も一緒に全員でぐるになって俺をもてあそんでいるのかもしれない。なぜここまでバカにされなければならないんだ。そう考えたのである。
爪が白むほど握りしめた拳が震えていた。心臓がはち切れそうだ。今にも破れそうなほど強く噛んだ下唇を開いて言った。
「もういいです。僕が悪かったです。訳わからない作文書いてごめんなさい」
今すぐに作文用紙を破り捨てたかった。ぐしゃぐしゃにびりびりにしてやりたかった。
涙だけは見られるわけにはいかない。俺は便所にダッシュした。
というような事件が過去にあったのである。
今思えば、みんなはなにが面白いのかが分からないからナチュラルに質問していただけなのだが、子供だった俺は、そう受け取れなかったのである。
俺は神経質傾向である。以前ほどパニックには陥らないものの、今でも他人の反応をネガティブに受け取ってしまう。
不快な思いをしたくないので、つい書くのをためらってしまうのである。
ひとつ、ここで自分の中で面白かった話をする。面白いというのは笑えるという意味だけでなく、興味をそそられたとか、感情を動かされたという意味ととらえていただきたい。
端的に言えば、いとをかし、もののあはれと同じ意である。
だいぶ前に妻と遊園地に行った時の話である。
遊園地駅前の通りを散策したら、昭和の時代にタイムスリップしたような雰囲気のある喫茶店を発見した。朽ち果てた薄汚い軒先に古びた扉。中が判らないほど薄暗い店内に興味を引かれ、ええいままよと勢いで入店したのである。
早い時間なのに客席を見ると先客がいた。
入口の前のカウンターには年代物のレジスターのような機械があり、この店のさらに倍は生きていそうな年配の男が座っていた。
インベーダーゲームの筐体がテーブル席になっている。まさに40数年まえの喫茶店の赴きである。壁には芸能人のサインが所狭しと貼ってある。
遊ぶ前に軽食とお茶でも腹に入れておこうと入ったところが、すげえ店を発掘したものだとこの時点で笑いが込み上げてきた。
メニューをみると食事が充実していた。
もしかして、喫茶店ではなくレストランだったのかと気がつく。そのときは看板がボロすぎて把握していなかったのである。
ホットコーヒーとナポリタンにしておくか。
注文を伝えると、入口に居たおじいさんが皺だらけの顔で言った。
「うちはカレーがおすすめなんですよ。手作りで毎日何時間も煮込んでるんですよ」
「カレーが美味いんですか。でも残念です。昨日我が家はカレーだったんですよ」
事実、昨日はカレーだったから、まったくカレーの線は考えていなかったのである。
店主は俺の話を聴こえていなかったのか、そのふりをしているのか、こう言った。
「うちはカレーが自慢なんですよ。うちに来てカレーを食べないなんて、もったいないですよ」
お、おう。
「ではカレーとコーヒーを二人前お願いします」
ここまで言われると気になるものである。ナポリタンを注文してもカレーが運ばれてきそうな雰囲気ですらある。おとなしく従ったほうが身のためかもしれない。むしろ店主の言うがままに合わせ、対話を楽しむべきな気すらしたのである。
Dr.スランプという漫画で作者(ガスマスクを装着したロボットみたいな姿)が木緑あかねの家族が経営する喫茶店に入ってコーヒーを注文したら、もっと高いのを頼めよと脅され、カツカレーを注文したらスプーンを渡されなくて「あの、スプーンは」と尋ねたら「ねえよ」と軽く一蹴されて犬食いするエピソードがあったのを思い出す。
いつの間にか、この呆れるほど昭和の匂いを残したままの喫茶店を守りたいという義務感にすら目覚めてきたのである。この空間に存在する一種独特の雰囲気に当てられてしまったのかもしれない。
カレーが運ばれてきた。ついさっきまで眼中になかった人が、実は長年恋焦がれた相手だったかのような錯覚を覚えるほどの感動をどう伝えたらいいのか考えながらスプーンをカレーの海に沈める。
店主に聴こえるように大きい声で妻に語りかけながら、俺はカレーがどれだけ美味いかを伝えた。
わかってもらえたであろうか。
カレーがかぶっているのにゴリ押ししてくる店主と、言われたまま従う自分。
無理にカレーを頼んだのではなく、やりとりを面白がっているのである。
さらに店の怪しい雰囲気が個性的で、それが滑稽さを助長しているのである。
別にオチがあるわけでも発見があるわけでもないが、敢えて言えば面白い場所を見つけてしまって、しかも、カレーが被るという偶然の連続性と、他の注文を無視し昨日もカレーだったのも無視し、ひたすらカレーを推してくる店主のキャラクターが面白いのである。
筆力があれば、この話を面白おかしく語れるだろうが、俺の実力ではとても無理である。
このニュアンスを受ける力。つまり感受性が豊かな人にならわかってもらえるような気がするし、そう信じるのである。だから、わかってもらえないと悲しいし、自分が悪いのだと思ってしまう。
読み手の感受性に頼るのは甘えなのか。より洗練した文章を書けば、伝える力は強まるのだろうか。事実を伝えるだけの問題ではなく、書き手としてはニュアンスというか、そのときに書き手が感じたことを読み手に追体験して欲しいわけで、そこに意味を求めるのは間違っているような気もするのである。
約2700文字 約3時間所要
1時間だいたい1000文字弱である。作文用紙2枚半。練って書くと、さらに時間を要する。上手い文章をさらっと書けるようになるには道は険しい。
ましてや、寿命が尽きる前に、書いた文章が人の胸を打つようになるとは到底思えないのである。
「それの何がいいの?」と言われるのが恐いから、尤もらしい理屈をこねるのである
具合が悪い。
書きたいことはあるのだが、書く時間も気力もない。
メモ書きだけして今晩は寝る。
お昼に呆けていたら突然理解したのである。
俺がやりたいのは、持論を展開し読者を説き伏せることではない。
ただ単に、心に刻まれた出来事を表現したいだけなのだと。
理屈をこねくり回すのは、要するに自分の感覚に自信がないだけなのだ。
「それの何がいいの?」と言われるのが恐い。
だから、尤もらしい理由と結論を後付けするのである。
理路整然としていないと突っ込まれそうで恐ろしいのである。
200文字 15分程度所要
明日以降に頑張って書く。今晩は体調不良なので仕方がない。
SNSの不毛な議論はやめようぜ
思考が死んでる。
今日は何も書けない。寝不足がたたった。
昨晩、スマホのメモに思いついたことを書きなぐったのだが、粗が多く、このままコピペするのもいかがなものかと考える。
書けなくとも、とりあえず何か書く。それがきっかけになって、書けるかもしれないからだ。指を動かす訓練だと思えばいい。思考が死んでも、なにも考えないなんてことはない。その瞬間に思ったことを連ねるだけでも文章になるのである。
ただし、その文章に読む価値があるかどうかは別の話であるが。
そういえば、最近は死にたくなるほど嫌な思いをしていない。心が死んでしまうほどの強烈な刺激を受けていないのは精神にとってはありがたいことではあるが、モノを書こうとする衝動的な意欲が湧かないのである。
(現在の俺の環境だと、日常的な出来事でも十分な刺激がある。なので多感だった頃に戻ったらショック死するかもしれない)
とはいえである。反射的に嫌な思いをぶちまけたところで、電脳世界のどこかにクソを垂れ流すにすぎず、なんら生産的ではない。受けた刺激を消化する時間が必要なのである。内省を経た思索を言語化しようとする試みこそが文章に価値を生むのである。
ときどき、その試みをSNSで目にするたび、残念な気持ちになる。
彼らはこう主張する。
・「社会には格差があり不公平である。自分は恵まれていない(貧困、病気、差別など)。恵まれた人間は底辺を努力不足というが、普通のレベルになるだけでも恵まれた人の数倍努力しないとならない」。
・「思いやりが報われない」
筆者の苦悩や主張はわかる。俺もさんざん味わってきたからである。
彼らの主張は一般論やマクロな話ではなくパーソナルでミクロな話なので、データや定義付けされた慰めや反論は意味を持たない。ゆえに意見が噛み合わず平行線を辿る。
自分を基準にして語っているので主観的過ぎるのである。とはいえ、主語を大きく語るような話でもない。(われわれと言い出したら眉に唾をつけて話を聴く必要がある)
このような主張は本質的に正解とはいえない。正解である必要もない。その人からみた社会の真実であって、否定する必要もないし、かといって客観的事実を曲げて肯定する話でもない。
正解がないと主張する理由は、どうしようもないことだからである。
社会にマッチしていない環境や特性をもって生まれた、と結論づけるなら構造主義的だし、社会不適合者であっても生きている意味があると結論づけるなら実存主義的だからである。最終結論は自分で決めるしかないのである。他人は決めてくれないからだ。
そして結論は自分だけのものだ。他人を納得させるために議論を吹っ掛けるのは不毛である。(と思う。今の時点では)
なので、安易に結論づけることよりむしろ、さんざん遠回りして「自分はなんなのだ」と考え続ける過程が大切なのである。
その過程をブログなどに書くことで自身の精神が浄化されていく。それが目的でも良いのである。
なぜSNS等で理不尽に対して言及した書き込みを読むと残念な気持ちになるのか、言いたいことがまだ伝いきれていない。口が足りない印象である。もう少し粘って書いてみる。
なんというか、彼らの主張には感情的には理解できるのだが、意見そのものに同意できないのである。偏っているからである。そもそも同意する必要もない。それぞれ考え方が違うのは仕方がない。
彼らの感情に耳を傾けると、一般論で語るのは彼らの心情に寄り添っていないと理解できる。
たぶん、たいていの人から見るとどうでもいい、つまらない、くだらない文章で、そこまで深く考えている人間は少ない、と書き込む側も思っている。
意見を交わしたところで平行線になるのは分かっているのに、コメントするたびに攻撃的な文章になっていく。どうせ噛み合わないなら、お互いに思っていることを言い合うだけでよいのである。
自身の苦悩や苦労を理解して欲しいくせに、理解できるはずがないとも思う。天邪鬼なのである。なので、SNSで攻撃しあうのではなく、思ったことをお互い言い合うだけで十分なのである。
理不尽な社会に対する気持ちを綴った書き込みに、批判めいたことや正論で追い詰めるようなコメントをしないでやって欲しいなと思う。
約1700文字 約二時間所要
書き始めると、まあ書ける。
思考が死んでいるから文章も読み難い。相変わらずである。
とにかく習慣である。毎日続けるのが肝心である。
文学作品に親しむには
調べもののための読書は、要点を抜き出す読書である。必要に迫られた読書である。
目的に沿った内容が理解できればよく、味わうのは目的ではないからである。
これから話題にしたいのは、文学作品を自律的に楽しむための読書である。
生きてる間に何冊読めるかなどとは考えない方がいい
まず、結論から言う。
読破した冊数を誇っても仕方がないのである。
冊数は結果であって、目標ではないからである。
生涯に読める冊数には限界があるので諦めが要るのである。
どの本を読むか。それが問題である。
最近、何がきっかけなのか分からないのだが、読書に対しての焦りが無くなってきたのである。
以前は、教養として読むべき文学作品だという理由で本を読んでいた。つまり、知らないと恥ずかしいから読むのである。要するに、通読した経験が欲しいだけの読書である。
読んでいないのに読んだふりをするのも恥ずかしいが、かといって読んでいないという事実に居ても立っても居られない気分になるのも恥ずかしく、なぜ時間のある若いうちに読まなかったのだろうと過去の自分に苛立たしさを覚えるのである。
しかし、そのような気恥ずかしさから読書は読んだ冊数ではないと主張しているのではないと断言する。じっくりと好きな本を楽しめばいい、いまは素直にそう思っているのである。
俺の感覚では、いい文学作品ほど感受性を刺激して脳みそが疲労するから、休憩をはさまないと読破できない。しかも読了後は余韻にひたってしまい、その日は他の作品に集中できなくなってしまうのである。
自分が素晴らしいと思う作品は、何度も読み返す価値がある。読むたびに本当にその作品に出合えてよかったと心から思えるからである。
だからこそ、未だに知らない傑作を読み残していると思うだけで焦っていた。
かといって、珠玉の文学作品を「時間がもったいない」という理由で調べもの読書的に消化するのは、別の意味でもったいないと感じていた。
そこで、二つ考えを改めた。
・読んでいて「つまらない」なら、いったん手放す
・そのとき一番読みたい作品を読む
一つ目は、積極的な積ん読である。自分にとって必要なタイミングまで熟成させるのである。つまらない、頭に入ってこないなら、それは読むタイミングではないのである。
実際に、教養として文学作品を読むといった妙な義務感を放棄するだけでも心が軽くなった気がした。
積ん読は良いものだ。その作品を読みたい欲は突然襲ってくるが、瞬時に読めるのである。なんと幸せなことだろうか。
二つ目は、何度も同じ本を読むのは無駄ではない、ということである。言い換えるなら繰り返し読む時間を他の作品を読む時間に使ったほうが効率がいいとは考えるな、ということである。そのとき欲しているものが体にとって必要な栄養分なのと同じで、そのとき読みたい作品が、精神が必要としている刺激なのである。
好きな作品を何度も読み返す。なんと充実した読書経験であろう。
俺は最近、書評や感想文を読んで興味をもった作品はAmazonのカートに入れることにしている。
現在入手可能かどうかや購入者のインプレなどが参考になる場合が多いからである。
kindleは本当に便利である。青空文庫で読める本ならAmazonを経由すると無料でkindleに移すことが可能である。通常の作品でも、ときどき開催されるセールで激安価格にて販売されることもあるので要チェックである。
とりあえずゲットできるようにする、あるいはゲットしておけば、いつ読みたくなっても紐解けるのである。
貪欲に目を光らせる
ときには偶然に身を任せる。
敢えてコンフォートゾーンから脱出すると、気がつかなかった作品を開拓できる。
居心地の良い空間に居続けて、冒険心を忘れてしまうとボケてしまう。使ってない脳ミソの部分を刺激するつもりで、畑違いの分野に手をだしてみる。関連書籍の数冊くらいまでは苦労するが、そういうものだと分かってくると楽しくなることが多い。
やり方は、絵本とか児童文学とかジャンルの入口だけ決め、興味の赴くままディグるだけである。
本屋でたまたま手に取った本を入口にしてもいい。セレンディピティという奴である。
読書に使える時間は貴重だと心得よ
仕事と家庭があると、自分の時間を持つのは難しい。
通勤時間や仕事の休み時間も自分だけの時間とはいえないし、せいぜい家人が寝静まったころに若干の自由時間がある程度ではないだろうか。
心の洗濯として読書や黙想する時間は俺のような人間にとって絶対に必要である。
かといって充てる時間は少ない。貴重な時間だからこそ、過ごし方が重要なのである。
1800文字 約二時間所要
とくに気の利いた内容でもなく、読んで誰が得するのか首を傾げたくなる記事であるが、自分にとっては重要な再発見だった。
読破した作品が多いほど教養が高いというのはスノビズムであるが、ついつい張り合いたくなる事柄でもある。
ところで、未読リストから作品が消えるほどリザルトが上がるわけでもないのに、あれは読んだかと頻りに追及し、口(くち)プロレスを挑んでくる者が絶えない現象に名前はあるのであろうか。
文学作品に対峙する態度には二種類あると思っている。学術的態度と享受的態度である。俺は学術的に文学に関わる術を知らない。あくまでも一個人として楽しむためだけに読んでいる。
分析的に読むわけではないので、作品の良し悪しを決めるのは感受性を刺激するかどうかである。感受性を刺激するトリガーは読み手自身の経験や感情なのである。それは化学反応に似ている。作品自体は触媒であって、読み手の状態によって違う物質に変化するのである。もしかしたら、すでにこの喩えは使われているかもしれない。そのくらい似ている。
誰もが様々な道を経て今ここに辿り着いたのである。作中の人物と自分が重なる瞬間が訪れたときに、人はなにかしらの感情を抱くのである。それを探すために文学作品を読むのかもしれないと、なんとなく思った。
物語の悪役に同情する感受性がある人とない人
今回はあまり時間がないので、メモ書きのつもりで書いておく。
物語の悪役に同情する感受性がある人とない人についての考察がテーマである。
シェイクスピアの戯曲を読んでいると、その感受性に惹かれる。
マクベスのように自らの悪により破滅する人物は愚かであるが、だからこそ人間の弱さをよりリアルに感じ取れるのである。
ベニスの商人のシャイロックのように悪人と決めつけられて、悲惨な結末を迎える人物もいる。俺の意見を言うと、アントーニオのほうが嫌な奴である。
判官びいきという言葉がある。第三者が不利な側に同情することである。
どちらか一方に優位性が偏ると、優位な側と自身の考えを結びつけるタイプの人と、不利な側に味方をして無意識にバランスをとろうとするタイプに分かれる。
話を分かりやすくするために具体的な例を挙げると、あまり政治の話をしたくはないが、自分の支持する政党以外は不要だから議席が無くなればいいと考えるタイプと、暴走を防ぐストッパーとして、あるいは監視役として、野党の存在が絶対に必要だと考えるタイプがいるという話である。
前者は、弱った悪者が非道な目にあっても自業自得だと考えるのである。戦いも一切容赦しない。迷わず殺すのである。
後者は、悪が存在する意味を考える。悪とはなにか。敵とは利害対立の関係だが、相手からすれば自分も同じことである。そもそも敵は悪なのか。そこまで考えたうえで殺す。
情状酌量の余地があれば、裁判では減刑される。それが正義である。以前にも書いたが、正義とはバランスをとろうとする意志である。
これも以前に書いたが、優しくて強い人と、お人好しは違う。
優しくて強い人は仲間に対しては思いやりに溢れているが、敵対するものには容赦しない。
北斗の拳のケンシロウは優しい。しかし、敵には一切の情けをかけない。それでも話が成立しているのは、作者が意図的に情状酌量の余地のない卑劣漢ばかりを登場させて、敵が死んでも同情されないようにしているからである。作者はその部分を描きたいのではなく、別のテーマをクローズアップしたいのである。
お人好しは、たとえ敵対するものであっても、損得勘定抜きで同情する余地があれば憐れむ。
そのような行いが愚かにみえる場合もあるが、それこそが寛容性なのである。
その寛容性のおかげで命を失った歴史上の人物は多いが、だからこそ歴史に名を残したのである。カエサルは寛容であったため、ブルータスはなんども背いたにもかかわらず許した。その結果暗殺されたのである。
純粋な強さを求めると、一切の仏心は不要になる。わかりやすく言えば、ゴルゴ13のようなキャラクターになるのである。ゴルゴは正義とか悪とか、そういう視点で物事を判断しない。彼からすればターゲットは人間ではなく、動く標的にすぎない。だから、我々とは感覚が違い過ぎて全く参考にならない。
弱った敵を前にして、「自分にとっての敵だから殺す」からスタートしているのに、罪悪感を覚えたくないあまり、悪だから殺されても仕方がないんだと思うようになる。自分の悪を自己弁護するようなものである。あいつを殺せと扇動する雰囲気によって、これから行おうとする行為が正しいものに感じてくる。
しかし、よく落ち着いて考えてみればわかる。自分にとって許せない敵なのと、どの角度からみても完全に悪だというのは全く違うのである。
敵を悪だと決めつけて、その自覚がないのは危険である。
自覚があって意図的にやっているのなら悪質だが、それは人間の性だと考える。
しつこいようだが、繰り返す。力を失った敵に対して、悪い奴だから殺されても仕方がない、非道な目にあっても自業自得だと決めつけるのはよくないのである。
お人好しの存在こそが、戦争のような有事の際にストッパーとして必要になるのである。
1500文字 約一時間程度所要
支離滅裂である。なにが言いたいのかよくわからない文章になってしまったので、それなりの結論のみ出した。発見はない。なんとなく頭にあった言葉を吐き出したに過ぎない。
デフラグのようなものである。脳の負担が若干軽くなり、明日から別のテーマを考える余裕ができたと思うしかない。
「~こと」はいらねえから削ろうぜ
今回は、原点に戻って「文章練習」そのものについて書いてみる。
恥ずかしいことに、普段から新聞を読んだりネットで調べ事をしたりと文字に触れる機会は多いにも関わらず、意外と文章を綴るお約束を知らなかったのである。
口語体 話し言葉と書き言葉
言文一致運動を経て現在では口語体が書き言葉の文体となり、口語体のなかに話し言葉と書き言葉があるのは周知のとおりである。
文語体の表現は、現在はあまり使われていない。とはいえ、古い書物や時代物の登場人物のセリフとして、「ならぬ」とか、「できぬ」とか、「~すべく」、「~にて」などの言葉を見かけるので、なんとなく知っている言葉も多い。調べればすぐにわかることなので、ここではこれ以上触れない。
口語体というと話し言葉のようだが、話し言葉ではなく書き言葉である。ややこしいが、要するに、話し言葉に基礎をおく書き言葉の文体が口語体である。
話し言葉は書き言葉に変換して綴るのが基本である。
文章を書くルールをまとめると、
まず、現代文は口語体である。
つぎに、現代文では文語体を用いない。
さらに、文章を書くときは、話し言葉を書き言葉に変換して書く。
つまり、口語体と文語体の違いと、話し言葉と書き言葉の違いを熟知していないと、洗練された文章は書けないのである。
にも関わらず、書き言葉と話し言葉の明確な定義がなされているわけではないので厄介である。とはいえ、有名どころを押さえておき、最低限は外さないよう心掛けるべきではある。
話し言葉で綴ったSNSは親しみがあり読みやすいのが利点だが、良い文章に触れるという意味では適切ではない。
ビジネスメールや公的に発信する文章を書くのなら、書き言葉で綴りたいものである。
常体と敬体
「だ体」、「である体」が常体で、「です・ます体」、「でございます体」が敬体である。
この文章は、読めばわかるが「である体」で書いている。ときどき「だ体」と混じるのは、どちらが適切な語尾か分からなくなるからである。
一方、敬体は間違えにくいだろう。ほぼすべての文章は「です・ます体」である。
きょうび「でございます体」で書く人など、村西とおる監督ぐらいである。
ここまでは教科書通りの進行である。ここからは、思いつくまま書き進める。
~こと
「学生の卒業論文を読んでいると「~こと」ばかりだ。コトコト、コトコト、うるせえんだよ!コトコト煮込んだスープじゃねえんだよ」と、どこかの大学教授が吐き捨てるように言っていた。
素人の書いた文章を読んでいると頻繁に遭遇するのが、「~こと」である。
「することができる」とか、「~ということだ」、などと使用しているのだが不要な言葉である。なるべく必要のない言葉は削ってわかりやすくするべきである。
ついついプロも書いてしまうようだが、推敲で削ってから納品する。
会話だと、わざわざ不要な「〜こと」を使うのだから、何かしらの理由があるに違いない。
なぜ、「~こと」が出現するのだろうか。俺なりの見解を示そう。
一般的に、くだけた口調で話すときは「行為+こと」で、その行為を強調する意味合いで使うのではないかと推察した。
例えば「将棋の勉強をすることを頑張ろうと思う」のようにである。「将棋の勉強を頑張る」より、「将棋の勉強をすることを頑張る」ほうが、勉強を強調しているような気がするのである。
意味なら「将棋を頑張る」で通じる。将棋が強くなるために努力すると伝わるからである。しかし、勉強することが、話者の伝えたいパワーワードなのである。
俺はここ数日間、ラジオパーソナリティやテレビタレントのフリートークを注意深く聴いていた。予想通り、高頻度で「~こと」を言っているのである。
では、なぜそれを文章に投入するかというと、「~こと」と行為を限定して厳密にしたい感情の表れだと推察する。
話者は自分の話したいことだけを話す
会話では、話者はそのときに一番伝えたい情報を話そうとする。
最も言いたいことを話すので、順番や抜けを意図的に無視して話す。要点だけを話せばいいのに、一から話さないと気が済まない人や、オチだけ話すので過程が分からない人など例を挙げるとキリが無い。
不明な点を指摘されてから話すのは、すでに相手は知っていると思っているからである。会話は自分目線になるケースが多いのである。
会話には、「話したいことから話すから、わからない部分があったら聞いてよね」という緩さがある。
書き言葉と違って思ったことから言ってもよいし、日本語の文法にやや間違いがあっても聞き流す習慣もあるし、敢えて話すべき話を話さなかったり、どうにでも解釈できる言い方をわざとして有耶無耶にするテクニックも存在するくらいである。
そういう癖や習慣が人間にはあるから、注目して欲しいワードをオーバーに表現したいがために、行為に「~こと」を足して話すのである。
「~こと」が、やたらにあると悪目立ちする。しかし、つい書いてしまうのは厳密性を高める表現のような気がして、文意が伝わる気がするのである。
我々が文章の完成度を高めると勘違いさせる要素を「~こと」はもっているのである。
文章は書き言葉で綴るのがルールであるのにも関わらず、話し言葉を(脳内で話したのも含む)変換せずそのまま「〜こと」と文章にしてしまうのは上記のような心理が働いているからである。
ついつい書いてしまう「~こと」。
こんなつまらんことを書いているだけで1900文字 一時間半を要した
しまった!「~こと」を最後に書いてしまったぜ。最後のツメが甘いのが俺である。
思いつくまま、ざっとしか書いてない。もし、この記事を読んで文章について学ぼうとしているなら不毛である。あなたは検索ワードを間違えたのである。すぐにブラウザをバックして高質なサイトを検索した方が良い。
これは俺の個人的趣味で書いている記事である。誰かの役に立とうとか、高尚な理由で書かれた記事ではないのである。
また文章の書き方をおさらいしたい。
次回は、「受動態はなるべく使うな」。あるいは、「人称について」をお送りする予定である。
そのうち語彙や文体についても考えてみたい。