自分が受けた損害を他人に代償させるのはどこまで許されるか
まとまりがないが書いてみる。
俺は自宅から最寄りの駅までチャリを利用している。
駅前のチャリンコ置き場はカオスの様相である。というのも、未だにスペース契約の月極ではなく、早い者勝ちだからだ。なので毎朝がバトルである。
駐輪場をぐるり見渡し、鷹が獲物をロックオンするが如く空いてる場所にチャリを強引に押し込んでロックする。ごくまれに停める場所がない場合があるが、そんなときでも隙間を作り出し、無理やりに押し込むのである。
一昨日の話である。一日の仕事が終わり、さてチャリに乗って帰るかとカバンをカゴに入れようとしたその瞬間、かごの中に先客が居るのに気がついた。
街灯の光でじっくりと確認すると、それは使用済みのオムツであった。
なぜ、こんなところに使用済みのオムツが捨てられているのだろう。普通は捨てないだろう、人の自転車のカゴに。
仕方がないから、見も知らない赤子の使用済みオムツを処分した。
思うに、いきなり俺のカゴに捨てたのではなく、元は別のチャリのカゴに捨てたのではないだろうか。
非常識な親が、他人様のチャリのカゴに捨て去ったのだろう。そのチャリの持ち主が他のチャリのカゴに捨て、いかにも人気のないお中元を包み直して回すようにグルグルと連鎖した結果、俺のチャリのカゴに行きついたのではないだろうか。
もし仮に、ピンポイントで俺のチャリを特定して嫌がらせのつもりで汚物をカゴに入れたのならスゲー恐い。考えたくもない。とはいえ、みんな強引にチャリを突っ込んでるし、俺の停めかたに問題があったとは思えない。
仮に駐輪場が月極で、となりのチャリの人とも顔見知りだったなら、とてもじゃないが使用済みのオムツをカゴにいれるなんて行為はできない。月極で自分のスペースが決められているなら、自分の正体を知られているし、そういう場は気持ちよく使用したいと考えるからだ。
フリーの駐輪場だと、顔も知らない奴になら迷惑を掛けてもいいと思うのだろう。犯罪と言っても、せいぜい不法投棄、迷惑行為くらいで、重罪じゃないから心も痛まないし、現行犯でなければ証拠もないからバレないだろう。
被害者意識もあり、ゴミを持ち帰って処分するのもイヤだし、それなら隣のチャリのカゴに入れれば解決するなと考えるのである。
しかも、知らない奴が困っている姿を想像すると滑稽で笑えてくるのである。
知らない奴→知っている人→仲がいい人の順で道徳的に接するようになるのが人間だから仕方がない。
俺は理不尽に嫌なことをされても、それを他人に押し付けられない。
別に優しいからではない。様々なリスクを考えると割に合わないからである。
押し付ける相手がどんな人かわからない。もしかしたら向こうからくる人で、これからカゴにゴミを捨てる場面を見られるかもしれない。
誰かが一部始終を観察していて、いや、ひょっとしたらカメラが回っていてドッキリの仕掛けかもしれない。
思慮深いというか、ビビりなのである。そのおかげで人の恨みを買わずに済んでいるが、考えすぎて精神的に疲れるきらいがある。
つまるところ、気分はムカつくが汚物を持ち帰って処分したほうが気持ちが落ち着くのである。
以前、チャリのサドルを盗まれたことがある。規格品だから互換性があるし、錆びてなければ手で簡単に外れるのである。
これもおそらく
「サドルの皮が破けたので交換したいが金がない。そうだ、自転車置き場のチャリから失敬しよう。お、ちょうど良さげなのを発見!」。
「あれ、俺のチャリのサドルがない、なら隣のを外して自分のに取り付けよう」。
「私のサドルがない、隣のをもらっておこう」。
きっとこの流れだと思う。
汚物を捨てるより盗む方が罪が重いような気がするから、チャリを引いてそのまま自転車屋さんにサドルを買いに行く人、つまり、理不尽を他人に押し付けず、甘んじて受ける人は結構いると思う。
自分が受けた損害を他人に代償させるのはどこまで許されるかのボーダーラインをどこで引くかは人によって違うだろう。
犯罪の重さなのか、それとも他のなにかなのか、それは分からない。
他人のカゴに汚物を捨てたり、サドルを盗ったりするのは自力救済だ。法律では許されていない。そもそも犯人を特定して報復したわけではない。たしかに自身も被害を受けているが、別の誰かを犠牲にして被害を最小限に留めているので加害者でもある。
まあ俺だって、駐輪場が満車でも料金払った以上は停める権利があるからと、無理に押し込んでいることもある。むしろ満車でも入場できる仕様に問題があるのだから、俺は悪くないと自己正当化してしまっている。
みんな自分は悪くない。自分は被害者だ、やられたから仕返ししただけで、積極的に自分がルール違反しているのではない。元の原因を作った奴がいなければ、こんな面倒は起きなかった、悪いのはそいつだ!と思っているのかもしれない。
先日、知り合いから聞いた話である。
郊外型ショッピングセンターに買い物によく行くらしいのだが、駐車場はいつも混んでいて、やっとの思いで駐車する順番が回ってくると、駐車スペースをはみ出しギリギリ左に寄せて停めるのだという。理由はドアを開けるスペースが確保できるので出入りしやすいからである。
奴の車は幅が2mはある。それでは左隣の車は右のドアを開くスペースが殆どないから大変じゃないかと聞くと、こう答えた。
「そいつが車乗れなくてオタオタしてたら笑えるわ。車にキズつけたら弁償してもらうしな。念のためスマホで画像撮ってナンバー控えてあるからな」。
隣の車の人がかわいそうだとか思わないのと聞いてみた。奴は言った。
「だって、そうしないと俺が降りれないんだよ。俺の車のサイズでも乗り降りできるようにスペース配分しない駐車場が悪いんだよ。」
彼は普通に話していたら面白い奴だ。割と親切なところもある。
しかし、知り合い以外には鬼のように自分勝手で迷惑な人物である。しかも、自分はまともな人間で、悪いのは自分以外だと思っているのである。
約2100文字 二時間半程度所要
今回の記事はネタとしては悪くなかった。しかし、文章が最悪である。
上手い書き手ならば、このネタで面白おかしく読ませる記事を作成できたはずである。
頭の中にはあるのだが、どう組み合わせるか、どの順番で書くか、どう表現するか。
それらが雑で、急ぎ過ぎている感がある。
満遍なく達意の文章になるように心がけているのだが、残念なほど技術がなさすぎる。
心のつぶやきを読みやすく表現するエッセイ的な文章は元々苦手だったので、読みやすいブログは諦めているのだが、はっきり言ってひどすぎる。
自分が間違ってこのブログに辿り着いたら、おそらく滞在時間は一秒程度だろう。
興味を引かず、学ぶべき部分もなく、読むのが苦痛ですらある。どうしても読まなければならない文章なら別だが、そうでなければ勘弁願いたいほど読み難い。
それは自覚しているのだが、どうしても捻じれた文になってします。話し方や書き方が独特すぎると個性になるが、それと読もうと思う気になる文章かは別の話である。
つかみがOKでないと、その後にどれほど面白い文章が続こうと読んではもらえない。
この記事は俺の練習という名の自己満足で書かれているのだが、一応読者を意識して書いている。
宿題の答え
昨日の記事で問いを立てた。
愛する人を失って(亡くして)哀傷に満ちた涙を流すのは、誰のためなのか。
カップラーメンが出来上がるまでの時間や、うんこしているときに考えてみたが、答えはでない。というか、でるはずがない。そんな生易しい問題ではないし、そもそも答えがあるのかも怪しい。
しかし、考えてはみた。
これまでの思考の軌跡を辿ってみるとしよう。
そもそも誰から見た視点なのか
誰のために涙を流しているのかを問題にしているが、そもそも誰から見た視点で問うているのかが問題である。
誰目線での話なのか。自身の目線なのであろうか。
もし自分から見て、自分が涙を流すのはなぜだと問うているのであれば、自分の胸に聞いてみるといい。
大切な人(亡くなった人)を失ってしまいショックを受けている。そして、自身の心の奥底で、その人の代わりになる存在を求めているのであれば、自分自身のために涙を流しているとは言えないだろうか。
失われてしまった自身の心の破片を埋めるためには何をすべきかを考える。現実的にも拠りどころだった存在ならなおさらである。
だが、途方に暮れて流す涙は、本当に自分自身のためだけに流している涙なのだろうか。
埋葬するのは死そのものに意味があるから
一万年前の、我々人類がまだ狩猟採取で日々の糧を得ていたころを考えてみる。まだ技術も医療も進歩していないから、不慮の事故であっけなく人は死んだ。
当時の人々も、身内が絶命したら地に伏せて痛哭しただろう。見たわけではないので想像ではあるが。
家族や仲間が死ぬというのは、その集団内で助け合える存在が減るのと同義だから、自分の身がより危険に晒されることになる。とくに有力な人物であればなおさらである。
だが、自分の身を案じるあまりに涙していただけかといえば疑問が残る。
少なくとも五万年前のネアンデルタール人たちには、死者を埋葬する習慣があったようである。ただ単に地に放置するのではなく、風雨や動物からの影響を受けないよう丁寧に埋葬されていたという
死者を悼む感情がなければ、この世からいなくなってしまったと嘆くだけ嘆き、遺体は放置したままだろう。死んだのは困るし悲しいが、そんなことより代わりとなる存在を探さねば、というわけである。
埋葬するという行為は死んでしまったこと自体に意味をもたせている。
亡くなった人物に対し敬意を払い、我々の存在する世界とは別の世界に旅立ったのなら、どうか達者でと祈る気持ちのようなものがあり、あるいは永遠の安らぎを得るよう祈る気持ちがあり、永遠の別れを惜しんで涙を流すのであれば、それは愛慕の落涙だと思う。
世の中は自分以外のために存在しているという視点
自分自身のことでなくても涙を流すことがある。他人の経験を聞いてもらい泣きしたり、テレビや映画、漫画、小説などの死別シーンに涙した経験のある人も多いだろう。
そういった自分自身以外のことにも涙するのも、誰のためという視点ではなく、どこから見た視点かという話になる。
テレビを観ていると、テレビの向こうの世界には絶対に介入できない。ただ、視聴者は事の成り行きを観察しているだけである。
これは俺だけなのかもしれないが、昔からよく考えることがある。
世の中は自分以外のために存在しているという考えである。
簡単に説明すると、世界は自分以外の誰かが主人公であり、自分はそれを見聞きし記録するビデオカメラに過ぎないという考えである。
結婚式や誕生日会など、人には主役になれるシーンが大体ある。でも、絶対に俺は主役になれず、自分の視点で世の中を見聞きして記録しているだけのような気持ちになることがある。
あくまでも自分の視点でしかモノを見ることができないため、他人がどう思っているかは分からない。なので、他人が近しい人の死を前に涙していても、それが故人を悼んでいる涙なのか自己憐憫の涙なのか知りようがないし、気丈に振舞う人の暗涙にむせぶ姿を知らないだけかもしれないのである。
物事は自分から見てどう見えるかしかないのである。
俺は、ドキュメンタリー映画のカメラ目線といったらいいのか、うまい喩えがみつからないが、自分自身がそこに存在しているのだが存在していないような、そんな立ち位置からの視点で社会を観察しているときがある。
こちらが話を聴く態勢になると、大体の人は自分の話をしたがるし、話しているときは生き生きとしている。誰しも皆、自分は世界の主人公だと思っているからだろう。
その話が真実なのか事実なのかわからない。ホラ話かもしれない。
まるで、映画「ビッグフィッシュ」のようにである。
結論
結論は出ないのだが、愛する人を失って(亡くして)哀傷に満ちた涙を流すのは、誰のためなのかは俺自身の視点でしか感じることができない。俺自身の感情だったり、ドキュメンタリー映画のカメラ目線で感じた印象でしか語れないものなのではないかと考えている。
そもそも、純粋に死者を悼む気持ちと自己憐憫の情を区別する意味があるのかも疑問である。おそらくどちらも入り混じった複雑な感情であり、千言万語を費やしても表現しえないからこそ、あらゆる表現の普遍的なテーマとなっているのだろう。
しかし、子供のころ、誰のために涙を流すのか疑問に思ったのと、利己的な涙は美しくないと感じたのは真実である。なぜそう感じたのかは結論がでないにしろ大切にしたい。
約2000文字 約二時間所要
特に目新しい発見も無いまま訳の分からない持論を展開し、最後にケムに巻いて終わっただけに過ぎない。
でも仕方がないのである。本当に考えたとおりのことを書いただけなので、結論もでないし、独りよがりになるのである。
こんな問いは、答えなど出す必要もない。ただ、一考する価値はある。どんなくだらないことであっても考えてみる。そうすると意外な発見がある場合がある。
問を立ててみる
今日はあまり時間がない。なので、長文を書く余裕はない。
そこで宿題を作成することにした。
とある問いを自分自身に投げかけ、明日まで考えてみようと思う。
利他的な行動が、最終的に自己の利益となって返ってくるとしたら、それは利己的な行動なのでは?という疑問がある。
いつの時代も世界のどこかで幾度となく考え尽くされている厄介な問題である。
子供のころに、それに似た疑問をもったことがある。
愛する人を失って(亡くして)哀傷に満ちた涙を流すのは、誰のためなのか。
故人を思慕し愁嘆にくれたときの条件反射なのか、あるいは、自分を愛してくれていた故人を失った悲痛なのか。
純粋に故人を偲んで流した涙なのか、あるいは自分自身の為に流した涙なのか。それは愛慕の情なのか、失った(ロスした)悲しみなのか。
あるいは全てが入り混じった複雑な感情なのか。
もし、自分の為だけに流した涙だとしたら「美しくない」と、そのときそう感じたのである。
悲愴とはなんだろうか。
親や配偶者、子、兄弟姉妹が亡くなると、現実的な問題にさらされる。残された者たちで生きていかなくてはならないからだ。今後の自分や家族のことを思うと不安や恐怖のあまり絶望することもある。
理不尽な理由で亡くした場合は原因に対して怒りもある。
なぜ私を残して死んだと「故人の死」に対し怒りを覚えることもある。
それらすべてが瞬時に過って混乱のあまり反射的に涙することもある。
約500文字 20分程度所要
この駄文を綴る企画は行き当たりばったりなので、時間配分を間違えると短文で終わる場合もある。とはいえ、事前に文章を準備しようとは考えていない。
その瞬間の考えを文章としてアウトプットするのが俺にとって都合がよいからである。
調子が乗ってくると、勝手に指が動き始めて文章が紡がれてゆく。
テーマは極論どうでもよく、そのときに関心があることでいい。どうせ誰も読まないのだから。
推敲もしない方針だが、ただ書き連ねているだけでは能がない。コツコツとではあるが、技術的な部分はアップデートしている。あくまでも自己判断であるが、僅かずつではあるが読みやすくなっている。そうでないと書いている意味がない。
読みやすくても内容が薄ければ意味がない。読み難くても内容があればいいのだが、読んでもらえない確率が高い。
読みやすくて内容が深い文章を書く意味はある。
考えを伝えたり、思いを受け取ってもらうには、芸術的な言語や絵が一番である。
芸術は時間と空間を超えて多数の人に影響を与える。
俺の書いたものがそのレベルには達しないのはわかりきっているが、目標は高くもったほうが良い。どうせ叶わないなら、高い目標をもったほうが近づける気がするからである。
お人好しとは何なのか
お人好しの特性を考える
昨日の記事に、お人好しであり続けると書いた。
自分の特性と違うことをしても苦痛なだけだし、それならむしろ受け入れて生きていくほうが楽であるし幸せだと思う。
では、お人好しとは何なのか。自分自身をモデルに説明してみたい。
俺の考えでは、お人好しとは持って生まれた特性で、誤解を恐れず言うと障害とはとらえられていないが、それに近い特性である。
知的障害がある人に対し、騙して仕事を押し付けるのは許されない。これは世間の人は誰でもそう認識している。
しかし、知的に障害はないものの、どうしても他人の頼みを断れないタイプの人に対しては、押し付けた側ではなく断らない側が悪いと世間では判断する。
仕事を押し付けるのは不誠実な行いなのに、対象が判断能力に欠けているかどうかで善悪の認識の違いがある。
イヤといえないお人好しは、不誠実な人々に搾取されても仕方がないと世間に認識されている。自分の身は自分で守れと。誰からも保護されていない存在なのである。
自身の感覚と他人の感覚の乖離
自分の持って生まれた特性が、世間の一般的な感覚とマッチしていない。それに気がつくまでは苦しいし、気がついても受け入れるまでには時間がかかる。
子供のころは、他人も自分と同じ感覚だろうと考える。なのに、他人がときおり非道な選択をするからショックを受ける。それが続くうちに、大体の人は実はお人好しではないのに気がつく。
自分は他利的で寛容なのに対し、他人は甘くない。利己的だし、隙あらばミスを咎めてくる。
幼少時からこういった経験を繰り返すので、他人への恐れ,不信と自罰的な態度を身につけるようになる。
以前、世の中は鬼のように厳しいなと感じた出来事がある。ジェイコム株大量誤発注事件である。ジェイコム株をみずほ証券が誤注文したのだが、どう考えてもミスとしか思えない注文なのに大事件になった。
自分の感覚では、そもそもミスだから無効だろうと思う。しかし、人のミスに容赦なくつけこんで他人に大損させて、自分が大儲けするのは法的に問題はなく、火事場泥棒的に利益を上げた証券会社や個人投資家のすべてが利益を自主返還したわけではないのである。結局、東証とみずほ証券のどちらが責任をとるべきか水掛け論になり裁判で終わったのだが、本質的には「それ入力間違ってますよ」の一言で済む話だった。
世間は甘くない。世間の皆が自分と同じような考えの持ち主だったら特段なんてことのない話も大事件になってしまうのである。
人を見たら泥棒と思え。
そんな諺ばかりが頭を過るようになる。
絶対にミスがあってはならない。わずかな隙をついてきてケツの毛まで抜かれる。物事は慎重になるべきだ。いざとなったら誰も助けてくれない。弱肉強食の世界である。虎視眈々と獲物を狙っているのである。
親切に人助けをしても、わずかでも落ち度があれば逆に訴えられる時代である。
善きサマリア人の法という救助者の責任を問わない法律が海外では整備されているが、依然として日本では立法化されていない。
お人好しはリスクに敏感なので、押し付けられない限り際どい状況を避ける傾向にある。
お人好しというと何も考えていないバカだと思っている人が多い。
しかし、何も考えていないのではなく、ただ単に口にしないだけであって、常々搾取されている経験から、実は社会に対しネガティブな感情を常に抱いているのである。
お人好しと優しい人の違い
似て非なるものである。優しい人は愛着ある人に対し思いやりのある行動をする。
とくに優しい人は愛着を持つ人の範囲が広かったり深かったりする。
しかし、愛着をもたないどうでもいい人に対しては優しくない。
目の前の敵を倒し、財を奪い取って仲間に与える人。それが優しい人である。
いっぽうお人好しは、やられてしまった敵がかわいそうだと同情してしまうのである。
だから、ほとんどの人は優しい人を頼もしいと思っている。いっぽう、お人好しを悪い奴ではないと思っているが感覚のズレを理解できないから、一言でいうとバカだと思っている。
お人好しはバカなのか
お人好しが自身にとって不利な選択をしたとき、知的に問題が無い人の自由意志と捉えるのなら、一般的な解釈では、ただ単に損得勘定に疎いと考えるのが普通である。選んだのは自己責任であり、断らないのが悪いのである。
そういう人を世間ではバカと呼称する。
たとえ話をしよう。
目の前に二人前のホールケーキがある。これを半分に切って二人で分けるとする。とはいえ、完全に等分するのは難しく必ず偏りが発生する。
なので、切った人は選べないと予め決めごとすると公平になる算段が高い。極端に大きさが違うと自分が損をするからである。なるべく等分になるように切ろうとするわけである。選ぶ側は、いかに大きなほうを選ぶかを考える。
これが一般的な感覚なのだが、お人好しの感覚は異なっている。わざと小さな方を選ぼうとするのである。
大きな方を選んだら相手に悪いな、かわいそうだなと思ってしまうのである。お人好しには、色んなことに気がついてしまうがゆえに考えすぎてしまう神経質な面がある。
敢えて恩を着せるために、わざと小さな方を選びとる人もいるが、お人好しはそういう計算なしに小さい方を選ぶのである。
これはある意味、異常である。
初めて会った人の場合、第一印象だとお人好しは悪くないし、むしろ好感をもたれる場合が多い。しかし、二度三度とお人好し行動が続くと、判断能力に乏しいバカだと認識されるようになり、所謂なめた行動をとられるようになる。
お人好しは自分の扱いに憤慨するが、形式的にでもお礼を言われたり感謝の意を述べられると、それ以上追及できなくなる。
利己的な人間から見ると非常に扱いやすい特性なので、搾取の対象としてターゲットにされやすい。
お人好しは自罰的である
悪気なく人を傷つけてしまった経験から、余計なことを口にしないよう警戒している。
自分と相手、どちらかが損をしなくてはならない場合、自分が損をするのを選ぶ。
ごまかしには気がついているが、わざと騙される場合がある。相手をやり込めたらかわいそうなので損害を受けない範囲なら騙された風を装うことがある。
欲がないわけではないが、平等、公平にこだわる。相手の立場を考えるので、自分だけが得をする状況に罪悪感を覚える。
自分の好意や無知につけこんで騙そうとする相手に怒りを感じることもあるが、ターゲットにされるように振舞っていた自分自身も悪いと考える。
以上の事柄から、お人好しは世間に必要だが、決して報われることはなく理解もされ難い。利己的でないので人に恨まれないのだが、利他的過ぎてなめられるし、搾取の対象にされやすい面がある。
ざっと2600文字 二時間半所要
推敲はなるべくせず、ノートのメモを参考に構成した。
お人好しとは、しばしばネガティブな意味で使うワードである。
「あなたはお人好しですね」は褒め言葉ではない。
私にとっては都合のよい、ありがたいバカですよね、という意味である。
可愛がっていた部下に裏切られた人への慰めに使う場合はある。とんでもない悪人だと知っていたのに良くしてあげていたと強調したいためにである。
「あの野郎、社長のお人が好いのにつけこみやがって。散々面倒見てもらったのに後ろ足で砂かける真似しやがって」
などと使う。そうすれば社長の管理不行き届きではなく、部下の性質が悪かったという話になるからである。
他人の心の機微を見抜いて、相手が言ってもらいたいことを言ってあげようとするサービス精神があるのもお人好しの特徴である。
本の重さ2
前回の続きである。
いま手元にある本で、純粋に重たいのはクロニック世界全史である。
諸元は、高さ300mm、幅250mm、厚み70mm。重量は測ってないが、二階から落とせば車のボンネットがべっこり凹むのは想像に難くない。
世界全史の名に恥じぬ、威風堂々たる体躯である。
記念定価¥14800、定価¥17000。講談社会心の事典である。
カラーの資料をふんだんに使用し、その年のグローバルな出来事を解説している。記事数4000本、コラムも200本と豊富であり読み応えがありすぎる。おそらくであるが隈なく全てを読了した人は数えるほどだと思う。
そんなことは、まあ、どうでもよい。
確かに物理的にヘビーな本は、読了そのものや内容の理解を諦めたくなる壁の高さがあるが、必要に迫られて読めば、それなりに理解もできる。関連する項目を追ううちに理解が進み、後半になるほど読む負担が減るものである。
見た目に圧倒されなければ、どうということはないのである。
問題は、ぱっと見には重く見えないのに、読み始めるとずんとくる重い本の存在である。
最近読んだ本で重かったのは「にぁんちゃん」という本であった。わずか78ページを読むのに半日を要した。
内容は小学生の女の子の日記である。わかりやすいように一部手が加えてあるが、基本的に本人の書いた文章そのままである。だから文章が難しいわけではない。むしろ易しい部類といえる。
日記だから、その日にあった出来事と思ったことが書いてあるのだが、読むほどに本当にこれを読んでもいいのかと思う。なんと表現したらいいのか思いつかないのだが、美しいが触れると壊れてしまうものを見てしまったような気持ちになるのである。
この日記の、他者への思いやりにあふれた素直な筆致に、胸が締め付けられ涙がこぼれてくる。
おそらく日記には一切の嘘がなく、そのときの正直な気持ちを書いていると思う。
人間は大人になるにつれ、人に良く思われようと本心を隠して生きるようになる。そして、建前ばかり言ってるうちに自分自身にも本心を隠すようになるから、そのうちどれが本当の自分の素直な気持ちか分からなくなってくる。嘘で塗りたくった心は複雑すぎるのである。
よく子供は天使だと言う人がいるが、天使などではない。無邪気なだけである。気質や環境の問題などで、理性を働かせる前頭葉が未熟で我慢ができない子もいる。共感力に乏しく利己的に振舞う子供も多い。しかし、どんな子供にも複雑すぎない純粋な部分がまだ多く残っているのである。
日記を綴った末子さんは、両親が亡くなり朝から晩まで泥まみれになって働いてくれている兄をはじめ周囲の人々に純粋な気持ちで感謝している。
どんなくるしいことでも、かなしいことでも、まけず、りっぱに生きていくことです
と力強く書かれている部分が印象的だった。
学校の先生が日記を読んで、どんなに貧しくても立派になった人はいるぞと励ました日の日記である。
一人の人間として、筆者の純粋でまっすぐな気高さに、ただただ尊敬の念を覚えるのである。
立派というのは功績を残すだけではない。立派に生きるとはなにか。日記を読んだ人それぞれが考え、素直な気持ちで答えを出して欲しい。
ちなみに俺の考えは、お人好しであり続けることである。人に好かれたいためでもなく、そうせざるを得ないわけでもなく、自分の意志でそうあり続けたい。
約1200文字 一時間半所要
「にぁんちゃん」はじつは読了していない。少しずつ読まないと心が保てないからである。心をもっていかれる本にぶち当たったときは、必ずそうしている。ただ単に読むのが目的ではないからだ。
そういえば、トリイ・ヘイデンの「よその子」もやばかった。読み終えるまでが長かった。
内容が理解できたら可。ではもったいない作品というのが世の中にはあって、消化するまでに時間のかかる作品とじっくり向き合うのも読書の醍醐味である。
俺にとっては、そういう作品が重たい。
本の重さ
本の重さ
本には重さがある。重さと言っても重量ではなく、読みすすめ易さの意味である。
文体や内容が難解な本はもちろん、平易な文体であっても読みすすめ難い本がある。
本の厚みがあっても、数時間で読了する本もあるし、薄いのになかなか読了しない本もある。一ページ辺りの脳ミソへの負担が違うのである。
まず、小説とそれ以外に分けよう。小説だと読みすすめ易いのは、推理小説である。
続きが気になるから読むモチベーションが持続するし、なんといっても推理は面白いから読んでしまう。世の中にはエンタテイメント小説として完成度が高い作品が溢れているから、クオリティの低さにイライラすることがない。起承転結、つまりストーリーにメリハリがある。推理をしながら読むので頭を使って疲れるような気がするのだが、実際には疲れにくい。25mm程度の文庫本なら一晩で読了してた。俺にとっての推理小説は完全な楽しみとしての読書である。
※実際にちょうど25mmのミステリ小説はないかと本棚を漁った。ぴったりなのが歌野晶午「絶望ノート」だった。
一方で文学作品は読みすすめ難い。優れた作品は心理描写が巧みである。心が揺れ動き、ぐちゃぐちゃになってくる。どっと疲れが押し寄せ、ページを繰る気力がなくなるのである。回復すると読み、疲れると休むの繰り返しで読了する。
生きているあいだに、どれほどの作品を読み終えるのか考えると憂鬱になる。せめて本を読んでいるあいだだけでも時間の流れが止まらないかと願う。
文学作品は映画や漫画で読むほうがストーリーは把握しやすい。しかし、原作を知ると本来の作品の雰囲気を感じ取れる。物語そのものではなく、キャラクターの心の動きを味わえる。
行間を読む
優れた文学作品は、作中に書いていないけど、きっとこうなんだなと推測できるようになっている。その敢えて書いてない部分を補完しながら読みすすめるのは楽しい。同じ文章を読んでいるのに人によって感想が違うのは、それぞれ読み手の経験の違いから響く箇所が違うので補完する内容に差があるからである。
文章を心ゆくまで味わい尽くしていくうちに、お腹がいっぱいになる。重い本とは、そういう本のことである。
文学作品はkindleで読むのが増えた。なので端末の重量以上リアルな重さを感じない。持ち運びが楽ならいつでも読めるような気がするのだが、未だにカフカ全集を読了できずにいる。
小説以外の重い本
言葉遣いが旧い本、ただ単に難解な本、専門書、入門書と書いてあるのに難しい本、全く知らないジャンルの入門書、純粋に凶器となり得る重量の本などである。
これらの本は、目次とはじめにだけは目を通すが、概要を知りたいのか詳細を知りたいのか、個人的な好奇心なのか必要に迫られて調べているのか、残りを読む読まないはその時のニーズによる。
時間オーバーである。1100文字 1時間所要。全く気持ちが乗らないで書いたので文章に迫力がない。文の良さの話ではなく、イイタイコトが感じ取れない。質を安定して書くレベルにないのは仕方がない。
ご近所とのお付き合い
実家の近所の家がいつの間にか更地になっていた。だいたい数か月後にはペンシル住宅が建ちはじめる。古くから住んでいた人が亡くなって、土地が転売業者の手に渡り建売物件として売り出される。
さらに数か月後には、マイホームを夢見る人が汗と涙と血を流して稼いだ金でローンを払いながら住みはじめるのである。数千万円の買い物である。ほとんどの人は一生で一番高い買い物だろう。本当に我が地元に骨を埋める覚悟はあるのか気になるところだ。
木造家屋が取り壊されて、近代的な住宅が建つ。その繰り返しだ。土地はあたかも一つの生命体のように新陳代謝している。停滞を許さないのだ。
そんなことを思いながら散歩をしていたら、間口いっぱいに半透明のビニール袋が土嚢のように積み上げられた家を目にした。以前は普通の家だったのだが、俺の知らない間にゴミ屋敷になっていたのである。3月の風が吹き生暖かい異臭が漂ってきた。左右隣りと向かいの家にとっては最悪な状態である。
ここに限らず、住宅地にはときおり変わった家がある。だいたいはボロボロで手入れがされておらず、植木も伸び放題になっている。ひどいとゴミが溢れ悪臭がしていて近寄りがたい。壁が張り紙や落書きだらけなのも見たことがある。張り紙の文面は極端に偏った主張だったり恨み辛みだったりと様々だ。
文面から、社会や世間、親族や近所の住人に、強い不信や不満があるのだろうと感じる。 きっと近所ではアンタッチャブルな存在として認識されていて、誰もが必要以上に関わらないのだろう。
ゴミ屋敷は、ほとんどが老人の一人暮らしである。いつか死ぬからそれまでの辛抱だ。周囲はそれくらいに捉えていて、まともに向き合う人はいないのかもしれない。
実家の近所の佇まいは、十年前と比べるとせせこましい。庭付き一戸建ての土地が数軒の狭小住宅になっている。北側がスッパリと傾斜した屋根の家が増え続けていて、似たような風景が続く。だが、微妙に少しずつ違いがあるのがミソである。仕上げや材質を変えて、それぞれの家がオリジナルティを主張してるのである。
人間ってのは厄介な生き物で、全く人と同じだと気分が悪いからである。完全な平等が嫌なんだなあと、つくづく思う。個性のない量産品と自分を重ねてしまうからかもしれない。自分は自分の中では特別だからである。
そういった人間の性を知ってか、特別仕様を提案して不必要に金を払わせるのも土地建物を扱う連中の手段である。
「人と同じのイヤなんすよ」「個性が大切なんで、他人とかぶらないようにお願いします」
そんなことを言っている人に限って個性的ではない。俺から言わせてもらうと、つまらない奴である。なるべくみんなと同じようにしようと努力しているのに、そうならないのが個性だと俺は思う。人と違うとかはどうでも良い。それより譲れないこだわりを大切にして欲しい。
そんなことを思索しながら散歩をしているだけで疲れてきた。
俺は疲れやすい。体力が無いのも原因だが、視界や耳からの情報過多による脳ミソのパンクが原因だと思っている。すこしのポジティブな刺激で十分幸せになれる燃費の良さもあるのだが、刺激が強すぎると疲労を覚える。楽しいけど疲れるので、ゆっくりしている時間が長いのである。
気分転換の散歩ですら、風景を観すぎると考えすぎて疲れる。足腰が弱っているのではなく頭が疲れる。
どうやら、俺はHSPってやつらしい。
ご近所同士のお付き合いが苦手なのだ。それなりにコミュニケーションはできるのだが、とにかく疲れるのである。
仕事の話でもなく、趣味の話でもなく、内容の無い噂話や悪口を聞くのが嫌なのである。
俺自身はマンション暮らしだが気楽でいい。引っ越しのときに上下左右の住人に挨拶しなくて良いと不動産屋からアドバイスを受けた。最近はどんな人が住んでいるのかお互い知らないほうが防犯上も良いとされているそうである。
昔なら、お届け物を預かったり、不審者に声掛けするなど隣同士で助け合ったものだが、今では誰が住んでるかも分らないから自分でなんとかするしかない。でも、そのほうが気楽だと思う。希薄化した社会を問題視する向きもあるが、煩わしい近所付き合いを回避したい人も多いのではないかと思っている。
同じ階の住人とはエレベーターで会ったら挨拶くらいはするが、ほとんど口をきかない。そういったドライな人間関係のほうが俺には合っている。コミュニケーションに割くリソースを最小限にできるからである。
濃厚な人間関係に興味がないのではなく、必要以上に関わると疲れるのでセーブするために、敢えて門戸を狭くしているのである。
ただでさえも活動できる時間が少ないのだから、なるべく無駄にエネルギーを消耗したくない。余計な事には近寄らず、敢えて見ないようにして刺激をシャットアウトしている。そういうところが他人から見ると、俺は気難しく他人に興味がないように映るようで人が寄ってこない。
最近は、それこそが俺を守る鎧のようなものだと思っている。お人好しは頼みを断れない。俺に話しかけるなオーラをだすのが生きやすさに繋がっているのである。
自分の機嫌をとるのが自分にとっても他人にとっても幸せだと言う人がいるが、不機嫌そうな雰囲気を出すのが自分の幸せに繋がっているというケースも考えられるのである。
お人好しは人間社会の発展に必要だと思っているし、俺はお人好しな性格に生まれて不満はない。しかし、他人の犠牲になり過ぎないように生きるには、ちょっとした工夫が必要なのである。
俺のようなタイプが精神を病まずに人生を送るには、感じが悪い人にならなくてはならないのである。
なので、近所に住んでる感じの悪いおっさんがいても、特にルール違反をしたり迷惑行為をしていないなら、どうか寛大な心で見守ってやって欲しいと願う。
2300文字 約二時間程度所要
全くなにも準備せず、いきなり書き始めた。日記のようなエッセイのような書き出しで、途中からなにが言いたいのか自分でも分からないまま書き進めた。
自分の頭の中をスッキリさせるには最適な作業である。
もう少し読ませる文章を書きたいが、まだまだ修行をはじめたばかり、上手くいかない。
試行錯誤をして、自分なりの文章を追求したい。