面白かった話を面白く伝えるのは難しい
昨日の続きである。
「それの何が面白いの?」が恐ろしいのである。
オチもなければ笑いどころもない。ないない尽くしの文章を読んでくれる人などいない。読んでいる最中に止めてしまうだろう。つまらないと言われたり、批判されるのが不安なのである。
だから、自虐ネタを採り入れてでも笑いを取ろうと必死になったり、批判されるのを恐れるあまり理路整然とした説教臭い話をするのである。
悶々と過ごすうちに、どうせ俺なんて異常な感性の持ち主だから、面白いと思った話なんて誰にも理解してもらえないと諦めるようになるのである。
小学生のころ、面白かったなと感じた事件を作文にしたことがある。どんな話かは想像に任せるが、ある公園での大したことのない子供同士の遊びである。
皆の前で朗読したのだが、先生を含めた全員の反応に深く傷ついた。
「お、おう」
「そ、そうか」
「で?意味わからん」
ストレートな質問もあった。
「それのなにが面白かったの?」
答えられなかった。いや、答えたくなかった。どこがどう面白いかを説明するのは負けた気がするからである。解説をするほど意味がわからない可能性もある。
「い、いや、俺は面白い話だと思って」
「どこがだよ。それを言ってみろって」
そのときのやり取りを誰もが知っている状況に喩えるなら、田代まさしが「ミニにタコ」と苦しい弁明をしていたのに似ている。本当にお前大丈夫か?みたいな。
その場にいた誰もが俺の作文を理解できないということは、みんなの理解力が乏しいのではなく自分の感覚の問題だということが状況から明らかになったのである。だが、未熟だった俺は、素直に受け入れるだけの余裕がなかった。周囲の責任にしたのである。
もしかしたら、先生も一緒に全員でぐるになって俺をもてあそんでいるのかもしれない。なぜここまでバカにされなければならないんだ。そう考えたのである。
爪が白むほど握りしめた拳が震えていた。心臓がはち切れそうだ。今にも破れそうなほど強く噛んだ下唇を開いて言った。
「もういいです。僕が悪かったです。訳わからない作文書いてごめんなさい」
今すぐに作文用紙を破り捨てたかった。ぐしゃぐしゃにびりびりにしてやりたかった。
涙だけは見られるわけにはいかない。俺は便所にダッシュした。
というような事件が過去にあったのである。
今思えば、みんなはなにが面白いのかが分からないからナチュラルに質問していただけなのだが、子供だった俺は、そう受け取れなかったのである。
俺は神経質傾向である。以前ほどパニックには陥らないものの、今でも他人の反応をネガティブに受け取ってしまう。
不快な思いをしたくないので、つい書くのをためらってしまうのである。
ひとつ、ここで自分の中で面白かった話をする。面白いというのは笑えるという意味だけでなく、興味をそそられたとか、感情を動かされたという意味ととらえていただきたい。
端的に言えば、いとをかし、もののあはれと同じ意である。
だいぶ前に妻と遊園地に行った時の話である。
遊園地駅前の通りを散策したら、昭和の時代にタイムスリップしたような雰囲気のある喫茶店を発見した。朽ち果てた薄汚い軒先に古びた扉。中が判らないほど薄暗い店内に興味を引かれ、ええいままよと勢いで入店したのである。
早い時間なのに客席を見ると先客がいた。
入口の前のカウンターには年代物のレジスターのような機械があり、この店のさらに倍は生きていそうな年配の男が座っていた。
インベーダーゲームの筐体がテーブル席になっている。まさに40数年まえの喫茶店の赴きである。壁には芸能人のサインが所狭しと貼ってある。
遊ぶ前に軽食とお茶でも腹に入れておこうと入ったところが、すげえ店を発掘したものだとこの時点で笑いが込み上げてきた。
メニューをみると食事が充実していた。
もしかして、喫茶店ではなくレストランだったのかと気がつく。そのときは看板がボロすぎて把握していなかったのである。
ホットコーヒーとナポリタンにしておくか。
注文を伝えると、入口に居たおじいさんが皺だらけの顔で言った。
「うちはカレーがおすすめなんですよ。手作りで毎日何時間も煮込んでるんですよ」
「カレーが美味いんですか。でも残念です。昨日我が家はカレーだったんですよ」
事実、昨日はカレーだったから、まったくカレーの線は考えていなかったのである。
店主は俺の話を聴こえていなかったのか、そのふりをしているのか、こう言った。
「うちはカレーが自慢なんですよ。うちに来てカレーを食べないなんて、もったいないですよ」
お、おう。
「ではカレーとコーヒーを二人前お願いします」
ここまで言われると気になるものである。ナポリタンを注文してもカレーが運ばれてきそうな雰囲気ですらある。おとなしく従ったほうが身のためかもしれない。むしろ店主の言うがままに合わせ、対話を楽しむべきな気すらしたのである。
Dr.スランプという漫画で作者(ガスマスクを装着したロボットみたいな姿)が木緑あかねの家族が経営する喫茶店に入ってコーヒーを注文したら、もっと高いのを頼めよと脅され、カツカレーを注文したらスプーンを渡されなくて「あの、スプーンは」と尋ねたら「ねえよ」と軽く一蹴されて犬食いするエピソードがあったのを思い出す。
いつの間にか、この呆れるほど昭和の匂いを残したままの喫茶店を守りたいという義務感にすら目覚めてきたのである。この空間に存在する一種独特の雰囲気に当てられてしまったのかもしれない。
カレーが運ばれてきた。ついさっきまで眼中になかった人が、実は長年恋焦がれた相手だったかのような錯覚を覚えるほどの感動をどう伝えたらいいのか考えながらスプーンをカレーの海に沈める。
店主に聴こえるように大きい声で妻に語りかけながら、俺はカレーがどれだけ美味いかを伝えた。
わかってもらえたであろうか。
カレーがかぶっているのにゴリ押ししてくる店主と、言われたまま従う自分。
無理にカレーを頼んだのではなく、やりとりを面白がっているのである。
さらに店の怪しい雰囲気が個性的で、それが滑稽さを助長しているのである。
別にオチがあるわけでも発見があるわけでもないが、敢えて言えば面白い場所を見つけてしまって、しかも、カレーが被るという偶然の連続性と、他の注文を無視し昨日もカレーだったのも無視し、ひたすらカレーを推してくる店主のキャラクターが面白いのである。
筆力があれば、この話を面白おかしく語れるだろうが、俺の実力ではとても無理である。
このニュアンスを受ける力。つまり感受性が豊かな人にならわかってもらえるような気がするし、そう信じるのである。だから、わかってもらえないと悲しいし、自分が悪いのだと思ってしまう。
読み手の感受性に頼るのは甘えなのか。より洗練した文章を書けば、伝える力は強まるのだろうか。事実を伝えるだけの問題ではなく、書き手としてはニュアンスというか、そのときに書き手が感じたことを読み手に追体験して欲しいわけで、そこに意味を求めるのは間違っているような気もするのである。
約2700文字 約3時間所要
1時間だいたい1000文字弱である。作文用紙2枚半。練って書くと、さらに時間を要する。上手い文章をさらっと書けるようになるには道は険しい。
ましてや、寿命が尽きる前に、書いた文章が人の胸を打つようになるとは到底思えないのである。