文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

「~こと」はいらねえから削ろうぜ

今回は、原点に戻って「文章練習」そのものについて書いてみる。

恥ずかしいことに、普段から新聞を読んだりネットで調べ事をしたりと文字に触れる機会は多いにも関わらず、意外と文章を綴るお約束を知らなかったのである。

 

 口語体 話し言葉と書き言葉

言文一致運動を経て現在では口語体が書き言葉の文体となり、口語体のなかに話し言葉と書き言葉があるのは周知のとおりである。

文語体の表現は、現在はあまり使われていない。とはいえ、古い書物や時代物の登場人物のセリフとして、「ならぬ」とか、「できぬ」とか、「~すべく」、「~にて」などの言葉を見かけるので、なんとなく知っている言葉も多い。調べればすぐにわかることなので、ここではこれ以上触れない。

口語体というと話し言葉のようだが、話し言葉ではなく書き言葉である。ややこしいが、要するに、話し言葉に基礎をおく書き言葉の文体が口語体である。

話し言葉は書き言葉に変換して綴るのが基本である。

 

文章を書くルールをまとめると、

まず、現代文は口語体である

つぎに、現代文では文語体を用いない

さらに、文章を書くときは、話し言葉を書き言葉に変換して書く

 

つまり、口語体と文語体の違いと、話し言葉と書き言葉の違いを熟知していないと、洗練された文章は書けないのである。

にも関わらず、書き言葉と話し言葉の明確な定義がなされているわけではないので厄介である。とはいえ、有名どころを押さえておき、最低限は外さないよう心掛けるべきではある。

 話し言葉で綴ったSNSは親しみがあり読みやすいのが利点だが、良い文章に触れるという意味では適切ではない。

ビジネスメールや公的に発信する文章を書くのなら、書き言葉で綴りたいものである。

 

常体と敬体

「だ体」、「である体」が常体で、「です・ます体」、「でございます体」が敬体である。

この文章は、読めばわかるが「である体」で書いている。ときどき「だ体」と混じるのは、どちらが適切な語尾か分からなくなるからである。

一方、敬体は間違えにくいだろう。ほぼすべての文章は「です・ます体」である。

きょうび「でございます体」で書く人など、村西とおる監督ぐらいである。

 

ここまでは教科書通りの進行である。ここからは、思いつくまま書き進める。

 

~こと 

「学生の卒業論文を読んでいると「~こと」ばかりだ。コトコト、コトコト、うるせえんだよ!コトコト煮込んだスープじゃねえんだよ」と、どこかの大学教授が吐き捨てるように言っていた。

素人の書いた文章を読んでいると頻繁に遭遇するのが、「~こと」である。

「することができる」とか、「~ということだ」、などと使用しているのだが不要な言葉である。なるべく必要のない言葉は削ってわかりやすくするべきである。

ついついプロも書いてしまうようだが、推敲で削ってから納品する。

会話だと、わざわざ不要な「〜こと」を使うのだから、何かしらの理由があるに違いない。

なぜ、「~こと」が出現するのだろうか。俺なりの見解を示そう。

一般的に、くだけた口調で話すときは「行為+こと」で、その行為を強調する意味合いで使うのではないかと推察した。

例えば「将棋の勉強をすることを頑張ろうと思う」のようにである。「将棋の勉強を頑張る」より、「将棋の勉強をすることを頑張る」ほうが、勉強を強調しているような気がするのである。

意味なら「将棋を頑張る」で通じる。将棋が強くなるために努力すると伝わるからである。しかし、勉強することが、話者の伝えたいパワーワードなのである。

 

俺はここ数日間、ラジオパーソナリティやテレビタレントのフリートークを注意深く聴いていた。予想通り、高頻度で「~こと」を言っているのである。

では、なぜそれを文章に投入するかというと、「~こと」と行為を限定して厳密にしたい感情の表れだと推察する。

 

話者は自分の話したいことだけを話す

会話では、話者はそのときに一番伝えたい情報を話そうとする。

最も言いたいことを話すので、順番や抜けを意図的に無視して話す。要点だけを話せばいいのに、一から話さないと気が済まない人や、オチだけ話すので過程が分からない人など例を挙げるとキリが無い。

不明な点を指摘されてから話すのは、すでに相手は知っていると思っているからである。会話は自分目線になるケースが多いのである。

 

会話には、「話したいことから話すから、わからない部分があったら聞いてよね」という緩さがある。

書き言葉と違って思ったことから言ってもよいし、日本語の文法にやや間違いがあっても聞き流す習慣もあるし、敢えて話すべき話を話さなかったり、どうにでも解釈できる言い方をわざとして有耶無耶にするテクニックも存在するくらいである。

そういう癖や習慣が人間にはあるから、注目して欲しいワードをオーバーに表現したいがために、行為に「~こと」を足して話すのである。

「~こと」が、やたらにあると悪目立ちする。しかし、つい書いてしまうのは厳密性を高める表現のような気がして、文意が伝わる気がするのである。

我々が文章の完成度を高めると勘違いさせる要素を「~こと」はもっているのである。

文章は書き言葉で綴るのがルールであるのにも関わらず、話し言葉を(脳内で話したのも含む)変換せずそのまま「〜こと」と文章にしてしまうのは上記のような心理が働いているからである。

 

 

ついつい書いてしまう「~こと」。

こんなつまらんことを書いているだけで1900文字 一時間半を要した

しまった!「~こと」を最後に書いてしまったぜ。最後のツメが甘いのが俺である。

 

思いつくまま、ざっとしか書いてない。もし、この記事を読んで文章について学ぼうとしているなら不毛である。あなたは検索ワードを間違えたのである。すぐにブラウザをバックして高質なサイトを検索した方が良い。

これは俺の個人的趣味で書いている記事である。誰かの役に立とうとか、高尚な理由で書かれた記事ではないのである。

 

また文章の書き方をおさらいしたい。

次回は、「受動態はなるべく使うな」。あるいは、「人称について」をお送りする予定である。

そのうち語彙や文体についても考えてみたい。