文章練習

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物語の悪役に同情する感受性がある人とない人

今回はあまり時間がないので、メモ書きのつもりで書いておく。

 

物語の悪役に同情する感受性がある人とない人についての考察がテーマである。

シェイクスピアの戯曲を読んでいると、その感受性に惹かれる。

マクベスのように自らの悪により破滅する人物は愚かであるが、だからこそ人間の弱さをよりリアルに感じ取れるのである。

ベニスの商人シャイロックのように悪人と決めつけられて、悲惨な結末を迎える人物もいる。俺の意見を言うと、アントーニオのほうが嫌な奴である。

 

判官びいきという言葉がある。第三者が不利な側に同情することである。

どちらか一方に優位性が偏ると、優位な側と自身の考えを結びつけるタイプの人と、不利な側に味方をして無意識にバランスをとろうとするタイプに分かれる。

話を分かりやすくするために具体的な例を挙げると、あまり政治の話をしたくはないが、自分の支持する政党以外は不要だから議席が無くなればいいと考えるタイプと、暴走を防ぐストッパーとして、あるいは監視役として、野党の存在が絶対に必要だと考えるタイプがいるという話である。

前者は、弱った悪者が非道な目にあっても自業自得だと考えるのである。戦いも一切容赦しない。迷わず殺すのである。

後者は、悪が存在する意味を考える。悪とはなにか。敵とは利害対立の関係だが、相手からすれば自分も同じことである。そもそも敵は悪なのか。そこまで考えたうえで殺す。

 

情状酌量の余地があれば、裁判では減刑される。それが正義である。以前にも書いたが、正義とはバランスをとろうとする意志である。

これも以前に書いたが、優しくて強い人と、お人好しは違う。

優しくて強い人は仲間に対しては思いやりに溢れているが、敵対するものには容赦しない。

北斗の拳ケンシロウは優しい。しかし、敵には一切の情けをかけない。それでも話が成立しているのは、作者が意図的に情状酌量の余地のない卑劣漢ばかりを登場させて、敵が死んでも同情されないようにしているからである。作者はその部分を描きたいのではなく、別のテーマをクローズアップしたいのである。

 

お人好しは、たとえ敵対するものであっても、損得勘定抜きで同情する余地があれば憐れむ。

そのような行いが愚かにみえる場合もあるが、それこそが寛容性なのである。

その寛容性のおかげで命を失った歴史上の人物は多いが、だからこそ歴史に名を残したのである。カエサルは寛容であったため、ブルータスはなんども背いたにもかかわらず許した。その結果暗殺されたのである。

 

純粋な強さを求めると、一切の仏心は不要になる。わかりやすく言えば、ゴルゴ13のようなキャラクターになるのである。ゴルゴは正義とか悪とか、そういう視点で物事を判断しない。彼からすればターゲットは人間ではなく、動く標的にすぎない。だから、我々とは感覚が違い過ぎて全く参考にならない。

 

弱った敵を前にして、「自分にとっての敵だから殺す」からスタートしているのに、罪悪感を覚えたくないあまり、悪だから殺されても仕方がないんだと思うようになる。自分の悪を自己弁護するようなものである。あいつを殺せと扇動する雰囲気によって、これから行おうとする行為が正しいものに感じてくる。

しかし、よく落ち着いて考えてみればわかる。自分にとって許せない敵なのと、どの角度からみても完全に悪だというのは全く違うのである。

敵を悪だと決めつけて、その自覚がないのは危険である。

自覚があって意図的にやっているのなら悪質だが、それは人間の性だと考える。

しつこいようだが、繰り返す。力を失った敵に対して、悪い奴だから殺されても仕方がない、非道な目にあっても自業自得だと決めつけるのはよくないのである。

お人好しの存在こそが、戦争のような有事の際にストッパーとして必要になるのである。

 

1500文字 約一時間程度所要

支離滅裂である。なにが言いたいのかよくわからない文章になってしまったので、それなりの結論のみ出した。発見はない。なんとなく頭にあった言葉を吐き出したに過ぎない。

デフラグのようなものである。脳の負担が若干軽くなり、明日から別のテーマを考える余裕ができたと思うしかない。