問を立ててみる
今日はあまり時間がない。なので、長文を書く余裕はない。
そこで宿題を作成することにした。
とある問いを自分自身に投げかけ、明日まで考えてみようと思う。
利他的な行動が、最終的に自己の利益となって返ってくるとしたら、それは利己的な行動なのでは?という疑問がある。
いつの時代も世界のどこかで幾度となく考え尽くされている厄介な問題である。
子供のころに、それに似た疑問をもったことがある。
愛する人を失って(亡くして)哀傷に満ちた涙を流すのは、誰のためなのか。
故人を思慕し愁嘆にくれたときの条件反射なのか、あるいは、自分を愛してくれていた故人を失った悲痛なのか。
純粋に故人を偲んで流した涙なのか、あるいは自分自身の為に流した涙なのか。それは愛慕の情なのか、失った(ロスした)悲しみなのか。
あるいは全てが入り混じった複雑な感情なのか。
もし、自分の為だけに流した涙だとしたら「美しくない」と、そのときそう感じたのである。
悲愴とはなんだろうか。
親や配偶者、子、兄弟姉妹が亡くなると、現実的な問題にさらされる。残された者たちで生きていかなくてはならないからだ。今後の自分や家族のことを思うと不安や恐怖のあまり絶望することもある。
理不尽な理由で亡くした場合は原因に対して怒りもある。
なぜ私を残して死んだと「故人の死」に対し怒りを覚えることもある。
それらすべてが瞬時に過って混乱のあまり反射的に涙することもある。
約500文字 20分程度所要
この駄文を綴る企画は行き当たりばったりなので、時間配分を間違えると短文で終わる場合もある。とはいえ、事前に文章を準備しようとは考えていない。
その瞬間の考えを文章としてアウトプットするのが俺にとって都合がよいからである。
調子が乗ってくると、勝手に指が動き始めて文章が紡がれてゆく。
テーマは極論どうでもよく、そのときに関心があることでいい。どうせ誰も読まないのだから。
推敲もしない方針だが、ただ書き連ねているだけでは能がない。コツコツとではあるが、技術的な部分はアップデートしている。あくまでも自己判断であるが、僅かずつではあるが読みやすくなっている。そうでないと書いている意味がない。
読みやすくても内容が薄ければ意味がない。読み難くても内容があればいいのだが、読んでもらえない確率が高い。
読みやすくて内容が深い文章を書く意味はある。
考えを伝えたり、思いを受け取ってもらうには、芸術的な言語や絵が一番である。
芸術は時間と空間を超えて多数の人に影響を与える。
俺の書いたものがそのレベルには達しないのはわかりきっているが、目標は高くもったほうが良い。どうせ叶わないなら、高い目標をもったほうが近づける気がするからである。