文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

なぜ文章を書く練習をするのか

 なぜ文章を書く練習をするのか

それは、事実をただ伝えるだけでは不十分だからである。

以下、事実以外を伝える目的の文章をダダッと書いてみる。

 

憂鬱な午後の昼下がりだ。日曜日だというのに空は鉛色で、雨は降らない予報だけど北風がぴゅーぴゅ―吹いている。厚着をして出て正解だった。乳母車に乗った娘は心なしか元気がないようだ。いつもだったら足をぶらぶらしてはしゃいでるのに。家から誰とも会うことなく公園に着いた。公園といっても、けやきの木が一本真ん中に植わっているだけの殺風景な場所だ。そこは日陰になっていてベンチも遊具もないので誰も来ないのが気に入っている。わが物顔でぺちゃくちゃ近所の主婦がおしゃべりしている社交場がイヤなのだ。とくにタバコを吸う人種が嫌いだ。このあいだも娘がタバコの吸い殻を拾って、あやうく食べるところだった。払いのけたから食べずに済んだけど、ショックで娘が泣いてしまった。娘が短い手足をちょこちょこ動かして歩いている姿を見ているだけで幸せだなと感極まって涙が零れてくる。こんなに幸せでいいのかと不安になってくる。

突如、過去の忌まわしい記憶が蘇る。あいつら3人組にされた酷いことを思い出す。中学時代の地獄だったあの頃のことを。女子トイレに呼び出されて、制服を脱がされて土下座を強要されたときの惨めな記憶がフラッシュバックする。下着をゴミ箱に捨てられ履かずに家まで帰った日の屈辱を考えるだけで今でも体が震える。なんであいつらは今でものうのうと生きているの?

SNSで知った。あの女に子供が生まれた。あんな奴でも人の親になれるんだ。生まれた赤ちゃんに罪はないけど、あんな奴が親になるのは許せない。私がいま味わっている幸せをあいつも味わうなんて不公平だ。でも、なんで、こんなに穏やかな気分なんだろう。

敢えて忌まわしい記憶を心に刻み付けよう。娘を抱き上げながらそう決意した。

 

 

上記テキストは、ある状況の心の動き、所謂意識の流れっぽく描写したものだが、まあ、はっきり言ってつまらない。

直接的な感情表現を避け描写表現だけで読者に悟らせる技術や、もっと情感を伝えるテクニックがあれば読めるようにはなる。もちろんフィクションなので事実ではない。しかし、文章の中には伝えたい本当のなにかがあって、そのなにかは間違いなく存在はするのだが言い表すのが難しい。

つまり俺は、頭の中にモヤモヤしたものを他人に伝わるよう言語化する技術を高めるために文章練習をしているのである。

 

物語れるのが人間の最大の特徴

サルなどの霊長類は仲間で高度コミュニケーションをとるのは良く知られている。ミツバチもダンスで仲間に情報伝達しているのも有名な話である。

しかし、言語を使っているのは人間だけだ。言語とその他の伝達との最大の違いは、概念や虚構について語れることである。言語があるから、神のような概念でしか語れない存在を伝えるのが可能なのである。さらに、言語は時をワープし距離を超えて伝わる。だから物語れるのである。

人に何かを伝えたいとき、生の事実だけでは伝わりにくい場合がある。なので事実に手を加える。

リアル+フィクション=ストーリーなのである。

俺たちは日常的に話題性を高めるために話を盛ったりするが、それでイイタイコトが伝わるならいいじゃん、というスタンスが小説だと思う。俺たちでは主語が大きいと思うなかれ。俺たち人間は話(自分の体験や人の噂)を盛っている。でないと、つまらないからである。

そのうち、事実と真実の違いの話などもしてみたいと考えている。

 

約1500文字 約二時間所要

構想はウンコタイムや移動時間を利用した。簡単なメモだけ用意して書き始めた。なので事実関係の裏はとっていない。文学等の専門的な勉強をした人が読むと噴飯物かもしれないが、普段から考えている理論を書き連ねてみた。とにかく俺はこう思っている。

言語能力は持って生まれた資質とか、それほど関係ない。使えば使うほど発達する。読書だけでも語彙は増えるが、書かないと書く技術は高まらない。だから書く。バカにされようが書く。読み手を意識して書いているが、読み手が欲しくて書いているのではない。

大事なことだから二度言うが、俺は頭の中にモヤモヤしたものを他人に伝わるよう言語化する技術を高めるために文章練習をしているのである。