書こうと思うほど書けないことがある
さて、本日も記事を書こう。昨日は休んでしまった。ときどき事情があって記事を書けないときがある。
三日坊主の原因の一つには、一度でも休むことによる諦めがあると思う。なので、休もうが自分のペースでコツコツと続けていきたい。
しつこいようだが、もう一度このブログを続ける意味を整理しておきたい。
あくまでも文章を書く練習である。技術的なこと、つまり文法およびタイピングの取得がひとつ。これは書かないと身につかない。もう一つは精神的なものである。どうしても人前に晒すとなると拭い取れない抵抗があり、リハビリのつもりで書くしかないと思っている。
本来ならチラシの裏にでも書くような文章なのだが、そこはまあ、読まない自由もある。検索エンジンで当記事を間違ってクリックしたなら戻ればよいわけである。そういう部分においては開き直りがあるから、中世ヨーロッパの排泄物のようにネット上に垂れ流すのである。
なのに、文章にリラックス感がまるでない。常に誰かの目を気にしている。それは、狼が噛みついてくるかもしれないと怯えている兎のような心持ちだからである。
なぜかというと、俺は被害妄想が強い性質だからである。色々と考えすぎてしまうのである。
性質といえば、MBTI診断という性格診断テストがある。だいぶ前にだがやったときの話をしよう。
これはネットでも診断ができる。
このテストは、性格というより気質を判定してくれる。
詳しいことは勉強していないので知らないが、人間の気質を大きく分けると16になるらしい。
俺はINFPというタイプであった。かなり当たっているとは思うが、ポジティブな面にしか触れていないのが気になる部分である。もっとネガティブな面についても書いて欲しかったと思う。
もう少しだけ詳しく知りたかったので、どういうものかググってみると、こんなワードが現れるのである。
他の人はこちらも検索
いかにも悪意を感じるワードの羅列である。だが否定できない。する気もないが。
クズ。社会不適合。そのとおりである。なんで俺のことをこんなに知っているんだと驚いてしまった。
INFPについてブログで触れている人も多かった。読みやすく有益な情報を記載していたから、このブログに検索で来た人は他所に行った方がいいと思う。
楽しいことを沢山書きたい気持ちはある。が、書けないのである。
好きなことを書くのなら簡単だと思うだろうが、そうではないのである。
心の中を晒すのがイヤなのである。イヤというより恐ろしいというか抵抗がある。語りたい一方で知られたくない。矛盾しているようだが矛盾ではない。
好きなことを語る相手は慎重に選びたいのである。間合いを量りながら出方を窺い、自分からは攻めない。
否定されたくないからである。だから予防線を張って、敢えてそのことに触れないようにするのである。そうやって長く生きてくると、好きなことを語るのにすごく勇気がいるのである。
俺の好きな話を相手が黙って聞いてくれる保証がないと思っている。
むしろ、途中で茶化されてバカにされたり、気持ち悪がられたりしたくないので、周囲で流行っているが全く興味がないことの話に付き合い、いかにも興味あるフリをし続けるのである。あくまでも受け身の姿勢である。
逆に、詳しいことや興味あることについて聞かれると挙動不審になる。そんなに好きでもないし、詳しくないと答えるのである。
どんな趣味にも社会があって、派閥争いがある。そういうのに巻き込まれたくない。関わり合いたくないと適当に対応していると、いつのまにか八方美人と評価されどちらの派閥からも嫌われるのである。
そういう歪んだ人間関係に心底ウンザリしている。迷惑を掛けるのも掛けられるのも御免被るのである。
だから、いつの間にか好きな事について話をするのは自己完結してしまったのである。
ネットで明かすのも考えたし、実際そうしようとしているのに書けないのである。
ブログにコメントをいただいても、返事するのがストレスである。誰とも語りたくない。
理由は、ほんの僅かな摩擦でもめ事になるのを知っているからである。考え方や嗜好の違いで、ケンカを吹っ掛けられるのが本当に迷惑だし、それならこのブログを読まないで欲しいと思っている。前述したように読まない自由もあるのである。
名指しで誰かを侮辱するなど公序良俗に反する文章を書かない限り、読者と意見の相違があろうと、本来俺には意見発信する自由があるのである。
俺とこのブログを批判する自由は誰にでもある。しかし、ここのコメント欄にではなく、自分でブログを立ち上げてするべきである。
だから、これからもクソみたいな文章を、一方的に垂れ流し続ける。誰かに響いて欲しいわけでもない。この記事を読む人が皆無であってもいい。ネットのどこかで批判されようが一向に構わない。
とにかく今は、自分のためだけに書いている。そんなチラシ裏のようなブログがあっても良いだろうと思うのである。
今、この瞬間でも、好きな事を書く意欲は褪せていない。たくさん好きな事はあるのだが、大事なだけに人に晒すのに躊躇している、そんな感じである。
ここまで2100字、やく二時間。とにかくミスタッチが多い。イライラしてくる。
俺は何を書きたいんだろうと自問自答する。思いつくまま書いていくから、文章がカオスの様相である。
なにかカッコイイことを書きたい。スゴイ文章を書きたい。そう思っていると何も書けない。そう、何も書けないのである。
O・ヘンリーの小説で最後の一葉という話がある。
一階に住んでいる偏屈な画家の老人は傑作をものにするといつも言っていた。が、カンバスには最期まで何も描かれなかったのである。
なんで老人は何も描かなかったのか。俺の想像だが、いつか傑作を描くと思い続ける限り、創作の苦しみを味わうことなく、可能性に縋りつくことができるからではないだろうか。傑作の最初の一筆をカンバスに振り下ろすには勇気がいるのである。
しかし、いつか描くであろう傑作の構想を練ろうとしている時点では、まだ形になっていないだけで、未来には傑作があるはずだという可能性がある。だが、その傑作を描いたあと、人々の称賛を受け名誉を手にするあたりまで想像が及ぶと、とたんに恐ろしくなる。自分にそこまでの実力がないと心の中では認めているからである。そのギャップを埋めない限り、傑作を生みだすことができないと理解しているのである。
とはいえ、老人は最期に素晴らしい作品を描く。どんな作品かは読んでのお楽しみである。
とにかく、俺に出来るのは自分の実力通りのアウトプットをして、それが自分だと真摯に受け止めコツコツと続ける。それだけである。