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復讐について考えてみた

復讐について考えてみた

 

復讐を題材にした物語は多い。この間読んだ漫画も復讐劇だったのだが、読んでいて思ったことがあったので書いてみたい。

 

復讐というのは、仕返しのことである。理不尽にもいじめっ子に酷い目にあわされた経験がある人なら、誰でも一度は考えたことがあるだろう。

やられたら、やり返す。言うのは簡単だが、これができないから復讐したいわけである。

その漫画の主人公は、骨格レベルで見た目に難のある女性である。子供のころから見た目で差別され、親も含めて誰からも優しくされることなく生きてきた。とくに高校のときに三人の同級生から酷いイジメを受ける。

大人になっても見た目で差別され、自分なんかこの世にいないほうがいい、せめて臓器提供して人の役に立って死のうと決心する。しかし、臓器提供の手術のはずが権力者の娘そっくりに美容整形されてしまう。美しく生まれ変わった姿をみて喜ぶ主人公。今後は身代わりとして生きることになるのである。

権力者は主人公の身の上にいたく同情し、お抱えのヤクザをつかって復讐を勧めるのであった。主人公はヤクザを使って、三人のうち二人を自殺に追い込む。主人公は、いままでは簡単に死なれてしまい、彼女らが苦しみ反省する時間が少なかったと不満を漏らし、三人目の主犯の女には地獄の苦しみを味わわせて反省してもらいたいとオーダーするというストーリーである。

この話じたい、よくあるストーリーである。百田尚樹の小説にも同じようなのがあった。顔に難があるというのは、こういうと申し訳ないがブスのことである。

本人には全く責任がないのだが、彼女らの親の責任でもない。理不尽だが、誰のせいでもないのである。しかし、世間の風当りは強い。理不尽な扱いを受けるのである。

ここで強調したいのは、これらの作品の共通点として、これは酷いと思うくらいにブスと描写されている点である。美人とそうでない人がいるのは仕方がないが、ブスの度が過ぎているのである。

むしろ、そういった人には心情的に優しくしてあげないとならないと思うのは変であろうか。とはいえ、優しくしてあげる理由が、「あなたが度が過ぎるほどのブス」だからでは失礼である。

なので俺は、顔面に難があるなと思った人には、本気で人間は顔ではないと思って接することにしている。つまり、顔面については一切考慮せず、他の面で素晴らしい部分や尊敬できる部分を探すのだ。とはいえ、まったく恋愛対象にはならないので、そこは勘違いされないように一線引いて関わるのである。

 

でだ。ブスに接する態度の話は、なんとなく流れで書いただけである。これから書きたかったことを書く。

この物語に出てくる三人目の主犯の女は、割と普通の主婦である。ぱっとしない男と結婚し、旦那によく似た可愛い男の子が一人いる。まあ、描写の限りでは良く出来ているわけではないが、ちゃんと妻をやっているし母をやっているのである。慎ましく家庭を守っている姿をみていると、正直、復讐なんてバカなことして欲しくないなと思ったのである。

男の子を妻の実家に預けてから復讐タイムがはじまったのは主人公に残された良心である。読者としてはホッとした。子供まで復讐に巻き込んでいたら吐き気をもよおして読むのを止めていただろう。ちなみに旦那のほうはハニートラップに嵌ったので自業自得である。

復讐はバランスをとろうとする行動である。だから復讐自体には共感できるのである。

しかし、復讐には、適切なタイミングと内容があって、それがズレているとバランスがおかしくなるのである。

年数がたてば状況も変わる。復讐で影響を受ける人間の中には全く無関係の者がいる。子供などだ。生まれてきた子供には何の責任もない。かれら子供に被害が及ぶような復讐は明らかにやりすぎな復讐である。

殺しちゃうのもやり過ぎである。積もりに積もった恨みをいっぺんに返そうとすると、死以外ではつり合いが取れなくなるのではと思うが、命を奪うのはやりすぎだ。

よく「一回は一回だからな」と言って、軽くぶつかっただけなのに思いきり殴ってくる奴がいるが、それは理屈として間違っている。回数だけの問題ではない(子供のころの俺は、一回は一回というジャイアン的な理屈が正しいような気がしてしまい、これ以上被害が増えるまえに自分自身で納得しようとしてしまっていた)。

理不尽な思いをした代償として加害者には厳罰を望みたいのだが、現在の司法では私刑は許されていない。加害者が刑事罰を受けたとしても、被害者や遺族からすると、ぬるい刑だなと感じる。要するに、やったもの勝ち的なものがあるのだ。

自分が受けた被害を、正確に加害者に味わわせるシステムはないからである。

ふてぶてしく反省の色がないと、死ぬほど苦しめないと帳尻がとれないと思うのが人情である。やられた方は倍返しでも足りないと思うし、第三者からみたら、仕返しとはいえやり過ぎと思うときもある。

被害には、外国為替のようにレートがあるわけではないから、数値で表すのは不可能である。本来ならお金で補償することはできない。しかし、金を貰っても気は済まないが、そうするしかないのである。

「目には目を、歯には歯を」は有名な言葉だが、これはやられたら同じ部分をやり返せではなく、同等程度の損害をもって報復とする、という考え方である。とはいえ、問題がないわけではない。

江戸時代の仇討ちも報復であるが、あくまでもルールに則ったシステムである。

長幼の序があり、主君や親、兄など目上のものの敵以外には認められず、幕府への申請が必要だった。仇討ちの仇討ちは許されず、また返り討ちの仇討ちも許されていなかった。つまりが、恨みっこなしということである。

正直、仇など討ちたくない侍もいただろう。しかし、仇を討とうとしないと名誉に関わるので嫌々仇討ち申請をしていた者もいたのではないだろうか。助太刀を頼めるとはいえ、腕に覚えがないと返り討ちにあう可能性も考えると、よほど殺してやりたいくらい憎んでないと仇討ちなどしたくないからである。

どうしても殺したいなら刺し違える方法がある。刺し腹といって、相手を指名して切腹すると、指名されたものも切腹しないと不名誉になり、生命、社会的生命のどちらかを確実に奪えるのである。

 

復讐は連鎖する。どこかで断ち切らなくてはならない

しかし、やられたままで、何一つやり返さないのは不満である。できれば加害者にも相応のペナルティを与えたい。そうでないと均衡がとれない。そうでないと気持ちが悪い。

加害者側が被害者に「これで水に流してくれ」といって、金銭などを渡してくることがあるが、被害者からすれば、水に流すというのが気に入らない。許すことがあっても、決して忘れたくないのである。

被害者は加害者に法律以上の復讐はできない。法が裁いたら、すべてを水に流して忘れましょう、復讐ダメ絶対という世の中になったのなら、先ほどのブスは報われない。ブスなだけで苦労をして、何もいい思いをしていないからである。せめて、なにか法律スレスレの嫌がらせくらいはしたら?と思うのである。

理不尽をどう受け止めるか。被害者からすると、加害者が死ぬほど苦しみ後悔している姿をみて、自分の被害と同等だなと感じるまでは許せないのだが、それを実行してくれるシステムが合法的に存在しない。時代劇の必殺仕事人が人気があるのは、やはり晴らせぬ恨みを晴らしてくれるからであろう。反省のはの字もしていない悪党が殺られると観ている側はスッキリするのである。

許そうと思うのは自分自身の心情の問題であって、それを加害者が許してもらったと考えるのは間違いである。人を憎む苦しさから逃れたいから許そうと努力するのであって、あくまでも自身の精神を保つためである。加害者側には自分と同等以上に苦しんで欲しいのである。なのに現実と希望が乖離している。だから苦しいのである。

その苦しみから解放されるのは、加害者が罪を深く認識して反省して苦しむ姿を被害者が見て納得したときである。しかし、そんなことはほとんどない。

 

世の中やったもの勝ちのような気がするのだが、こういった復讐ものの作品が次々と登場して無くならないのは、やったもの勝ちを絶対許せないと考える人間が多いともいえる。

いっぽう、エンターテインメントとはいえ、明らかにやり過ぎな作品も多いが、それはある意味正しい。人間の本性はそんなものだからである。たとえば、ラース・フォン・トリア―監督の「ドッグヴィル」は胸糞悪い映画だが、すべての出演者が非道徳的な人間だとしたらという問いに対する回答といえる。

人間の復讐心を描いた作品を鑑賞し、人間の本性について考える機会が増えるのはいいことである。

 

ここまで3400文字 所要約3時間

書き始めると割と集中できる。駄文を連ねているだけで楽しい。いちおう仇討ちについては若干調べた。間違いがあるかもしれないので、真に受けて人に話すと恥をかくかもしれない。出版物のように校正入った文章は別だが、ブログの記事などは必ず裏を取ってから人に話した方がいい。