文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

努力の信者

自身の成功を、全て努力によってのみ得たと勘違いしている。
よく天才と言われるが、そうではなく努力をした自分を認めろというわけだ。
私はそのような人を「努力の信者」と呼んでいる。
 
東大を主席で卒業。学生時代に司法試験に合格し官僚となるが、現在は弁護士として働いている才女の文章を先日見かけた。誰が書いたかは重要ではないので伏せるが、概ね大意はこうだ。
 
私は天才ではありません。しかし、経歴は努力でもぎ取ったものであり、それは誰にも負けないと自信を持って言えます。
 
天才でなくても誰にも負けない努力をすれば素晴らしい経歴をもぎ取れるのであれば、報われなかった人は努力不足ということになるし、そもそも本人の持って生まれた特性や環境の影響を無視しているのではないか。
 
たしかに努力は物凄くしたのだろう。それは認めるが、自分の努力だけでここまで結果を出した、そのことを誇りに思うみたいな意見に違和感を覚える。
 
その理由を説明しよう。まず、入試や資格試験のような一定数しか合格しないものであれば、全ての受験生は必死に努力して勉強したと容易に想像できる。その物言いでは合格できないのは努力不足だ、と不合格者を否定していることにならないか。
試験結果は努力ではなく得点の高低を示すものだから「私は学力に恵まれていた」と言うべきだろう。
 
つぎに、環境はどうであったのか。大学に通える程度は金銭的余裕のあるご家庭であったと思われる。もし、貧困家庭に育ち、生活のためにフルタイムで働いていたのなら、東大に合格できるレベルの勉強をする時間は取れたのだろうか。
学問に打ち込める環境は大きなアドバンテージである。親の財力や学問に対する理解度などが必要だからだ。
また、本人に生活の質を大きく下げる病気や知的、精神障害はあったのか。あれば試験に合格するどころか、学問すらできないだろう。
 
つまり、様々な要因に恵まれていた、だから努力ができたのである。そもそも、自身が頑張った、努力したということは人に吹いて回ることではない。周りがみて思うことである。
素晴らしい経歴を手に入れられた環境と運に感謝する謙虚な姿勢が肝心だと思う。
 
誰もみな得意不得意がある。自分が苦手なことが得意な人もいる。努力したから今があるというのは真実だが、成果を上げられたのは努力のみではないのも真実なのだ。