他人の善意に甘えられる社会
カタカタの時間がやってきた。手短に済ます予定である。
今日のテーマは、他人の善意に甘えられる社会である。
俺を取り巻く社会全体に息苦しさを覚えることがある。
僅かでも落ち度があれば責められ、不用意な行動の代償は高い。
個人の権利を尊重するあまりに、親切が仇となるケースが多い。
本日あった出来事を書く。
クルマで移動中の出来事である。交差点で信号待ちをしていたら、歩道に1,2歳の子供を連れた女性がいた。子供がガードレールの真ん中のフレームを乗り越えようと片足を踏み込んでいるのに、母親はスマホに夢中で気がついていない。俺は信号が変わるその時まで見守ることにした。
少しでも車道側に入ったら「あぶないよ!」とMAXパワーの音量で叫ぶつもりで身構えた。
仮に面倒に巻き込まれようが、そんなのは関係なかった。それよりも子供の命のほうが大切だからである。
幸い母親が気がついて、子供をガードレールから引き離して移動しはじめたので、ほっと胸を撫でおろし交差点を後にした。
この母親のミスを責める気など毛頭ない。それよりも、子供が危険だと気がついた者が見守ればよいのである。
社会全体が善意に満ちていると思えれば、ミスをしてもフォローがあると信じることができる。安心感があると精神的に余裕ができる。子育てなどしていれば尚更である。
誰も助けてくれない。全て起きたことは自己責任である。そんな世の中だとしたら荒み切っていると思う。間違えてもいい。誰かが助ければいいのだから。
善意が悪意と解釈される状況がある。関りあいになると損をするから、見て見ぬふりをする。気がつかなかったのだから仕方がないという理屈である。
善意で倒れていた自動二輪を起こしてあげたら、持ち主がちょうど来て損害賠償請求されたりする世の中である。だから倒れた二輪車など放置するのが基本である。面倒に巻き込まれたくないからである。
何年か前に、中国で死にかけていた人を通行人が全員スルーしている場面を捉えた監視カメラの動画が話題になったことがある。
「あれは酷い」と口にした人は、その場にいたとしたら助けたのだろうか。甚だ疑問である。
善きサマリア人の法。こんな法律が必要なのである。
能動的に悪いことをしなければ法に裁かれない。死にかけた人を放置しても、関わったほうが損をするなら見捨てるほうがよい。そんな価値観が生まれているが、それは個人主義なのではない。
ただ単に、責任を取らされるのが嫌だから逃げているだけなのである。必死に助けようとした結果、もし亡くなったら処置に問題があったと訴えられる危険がある。
果たして、責任を他人に押し付けるのを止めたら、他人の善意に甘えられる世の中になるのであろうか。
それも疑問であるが、他人の不注意に寛容な社会のほうが、息をするのが楽であるのは間違いない。
言い訳をするなら、社会が寛容でないから他人の危機との関わりを避けるのである。
約1000文字 約30分所要
日記というか、今日あった出来事から感じたことである。特段こうすべきだと強く主張しているのではない。ただ、息が詰まる世の中だなと、なんとかならないものかなと、思ったことを書いただけである。