文章練習

思いつくままキーボードでカタカタ

どうしたら弱者は報われるのか(考える過程において、この問いそのものが変化する可能性がある)

カタカタしよう。

昨日は、あまりの眠さにPCを前にしながらダウンした。

今日も下書きせずに考えながら書くから、読みにくく何を言っているのかわからない文章になるかと思う。

俺の認識では当ブログは日記帳であって、思考をアウトプットする場であるから、最終的なまとまった文章での発信は別のブログで実名にて行うつもりである。

 

前回書いた内容について

やはり、「弱者」というワードが自分にとってのキーなのである。

弱者について非常に興味がある。

弱い者は強い者を憎むしかないのであろうか

憎しみを理性で押さえつけるしかないのか。だとしたら、報われない。

もし、それしか方法がないのであれば、俺が弱い人間の立場だったとしたら、できるだけ社会に関わらずに自分だけの世界に逃げ込みたくなる。

もし自分が弱い立場だったら、という視点でものを見るのが寛容性なのだが、独善的で自身のものの見方に疑問を覚えない無謬主義的な考えをもつ人々が世の中には多いのである。

たとえば、男性弱者への「かわいそうだ」といった見下しや、その歳で結婚できないのは何か人に言えない性癖があるに違いない、といった勝手な決めつけである。

キモくて弱いオッサンを本能的に警戒する女性の立場は理解できる。べつに男性弱者を差別をするなとか、優しくしてあげなくてはならないと主張しているのではない。

好意ではなく純粋な善意を勘違いされては困るという、彼女らの言い分はもっともだからである。

弱者の苦しみに寄り添い配慮するのと、弱者を受け入れるのは別のことだからである。

弱者を取り巻く環境に対して批判めいたことを言いたいというより、どうしたら弱者は報われるのかを考えたい。

 

どうしたら弱者は報われるのか(考える過程において、この問いそのものが変化する可能性がある)

人は知らないことを書けない。ある意味において俺は男性弱者であるから、自身の知る限りにおいて書くことができる。知ればさらに深く書くことができる。

知らなくとも当てずっぽうで答えたり、推量して答えることはできるが、詳細に書くことはできないのである。

知っていることとは、本などで学んだことでもよいのだが、それだけでは不十分である。

架空の漫画家、岸部露伴が言うように、好奇心をもって、目で見て、耳で聴いて、味わってみないとわからないことが世の中には膨大にあって、それらを経験しないとリアルなことは書けないのである。

(学問の世界でいえば、フィールドワークをせず金枝篇を著したフレイザーは「書斎の学問」と批判をうけているが、著書そのものは非常に高い資料的価値があると評されている。前回のようにネットで少々調べた程度だと、ほんの上辺をさらって知った気になったにすぎない。その結果、コンビニ袋のようなペラペラしたものしか書けないのである。重厚な内容を書くなら、その分野に関する情報を死ぬ気で集める覚悟が必要だと個人的には思う)

 

ネットで調べた情報をそれっぽくまとめた記事は確かに便利だが、筆者自身が問題に直接関わっていないので明らかにリアルティが不足しており、述べる結論もコンドームのように薄っぺらいのである。

その点、実際に行動して経験している人の発信は地に足の着いた実際的な内容であって、揺るぎの無い信念に基づいた発言をしている。考え方は違っていても尊敬に値する書き手なのである。

テーマなどというと、社会問題や環境問題のようなビッグなことばかりに目が向くかもしれない。あちこち取材して人から話を聞いたり、文献を調べたりとしなくては確かなものを書けないのではないかと不安になるものである。

しかしテーマは身近に潜んでいる。むしろ身近だからこそ知っているので書けるのである。

自分には特別な経験や知識などないので、何も書けないのかというとそうでもない。

誰しもが人生を送っている。多感だった頃の記憶を探りあてると、死ぬほど悩んだ問題を思い出すかもしれない。あるいは日々の暮らしの中で感受したことを書くのもいい。

どんな問題であっても、好奇心をもって興味深く観察し、実際に関わると輪郭が浮かび上がってくるのである。

自分の人生など特別ではないと思い込んでいるだけで、竹内まりやが歌うように毎日がスペシャルなのである。書くべきことなど石ころのように辺りに落ちているのである。

 

好奇心をもったら深く知ろうとする。

面倒くさがらない。

丁寧に。

焦らない。

簡単に、効率よく知ろうとしない。興味の赴くまま、ゆっくりと時間をかけて知るうちに詳しくなるものである。

勉強だと思わないことである。知らなくてはならないと思わないことである。好きで、いつのまにか知っていた、くらいがいい。

みんなは関係ない。自分が本当に心の底から好きか、その問題に関心があるかを問い続けるべきである。

 

と、今、自分に言い聞かせているのである。

 

約1900文字 約2時間所要

弱者を救う方法を考えているのではなく、どうしたら報われるのかを考えようという試みである。

弱者、強者という主観的、客観的な認識や定義もない概念をどのように分類し、弱者が報われる方法を考え出すのは俺には荷が重すぎる。人類が滅亡しないかぎり解決するような問題ではないと思える。

しかし試みるのは大切である。

 

試みの地平線を思い出してしまった。

「ソープへ行け」

女にモテずに童貞拗らせている男性弱者にとっては、まさに金言である。

 

 

 

社会問題を書くのは、なんかヤバイぜ

カタカタの時間である。

本日のテーマは、ちょっと迷ったのだが、「男性弱者論」について語ってみる。

ここ数年前から、男性弱者というワードを目にするようになった。

きもくて弱いオッサンが、自身を指して使うワードだという。

 

何日か前に、著名な人物が社会的地位のある女性に対しSNS上で侮蔑的な内容の書き込みをしていた問題が記事になっていた。

女性蔑視について簡単に調べたら、男性弱者というワードが引っかかった。

男性弱者とはなんであろうか。あまりこの手の社会的問題にはタッチしない方針なのだが、自分なりの理解の範疇で探ってみよう。

まず俺の立ち位置を明らかにしておくと、男性弱者側でもないし彼らに批判的な立場でもない。考えながら書くから結論はでない。だしたくもない。

 

ネットを徘徊して理解した範囲でだした俺の考え

男性弱者のつらさに寄り添う姿勢は大切である。しかし、男性が「自分らは当然優遇されるべき」だと無意識に信じているのなら、その点は是正されるべきである。

<男性の人生はつらい=女性の地位改善はおかしい> という間違った結論を生み出すからである。

本来なら自分たちのものであった様々な権利を、女性が弱者という体で横取りしたという認識だからである。

男性弱者のつらさは、男性の社会イメージと現状のギャップだと指摘する人もいる。

男は仕事ができてナンボ、見た目が悪くても高収入なら立派である、男は甲斐性、こんな言葉が優秀で強い男性の社会イメージとして実際にある。

自分自身が非正規雇用で低収入だったりすると、男性に要求される社会イメージとギャップがあるため苦しむ。

婚活でも、男性に最も必要とされるステータスは年収である。年収が低くても結婚相手を探せる女性に対して、男はまず年収で判断される。だから女性は優遇されている、ズルいというのである。

「女はズルい。女性というだけで配慮されて、結婚しても一家を養う経済的責任がないのに、男性側の人柄も知ろうとせず年収だけで人を判断するのか」というわけである。

 

本来なら、男性弱者は椅子取りゲームの勝者である男性強者に対して怒りを感じるのが筋ではあるが、実際にはそうではない。その代わり、怒りはある意味同じ属性である、高収入を得て自立し、社会的地位が高い(独身)女性に対して湧き上がってくるのであろう。

多くの男性にとって、女性は自分を脅かすライバルとしての存在ではなく、自分を支えてくれる存在であってほしいという願望がある。

だから自分より仕事面で優れていてはならないのである。

同様に、男性弱者には女性というものは見た目や年収ではなく優しさなどの人柄を重視して男を選び、無償の愛を注いでくれる存在であるべきだという願望がある。

だから、年収で男を選ぶ女を毛嫌いするのである。

一部の男性弱者は収入もコミュニケーション能力も低くて結婚ができないのは根本的に世の中が間違っていると思っていて、その恩恵に与ってる女性を隙があれば攻撃したいと考えている。だから女性に侮蔑的な行為をするのだろう。

具体的にどこが間違っているというのではなく、抽象的にそう考えている。女性というのも特定の誰というのではなく、イメージである。

その認識が誤っているとか、理屈が間違っているとか、そういう問題ではない。これらは感情論なのである。

だから、いくら正論を言っても聞き入れない。

人間の本質として、他人を攻撃したいのである。自分が上手くいかない理由を誰かのせいにして憎むのが人間なのである。

だから、男性弱者が女性蔑視する気持ちは理解できる。人間の性なのだから仕方がないのである。

問題は侮蔑的な発言や書き込み行為である。これらは許されない行いであって、理性にてコントロールされなくてはならない。

自分がされたら嫌なことを人にはしないのが法であるし、社会の道徳である。

なぜ彼らが女性蔑視するのかを考えると、社会における男性像とのギャップの大きさが理解できる。彼らが苦しむのは、彼らを含めた社会全体のイメージによるものが大きいのである。

社会全体が変わらないと、この問題は解決しない。

だから、男性弱者側を執拗に正論で追い詰めるのも間違っている。

そんなことで絶対に解決するとは思えないのである。

社会全体に寛容の精神があればいいのだが。

 

1700文字 約2時間所要

社会問題を書くのは割と勇気がいる。炎上するかもしれないからである。こんなクソみたいな文章でも、ネットにつなげれば誰でも読めるのである。

たまたま検索で引っかかって、SNSに晒されたらアウトである。

男性弱者、女性蔑視というワードに、素通りできない迫力があって、どうしても書かざるを得ない気分だった。動機はそれだけである。深い意味はない。

 

 

 

プロに幻想を抱かないほうがいい

カタカタの時間がやってきた。

今日のテーマは決めていない。本日の出来事を書いてみよう。

 

客からすれば、プロが神経質なのは幸いである。

プロからすれば、客が神経質だと不幸である。

 

 

友人が突然現れた。彼はアポイントなく現れるのが常套手段となっているので、驚くことはなかったが、大抵はロクな用事ではないのである。

要件は愚痴話である。彼は最近車を購入したのだが、不具合だらけで腹が立っているのである。

中古の珍しい車である。外観の程度が良く一目見て気に入り購入したのだが、その後の販売店の対応が酷いというのである。

不具合を指摘すると、販売店はごねることなく修理をしてくれるのだが、直っていない。それが数度もつづき、挙句の果てに部品を取り寄せてから高額な工賃であることが判明したのだという。

納得がいかず懇意にしている修理屋に診てもらうと、交換しようとしている部品は問題なさそうだとのこと。故障に関係ない部品交換に、危うく高額な修理費を支払うところであった。販売店の対応は悪くなかっただけに残念だったとこぼした。

 

俺は一通り話を聞いてから、純粋な興味で尋ねた。

「そもそも、なぜ、その店の言い分を信用したの? 店の説明におかしな部分が多い。話通りなら販売店の過失も大きいし、販売店が外注している工場の腕が悪いと見破れたと思う。なぜなら、普通なら直ったかどうか十分に確認してからユーザーに納車するだろうし、工場は直した気になっているだけで、直ってないことにすら気がついていないようだからね」

 

彼はコーヒーカップを握りしめながら言った。

「それはね、販売店~工場とワンクッションあるせいで一回目は見抜けなかったんだよ。しかし二度目から変だなとは思ったのだが、まあ、プロだから任せておけば大丈夫だと思ったんだ。

いままでこんなに酷い店に当たったことがなかったから、まさかここまでダメなプロがいるとは知らなかったよ」

 

俺は深く頷きながら答えた。

「それはそうだね。例えば、トラブルに巻き込まれたら案件に強そうな弁護士を探すけど、その弁護士が有能かどうかは頼んでみないと判らないからね。

自分が専門ではない分野では、資格を所持したプロというだけで力量を信じるしかない部分がある。仕事を任せてからしばらく経たないと能力や技量が測れない分野もある。

だから知り合いに紹介してもらうのだが、運悪く必要な分野の知り合いがいるとは限らない。そうすると飛び込みで探すしかないが、当然ながら当たり外れがあるんだ。つまり、プロにもピンキリがある。プロだからといって幻想を抱いてはいけないんだ

自分の知るレベルを超えると、果たして技術があるのかどうか見破るのは難しい。そのプロがいう内容の真偽がその場で確認できないからだ。だから、ああ、そういうものかと信じるしかない。自身にとってブラックボックス以外の何物でもないものを扱えるというだけで優れていると思い込んでしまう、つまりバイアスがかかってしまうんだ。

よりよい決断をするなら、医療以外の分野でもセカンドオピニオンが必要だと思うよ」

 

我が意を得たりと膝を叩いて言った。

「プロにもピンキリある。その通りッ!」

「まさにそのキリのほうかと、一応自分でも工場の評判を調べてみたのだが悪くないんだ。高評価なんだよね。なんであの技術レベルで評判が良いのか不思議なのだが、実際にそうなんだ。

それに、そもそもリサーチしたところで意味がない。なぜなら、その工場と交渉するのは俺の仕事じゃない。販売店の仕事だ。要は、最終的に直ってさえいれば俺は文句ない。どの工場で修理したとか関係ないんだ。

最後に車を取りに行ったときになんとなく感じたのは、どうやら工場のほうが立場が上なような雰囲気だったんだ。外注先のほうが威張っているなんて奇妙な話だが、おそらく仕事を受けてくれる工場が少ないんだろうな。車が特殊だから」

 

「いくら特殊な車を扱っていても、応急処置レベルの修理すらできないのではな。人柄云々の前に技術力がないとね。

いい加減な作業していても仕事が途切れないから販売店ナメてんのか、マジで技術不足なのかは謎だけど、どちらにしてもユーザーの立場としてはこれ以上、その店に任せたくないよね。

これは俺の仮説なのだが、飛び込みで入った車屋がまともな確率は10パーセントしかない。10件に1件だ。当たりを引くのは運が良くないと難しい。まったく根拠となるデータはないが、俺の経験上、体感的にそんなもんだと思う」

 

「話を聞いてくれてありがとう。誰かに話さないとイライラしてね。だいぶ楽になったよ」

言いたいことを言ってさっぱりしたら、彼は嵐のように去っていった。

空になったコーヒーカップだけが虚しくテーブルに置かれていた。

畜生、俺の自由時間を奪いおって。

 

約1600文字 約1時間10分程度所要 初めてのダイアログによる記事である。

これは数時間前にあった実際の出来事である。

プロだと思ったから信用する。自身が専門家(スペシャリスト)として活躍している人間こそ、業種は違えど自分と同じプロとして見てしまう。

プロは職業として生業にしているというだけで、技術を担保するものではないにも関わらず幻想を抱いてしまう。とくに趣味性の強いジャンルに対しては、同好の士として信用してしまいがちである。

 

騙すつもりはなくとも技術が追い付いてないことがあって、悪気はないのは分かるが酷いよね、といった案件が割と多いのである。

 

 

 

 

 

 

自分語りが苦手な人

カタカタの時間である。

今回は趣向を変えて、制限時間を設けることにした。40分である。

タイマーは既に動き始めている。

 

今日のテーマは、「自分語りが苦手な人」である。

あなたの周りに、自分の感情だとか過去の話をしたがらない人はいないだろうか。

過去に背負い込んだものがあったり、内気で人との交流が苦手だったりと理由は考えれば想像はつくのだが、少数派なのは確かである。

かくいう俺も、自分語りが苦手な人種である。

頭の中でもう一人の自分と饒舌に話しているので、たまにポロっと口にだすことはある。しまった、言い訳するのが面倒だなあと思いながら、その場を取り繕うのである。

意見を求められても積極的に話さないので、周りからはバカな奴だとか、なにも考えていない奴だと思われているかもしれない。

ダミーの意見や感情があり、本心を吐露するのには抵抗がある。素直な感情を伝えるのが苦手である。

自分がベラベラと得意げに話している姿をメタ視点で眺めたときに、恥ずかしさのあまり自分に腹が立つのである。鏡の中の自分を殴り、記憶から消し去りたい。そう思うのである。

他人に放った言葉が山彦のように跳ね返り、時間差で追いかけてきて心を蝕むから、苦しむ原因を作りたくない一心で「話したくない」と自己暗示をかけている。

なのに、無言に耐えられない。攻めには受けられるが、相手が受けだとこちらから動いてしまうサービス精神があって、話したくないのにも関わらず義務感をもって話しかけるのである。話したくないのに、自分から勝手に話しかけて疲れるのでは世話がない。

なるべく簡潔に済ましたいのだが、相手がわの納得感を気にするあまり、言い訳じみたことや謝罪の言葉を述べてしまう。話す前には、余計なことを言わないようにと念じているのだが、相手の顔色を窺ってしまう。

相手の機嫌と自分の話す内容を強く結びつけてしまうのである。その自身の弱点にとっくに気がついているのに克服できないから、せめて話す機会を減らそうと努力している。

言葉数少なく、話したくないときに無言を貫ける人が羨ましい。

 

相手の話を聞いているのは楽である。ラジオを聞いているようなもので、一方通行であれば返事もせず済むからである。

興味ないからと、ラジオを消すように無視するのはマナー違反だから、ある程度は真面目に聞かなくてはならない苦痛はある。楽しい話なら聞いていたいが、どちらにしても人の話を聞き続けるのは疲れるものである。

その苦痛を他人に与えたくない気持ちもある。俺に興味をもって話を聞きたい人間もいるだろうが、話したところでストレス発散にはならない。書くほうが発散になる。

それに文章なら、いやになれば読むのを止めれば済む。ところが、話しはつまらないからと途中で聞くのを止めるわけにいかないから厄介である。

1100文字 40分所要。

手や足を動かしながら自問自答している時間が好きである。

ラジオなどの一方通行のコンテンツも好きである。

嫌いじゃないけど苦手なのはコミュニケーションである。相手がいると思うと考えすぎて疲れるからである。一人の時間がないと、たぶん死ぬ。

 

他人の善意に甘えられる社会

カタカタの時間がやってきた。手短に済ます予定である。

今日のテーマは、他人の善意に甘えられる社会である。

俺を取り巻く社会全体に息苦しさを覚えることがある。

僅かでも落ち度があれば責められ、不用意な行動の代償は高い。

個人の権利を尊重するあまりに、親切が仇となるケースが多い。

 

本日あった出来事を書く。

クルマで移動中の出来事である。交差点で信号待ちをしていたら、歩道に1,2歳の子供を連れた女性がいた。子供がガードレールの真ん中のフレームを乗り越えようと片足を踏み込んでいるのに、母親はスマホに夢中で気がついていない。俺は信号が変わるその時まで見守ることにした。

少しでも車道側に入ったら「あぶないよ!」とMAXパワーの音量で叫ぶつもりで身構えた。

仮に面倒に巻き込まれようが、そんなのは関係なかった。それよりも子供の命のほうが大切だからである。

幸い母親が気がついて、子供をガードレールから引き離して移動しはじめたので、ほっと胸を撫でおろし交差点を後にした。

この母親のミスを責める気など毛頭ない。それよりも、子供が危険だと気がついた者が見守ればよいのである。

社会全体が善意に満ちていると思えれば、ミスをしてもフォローがあると信じることができる。安心感があると精神的に余裕ができる。子育てなどしていれば尚更である。

誰も助けてくれない。全て起きたことは自己責任である。そんな世の中だとしたら荒み切っていると思う。間違えてもいい。誰かが助ければいいのだから。

 

善意が悪意と解釈される状況がある。関りあいになると損をするから、見て見ぬふりをする。気がつかなかったのだから仕方がないという理屈である。

善意で倒れていた自動二輪を起こしてあげたら、持ち主がちょうど来て損害賠償請求されたりする世の中である。だから倒れた二輪車など放置するのが基本である。面倒に巻き込まれたくないからである。

何年か前に、中国で死にかけていた人を通行人が全員スルーしている場面を捉えた監視カメラの動画が話題になったことがある。

「あれは酷い」と口にした人は、その場にいたとしたら助けたのだろうか。甚だ疑問である。

善きサマリア人の法。こんな法律が必要なのである。

能動的に悪いことをしなければ法に裁かれない。死にかけた人を放置しても、関わったほうが損をするなら見捨てるほうがよい。そんな価値観が生まれているが、それは個人主義なのではない。

ただ単に、責任を取らされるのが嫌だから逃げているだけなのである。必死に助けようとした結果、もし亡くなったら処置に問題があったと訴えられる危険がある。

果たして、責任を他人に押し付けるのを止めたら、他人の善意に甘えられる世の中になるのであろうか。

それも疑問であるが、他人の不注意に寛容な社会のほうが、息をするのが楽であるのは間違いない。

言い訳をするなら、社会が寛容でないから他人の危機との関わりを避けるのである。

 

約1000文字 約30分所要

日記というか、今日あった出来事から感じたことである。特段こうすべきだと強く主張しているのではない。ただ、息が詰まる世の中だなと、なんとかならないものかなと、思ったことを書いただけである。

 

主に聞き手側に回る立場からの本音を話そう

さて本日もカタカタの時間である。

つくづく思うことがある。

誰しも、自分の話を聞いて欲しくて仕方がないのだなぁ、ということである。

聞いてくれるなら延々と話し続けたい。自分の考えや身に起こったことを聞いて欲しくてたまらない。

だから傾聴してくれる人を欲している。

邪魔が入らず自分語りするのは、多くの人にとって快感である。もしかしたら、脳みそから麻薬に近いものが分泌されているのかもしれない。

聞き手が黙して聞く姿勢であって、ときどき頷き同意してくれて、肝心なところで響く返答があれば尚更である。

これから書くのは、主に聞き手側に回る立場からの本音である。

とくに真剣な悩みや悲しい話をよく聞いてもらっている人は要チェックである。

 

当事者にとっては真剣な話であっても、部外者から見たらどうでもいい話なことが多い。じつは真剣に聞いているようで、聞き手はそれほど本気で考えていないのである。

あるいは、頑張っているのに結果がでないといった話は、場合によっては喜劇のようだと思っている。

真剣に問題と対峙しているのに、歯車が噛み合っていない姿が滑稽に映るのである。

話し手のあらゆる部分に注目し想像するのである。

話す姿からも想像できるし、断片的な情報からも推量できる部分がある。

足りないピースを脳内で補完しながら、その状況を考えてみるのである。

主観的な真実と客観的事実の乖離が面白いのである。わかりやすく言えば、どれだけ話を盛っているか、実のところと本人の認識がどれほどズレているかのギャップを楽しむのである。

見栄っ張りは、話していてすぐに判る。チクチクと自慢するからである。

あからさまに自慢はしないのが彼らのプライドのようである。しかし、口(くち)プロレスが大好きなのである。

聞き手に敬意を払っているかのような口ぶりであるものの、知識自慢といったらよいのか自分の得意な分野について語り出すと止まらないのである。自分の知らない分野になると話題を強引にでも変えて話し続けるのである。

よくもまあ、こんなにしゃべっていて口が疲れないなと呆れるほど話し続けるのである。

相談めいた自分語りもある。いかに周囲が酷くて自分が不当な扱いを受けているかをのべつ幕無し語り続けるのである。で相談は?と促さないと、いつまでたっても本題に進まないくらいに自分の不幸について延々と話が続くのである。

客観的に判断して「こうしたほうがいい」という結論があっても、その通りに行動しないのが人間の性である。なので意見を求められない限り発言しないほうがいい場合が多い。忠告をしたのに無視されたようで気分が悪くなるからである。

老婆心ながら忠告することもあるが、たいていは聞き入れられない。以前は軽く見られているのだと落ち込んだものだが、最近はどうでもよくなった。

忠告だけはした。あとは知らん。そんなスタンスである。

共感だけして欲しい。アドバイスはいらない。ネットではそういう意見が多い。それならお望み通りに傾聴だけしよう。

しかし、こちらも人間である。

話がよほど面白くないと飽きてくるし、正直疲れるのである。

本当に精神的に参っていて話を聞いて欲しいなら、職業として専門的な傾聴技術をもった医師にした方が良い。

こちらはカウンセラーではないから、話を聞きながら自分なりのフィルターを通して面白おかしく脳内変換している。黙って聞いているし共感もするが、すべての意見に同意しているわけでも、話しを全て信じているわけでもないのである。

話をじっくり聞いてくれるあの人の優しい顔は表側であって、神妙な面持ちの裏では話し手であるあなたのことを笑っているかもしれないのである。

二面性こそが人間なのである。

 

1400文字 40分程度所要

ざっと書いて終わり。しばらくは忙しくなるのでブログに時間を割けなくなった。

書くのは続ける。

人の話は半分に聞いておこう

体が言うことをきかない。ガタガタだ。

元々体が弱いので、疲れやすく病気になりがちなのだが、年齢的なものもあるのか寝ても疲れが取れなくなった。

じっくりと取り組みたいが時間がない焦りがある。休む時間を多くとるほど、パソコンに向かう時間は少なくなる。

仕事をして、残った時間で何らかしらを書く。無駄な時間と思いながらも、俺にはもうこれしかないと書くのである。

 

根本的に取り組む姿勢を変えないとダメかもしれない。そう思えてくる。

とにかく書く習慣をつける。そのために、どうでもいいことでも書く。書く。書く。

言いたいことは山ほどあるのに書けない。仮に時間が無尽蔵にあったとしたら、余すことなく書き尽くせるのだろうか。そうも思えない。書く以前に自己解決してしまうと、意欲が湧かなくなるのである。自分の中で気が済んでしまうと、どうでもよくなる。そんなものである。

ネットで自分の考えと同じことを誰かしらが主張している記事を読むと、既に言及されつくしているなと思う。今さら俺が言う必要性を感じなくなる。発見や新鮮さがないのである。

俺だけのオリジナルな意見はあるのだが、所詮誰かの意見の二番煎じなのである。同じ人間が考えることなど大して違いはないのである。

 

4000年以上前から、人間についての大抵の問題は考え尽くされている。

なのに、解決している問題など殆どないのである。

本を読んでも、既に研究され尽くした成果を学ぶだけで、自分で考え付いたことなど何もないような気になる。

いや、以前から考えていた問題については、既に研究成果と同じ答えに辿り着いていたことは沢山ある。当然そういうときは理解が早い。

しかしそれは研究して得た答えではなく、あくまでも直観した答えである。たまたま答えが同じだっただけと考えるべきだろう。しかもそれが完全無欠の絶対的な正解ではない。学問においては、絶対不変の正しさはあり得ないと思っている。

ただ単に、蓋然性が認められるというだけである。

論理に矛盾がない。自然科学なら実験すれば再現できる。だから今のところ間違いなさそうだ、というだけであって、「絶対に正しいから不変だよ」というわけではないのである。

定説を覆す批判も必要である。いかなる意見であっても、それが学問の発展に繋がるのなら受け入れるべきである。

根拠を示し論理的に矛盾してなければ、他の説を唱えてもいい。あとは論文を読んだ人が内容を判断して決めればよいのである。論理が破綻していると判断されればトンデモ論となるだけである。

理論ではなく仮説であれば、ぶっ飛んだ説も面白いと思う。後でそれが実は正しかったとされたケースも実際に多いからである。

ただ、すべての人が判断できるほど簡単な内容ならともかく、専門知識が必要な論理が殆どである。専門家が判断して、これは世の中に広がると誤解を与えると思うなら徹底的に批判されるべきだとも思う。

オカルトを徹底的に批判していた大槻教授は、そういう意味でスゴイ人である。まさに学者である。一応言っておくが、俺はオカルトを否定しているのではなく、大槻教授の姿勢を評価しているのである。

批判といっても「ダメだよ」という批判ではなくて、クリティカルシンキングの意である。

心理学等の論文を引用して、何らかの意見を主張する人にも気をつけたほうがいい。

論文の内容だってピンキリである。精査され批判に耐えまくったものから、蓋然性の低い論文もある。論文を有難がらないほうが身のためである。

批判といっても、何から何まで疑えって話ではなく、まずは主張をフラットに肯定するところから始める。ケンカ腰じゃだめである。

そのうえで、おかしなところがないか考える。主張は受け止めるが信じるわけではないというスタンスである。

正解のない問題こそ、あの手この手を使い、信じ込ませたい内容を信じさせようとする輩がいる。

尤もらしい、耳に心地の良い論理は信じたくなるのである。

この世の真実を知ったような気がしているだけで、都合良く事実を歪ませた作り話を信じ込んでいるだけである。

 

約1600文字 2時間所要

書いているうちに方向があれよこれよと右に左に泳ぎまくり、結局はオンラインサロンやYouTubeで稼ぐインフルエンサー等の主張をクリティカルシンキングしましょうみたいな内容に落ち着いたのである。

本来話したい内容ではなかった。

文章も生き物だから、時々フラフラと明後日の方向に進むものである。